日光東照宮の歴史(年表)

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日光東照宮の歴史(年表)

はじめに

日光の歴史は浮き沈みを繰り返しているが、おおまかな要点を簡単に説明しておくと次のようになる。

勝道が創建した草庵が日光の社寺の起源

766年(天平神護2年)に修行僧の勝道が日光山の麓にある大谷川の川辺に質素な草庵を結んだことがキッカケで、日光は神仏信仰の霊場として注目を浴びることになる。

日光山輪王寺の起源

この勝道はこの草庵で寝起きを繰り返しながらの修行の最中、男体山の神からの霊験を感得し、結縁に至る。その後、「紫雲立寺」という名前の寺院を現在の滝尾神社付近に建立する。その後、この寺は「四本龍寺」へと改称し、一時、「満願寺」という寺号を経て、現在の「輪王寺」へ至る。

日光二荒山神社の起源

767年(神護景雲元年)に自らの草庵付近に男体山の神を祭祀するための祠を築いているが、この祠こそが現在の二荒山神社の前身となる「本宮神社」である。

太閤秀吉に領地を接収され日光は衰微する

1590年(天正18年)に太閤秀吉(当時は関白太政大臣)の小田原性別‥‥ではなく、小田原征伐により、当時、関東一円を支配下においていた北条氏(後北条氏)に対し、日光山内の衆僧が加勢する。
しかし
この戦では北条氏が敗れて滅亡する。この戦後処理として、日光山内の領地は接収されることになり、日光は没落し荒廃する。

徳川家康公の霊廟が日光に造られたことで再び繁栄する

星霜経て、1617年に徳川家康公の遺言により、日光山内に家康公の御霊を奉斎する東照社が創建されると、今度は徳川将軍家、ならびに江戸幕府から多大な庇護を受けるようになる。これにより、日光の地は再び繁栄を極め、この様相が現在に至る。




有史以前

奥日光をふくめた日光山一帯は16カ所にもおよぶ縄文遺跡や弥生遺跡が見つかっており、その遺跡からは集落跡や土器も発見されている。

また、石のヤジリも発掘されていることから、古くから草花が茂り、樹木が林立し、狩猟対象となる動物が生息していたことを物語ってい‥‥‥申す。

現在までの調べによれば、日光山には「マタギ」たちが暮らしていたとされている。

「マタギ」とは、デコに手鍋を乗せて沸騰させるほど、篤く熱く…熱っ! 山の神を信仰していたことから、古くから日光山には山岳信仰のような信仰が根付いていたとみられている。

男体山と戦場ヶ原伝説

これは日光二荒山神社の中宮祠の伝承にもあるのだが、マタギたちが所蔵している秘巻『山立根本巻』『山立由来之巻』によるとこんな話が残されている。

清和天皇の頃(850~881年)、上野国の赤木明神と下野国の日光権現とが互いの領地拡大をめぐって争いを繰り広げた。

しかし、大蛇の姿をした赤木明神は圧倒的な力を誇り、力の差をさとった日光権現は完全ノックアウトされる前に白鹿に化けて跳ね飛びながら野山を下った。

白鹿に化けた日光権現が日光山の麓まで来たとき、万事万三郎という猟師(もしくは小野猿丸/おののさるまる/とも)に出会うのだが、その者が弓の名手でだということを知る。

そこで万事万三郎の協力を仰いで随従させ、威勢を取り戻した日光権現は再び、赤木明神のもとへ馳せ参じる。

赤木明神の喉元まで来たとき、万事万三郎は自慢の弓を引きつがえ、赤木明神の両目を射抜くことに成功する。

あまりにもイタさに参った参って参りんコ‥‥状態に陥った赤木明神は颯爽と自分の寝ぐら(領地)へと退散する。

涙ながらに勝利を喜んだ日光権現は万事万三郎に対し、その謝礼として「山立御免(日本全国どこの山でも自由に狩猟できる免許)」を与え、これが日光派のマタギの始まりとされる。また、万事万三郎はその始祖と云われるようになる。

なお、この巻物が成立したのは1193年(建久四年/鎌倉時代)頃であり、この巻物の内容によれば、万事万三郎は天智天皇の末裔と記されてい‥‥‥申す。

奈良時代

※表はタップで左右に動かせます※

年号出来事
735年(天平7年)4月21日勝道、下野国芳賀郡に生を得る。(俗姓は若田)
762年(天平宝字6年)勝道、下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受ける。(僧侶になる)
765年(天平神護元年)僧侶の勝道、出流山満願寺(栃木市)を開創す。
766年(天平神護2年)僧侶の勝道、大谷川の川岸に小さな草庵を結ぶ(草葺きの小屋を建てる)。
勝道が毎朝、礼拝石に座って霊峰・男体山の神を拝んでいると、突如、紫の雲が立ち昇って東北の空に吸い込まれる。
東北の地へ向かった勝道は紫雲石を見つけ、霊験を見出した勝道はこの場所に紫の雲が立つ寺として千手観音像を安置し紫雲立寺」を創建する。
紫雲立寺は後に四本龍寺へと改称する。(改称した時期は不明)
767年(神護景雲元年)4月上旬僧侶の勝道、男体山(2,486メートル)へ最初の登頂を試みるが失敗に終わる。
767年(神護景雲元年)勝道はこの頃、大谷川の北岸に二荒山大神(御神体は男体山そのもの)を奉斎(礼拝)するための祠を築く。
この祠こそが本宮神社(旧・日光二荒山神社の本宮)となる。(※ただし現在は別宮。本社は新宮として現在地に鎮座)の起源となりうるもの。
781年(天応元年)4月上旬僧侶の勝道、再び男体山への登頂を試みるが失敗に終わる。
782年(延暦元年)3月僧侶の勝道、3度目の正直で登頂を試みる。そしてついに男体山登頂が成功す。その後、山頂にて37日間、男体山の神霊を礼拝す。
このとき男体山山頂に奥宮(奥社)を創建す。
※二荒山神社の奥社(二荒山神社、滝尾神社、太郎山神社)
男体山山頂に滞在した勝道は、この男体山を「補陀洛山(ふだらくさん/観音菩薩の降臨するとされる伝説の山)」に例えて「二荒山(ふたらさん)」と名付けている。
「二荒」を音読みすると「ニコウ=日光」とも呼ぶことから星霜経ながら訛りが生じ、これがやがて「日光」の地名の起こりにつながったと云われる。
784年(延暦3年)僧侶の勝道、中禅寺湖の湖畔に「神宮寺(現在の中禅寺/輪王寺別院)」を創建し、千手観音を奉安す。(神宮寺の場所は現在の中宮祠の社地(場所)だったとされる。明治35年の大山津波を期とし、中禅寺だけが中禅寺湖の歌が浜(現在地)へ移転した。)
なお、この神宮寺は冬季の男体山遥拝所として建てられたという説がある。(往時は冬になると中禅寺湖から下山していた)




平安時代

年号出来事
795年(延暦14年)以降勝道、上野国(群馬県)の講師に任命され、「上人」の称号を授与される。以後は上野国分寺(現在は上野国分寺跡)に滞在す。
807年(大同2年)勝道上人、下野国司・橘利遠(たちばなのとしとお)より懇願により、男体山にて祈雨を執り行い成功させる。
その功あって「伝灯法師位」の僧位が授与される。
これ以後、干ばつが起こった際は男体山を拝しての祈雨が執り行われるようになる。
808年(大同3年)下野国司の橘利遠が朝命により本宮神社の社殿を創建す。山菅の橋(現在の神橋)を架橋する。(祈雨祈祷の謝礼)
810年(弘仁元年)勝道上人が開創・創建した神宮寺ならびに四本龍寺に「満願寺」号を賜る。以後、寺号を「満願寺」へ改称す。満願寺は現在の輪王寺の前身寺院。
814年弘法大師空海が「二荒山碑文(勝道上人伝記)」を著する。
816年(弘仁7年)4月勝道上人、日光山内に山頂に築いた三社大権現(本社(新宮)・本宮神社・滝尾神社)を勧請(かんじょう/まねく)する。
本宮神社から少し離れた場所に社殿を建てて新宮とし二荒山の神を祀った。
自らの草庵近くに築いた祠(本宮神社)には新たに御子神である太郎山の神を祀った。(草庵を本宮神社として太郎山の神を祀ったという説もある)
このとき新たに建てた現在の本社、元の本宮神社、そして滝尾神社は総称して「日光三社」と呼ばれる。
前述の四本龍寺を含め、これら勝道が創建した社寺群が日光山繁栄の礎となる。これ以後、日光は神仏信仰の聖地として繁栄をきわめていく。
817年(弘仁8年)勝道上人四本龍寺の北にある岩窟(仏岩)にて83歳で死去す。
平安時代829年〜33年(天長6年〜10年)、慈覚大師(円仁)が来山、三仏堂(現在の輪王寺本堂)を建立す。
輪王寺の寺伝では848年(嘉祥元年)に創建したと伝えられる。
836年(承和3年)下野国二荒山神社(日光二荒山神社)に正五位下が授けられる(869年には正二位となる)
1000年(長保2年)この頃、成立した枕草子の中に「橋は、山すげの橋‥」といった記述が見える。(この頃にはすでに神橋があった根拠となる)
1145年(久安元年)常行三昧堂(常行堂)にて行法が開始される。
1177年(治承元年)座主の座をめぐり5年の間山内争乱が巻き起こる。四本龍寺などが焼ける。
1185年(文治元年)弓の名手として知られる「那須与一(なす の よいち)」が日光二荒山神社にて祈念し扇の的を射る。

鎌倉時代

年号出来事
1186年(文治2年)源頼朝が下野国寒河郡の田地15町を日光山三昧田として常行堂へ寄進する。
1192年(建久2年)源頼朝鎌倉幕府を開く。以後の日光山は鎌倉武士ならびに幕府の宗教的な信仰の場所として庇護を受ける。関東の鎮守としての地位を築く。
1203年(建仁3年)源頼朝、日光二荒山神社に神馬を奉納す。
1210年(承元4年)弁覚が日光三座主に就任し、熊野修験をもたらす。弁覚は座主の座をめぐる争いで荒廃した日光山を復興す。この頃日光山縁起が成立す。
1292年(正応5年)源恵(げんえ)が天台座主となる。
1308年(延慶元年)源恵の弟子であり、惟康親王(これやすしんのう)の王子でもある「仁澄法親王」が座主となる。以後、皇族の座主就任制度が開始される。
この頃、日光山は修験道の聖地として繁栄をきわめた。
1315年(正和4年)仁澄法親王が中禅寺の大造営を行う。

室町時代

年号出来事
1468年(応仁2年)連歌師・宗祇が日光山へ来山す。自著「白河紀行」に書き記す。
1476年(文明8年)昌源が座主となり、杉・松の樹、数万本を日光山内へ植樹す。(現在は「昌源杉」と呼ばれている)

安土桃山時代

年号出来事
1590年(天正18年)太閤秀吉(当時は関白太政大臣)の小田原征伐により、満願寺は僧兵を派兵するなど北条氏(後北条氏)へ協力す。
戦後、太閤秀吉はこのことを理由とし、日光山衆徒たちの所領を没収す。

江戸時代

年号出来事
1603年(慶長8年)徳川家康公が征夷大将軍となり、江戸に幕府を創設す。
1613年(慶長18年)天海僧正が日光山貫主となる。
1616年(元和2年)4月4月17日、徳川家康公が駿府城(すんぷじょう)にてこの世を去る。(享年75歳)
玉体(遺骸)は本人の遺命により当初は久能山(静岡県静岡市駿河区)に埋葬される。一周忌に日光山へ神霊が奉安されることになる。
1616年(元和2年)5月久能山にて東照社(現在の久能山東照宮)の造営工事が開始される。
1616年(元和2年)11月2代将軍秀忠(ひでただ)公、日光東照社の造営に着手す。このときに輪王寺本堂が現在の日光二荒山神社の社務所がある付近に移築される。
1616年(元和2年)12月久能山東照社(くのうさんとうしょうぐう)が創建す。
南光坊天海総指揮のもと、日光東照宮の造営工事が開始される。なお、創建当初は”東照宮”ではなく”東照社”だった。
(日光東照社もしくは下野東照社とも呼ばれた)
1617年(元和3年)2月2月21日、朝廷より家康公に「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号が授与される。(この時点で家康公が神道式の神となった)
1617年(元和2年)3月日光東照社(日光東照宮)が完成す。
3月9日、東照社正一位に叙せられる。
家康公の一周忌を期して、家康公の玉体(遺骸)が久能山東照宮より日光東照宮へと移される。
行列は3月15日に久能山を進発。
日光山までの小田原・中原・府中・川越・忍・館林・佐野・鹿沼・今市の要所を経由して4月4日に日光山へ到着。すぐさま奥社宝塔へ埋葬される。
(この時の行列は現在「百物揃千人武者行列」として日光東照宮の春・秋例大祭の見世物になっている)
※家康公の墳墓は発掘調査が行われていないため遺骸が久能山にあるのか日光東照宮にあるのか判然とせず。
(現在様々な学説が飛び交っている)
1617年(元和3年)4月4月17日、伊達政宗が東照社に南蛮鉄燈籠を寄進。
1618年(元和4年)黒田長政が大石鳥居を東照社に寄進す。
1619年(元和5年)4月17日、徳川秀忠公が日光社参す。
日光東照社の竣工の法会が秀忠公、臨席のもと17・18日の2日を要して執り行われる。
9月、日光二荒山神社の新宮(現在の本殿)が造営されるに際し、2代将軍・秀忠公の主導により、常行堂・法華堂が現在地に移築される。
1620年(元和6年)3月15日、徳川秀忠公が天海僧正に日光山領と東照大権現社領の朱印状を発行。
6月、山口忠兵衛常信が日光目代となる。
1622年(元和8年)4月、奥院宝塔と石垣の造営が竣工。
4月17日、東照社七回神忌に伴い、2代将軍・秀忠公が東照社へ社参す。
1623年(元和9年)4月17日、第2代目将軍「徳川秀忠」公の次男(のちに嫡男)徳川家光が社参す。
7月27日、秀忠公と上洛の途につき、伏見城にて正二位内大臣の勅授と将軍宣下を受け、徳川家光が第3代目将軍に着座す。

年号出来事
1625年(寛永2年)7月13日、3代将軍・家光公(いえみつ)が社参す。
7月25日、松平正綱が日光山内に杉並木の植樹を始める。
1628年(寛永5年)4月17日、東照社13回神忌。大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光が日光社参。
日光山菩提所妙道院が仏岩谷に建立される。
1629年(寛永6年)4月17日、徳川家光が日光社参。
9月17日、徳川秀忠が日光社参。
神橋の架け替えが執り行われる。
1632年(寛永9年)4月17日、東照社にて17回神忌が斎行される。徳川家光は今市に宿営、井伊直孝が日光へ代参。
2代将軍・秀忠公(ひでただ)がこの世を去る。
1634年(寛永11年)5月2日、徳川家光が東照大権現領と日光領を合わせて7000石を寄進す。
9月、家光公、東照社へ社参す。この折、家康公の21回目の御神忌(1636年)へ向けての東照社の大造替を決意し、発願す。
11月、「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」が開始される。
この大改修によって現在見ることができるような絢爛豪華な社殿群へと一新される。
1635年(寛永12年)5月、天海僧正が日光山に登頂し、東照大権現仮殿遷宮を祈念す。
陽明門の脇の間の正面の随身像が京都七条仏所の康音によって制作される。(背面の風神・雷神も康音の作の可能性が指摘されている)

年号出来事
1636年(寛永13年)4月家康公21回目の御神忌を迎える。徳川家光公が日光社参す。
同時に日光東照宮の大改修工事(寛永の大造替)が一応の完工を迎える。
神橋の造替が執り行われる。
1636年(寛永13年)家康公の御霊(ご神体)の遷座と遷宮が執り行われる。(新造された本殿(社殿)へ移される儀式)
オランダ商館(東インド会社)が東照社へシャンデリアを奉納す。
12月21日、朝鮮使節が日光山へ参詣す。
1640年(寛永17年)4月17日、東照社25回神忌。徳川家光が日光社参をし「東照社縁起」を奉納。
8月、春日局が東照社に社参す。
オランダ商館(東インド会社)がスタンド式灯架とブラケット式灯架を東照社に献納す。
1641年(寛永18年)4月17日、徳川家光が日光社参。
7月、東照社の奥院の石の宝塔の造営が竣工。
9月16日、宝塔の完成供養。
1643年(寛永20年)5月28日、相輪塔が造立される。
7月26日、朝鮮使節が日光山へ参詣。
10月2日、徳川将軍3代の宰相を務めた天海大僧正、江戸東叡山にて入寂す。
10月17日、大黒山(大猷院の隣地)に天海僧正の廟所(現在の慈眼堂)が建てられる。天海僧正の棺が埋葬される。
10月、公海が日光山門跡に就任す。オランダ商館(東インド会社)が東照社へ回転式灯架を献納す。
1644年(正保元年)7月3日、薩摩藩の島津光久が琉球の使節70人を引き連れ日光山に赴く。
1645年(正保2年)東照社、宮号を宣下される。この宣下によって初めて「日光東照宮」となる。
四本龍寺の三重塔が現在地に移築される。
1646年(正保3年)3代将軍徳川家光公の要請により、朝廷より供物を奉上する日光例幣使(にっこうれいへいし)が開始される。
参議・持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮に参向す。





年号出来事
1647年(正保4年)日光例幣使が制度化され、毎年、日光例幣使が派遣されることになる。鉢石町に宿場が築かれる。
4月、持明院基定が最初の日光例幣使として参向す。
三仏堂の造営が成る。
1648年(慶安元年)家康公の三十三回忌が執り行われる。家光公、東照宮へ社参す。
また、松平正信(正綱の子)は家康公の三十三回忌の記念として杉並木寄進碑を建立す。
4月、東照宮三十三回神忌につき、徳川家光が日光社参す。糸割符商人たちは東照宮へ唐銅大燈籠を献上。
1649年(慶安2年)この頃、松平正綱が植樹した参道の杉が生い茂り、杉並木ができる。植樹から24年を経て日光杉並木の様相が成立した。
この杉並木は世界最長の並木道としてギネス世界記録に登録されるに至る。
4月17日、徳川家綱が日光へ社参す。
6月20日、地震により相輪塔が傾く。
1650年(慶安3年)2月23日、徳川家光の病気平癒の祈祷を日光山で行なう。
6月8日、相輪塔を三仏堂の脇に移築し。完工の供養が厳修される。
10月18日、唐銅鳥居唐門が造営される。
12月、酒井忠勝が東照宮に五重塔を寄進・建立す。
1651年(慶安4年)家光公、将軍在位の最中、江戸城にてこの世を去る。
日光・大黒山(天海大僧正の墳墓である慈眼堂の隣地)に埋葬される。徳川家光に大猷院号が勅諡される。
「死後に至ってはこの魂、日光山中に鎮まりて東照公のお側近くに侍り仕えまつらん」の遺言が有名。
1651年(慶安4年)8月18日(10月2日)4代将軍・徳川家綱公(いえつな)が将軍位を継承す。

年号出来事
1652年(承応元年)2月16日家綱公、親父である家光の遺言に則り、大黒山に霊廟(後の大猷院)の造営を開始す。
1653年(承応2年)家光公の霊廟となる日光山輪王寺「大猷院(たいゆういん)」の造営が東照宮近隣地に開始される。
5月、大猷院別当龍光院が創建される。別当職に竹翁が命じられる。
10月14日、わずか1年2ヶ月という期間にて家光公の霊廟「大猷院廟」が落成す。
1654年(承応3年)11月、守澄法親王が日光山貫主に就任す。東叡山(江戸)の貫主を兼務。
1654年(承応3年)〜1657年(明暦3年)東照宮にて承応の修理が開始される。陽明門の屋根が檜皮葺き→銅葺きへ屋根の葺き替えられる。
1655年(明暦元年)満願寺に守澄法親王が入り、朝廷より「輪王寺」号が勅賜される。守澄法親王が輪王寺宮となる。
1655年(明暦元年)10月、朝鮮通信使が東照宮ならびに大猷院霊廟へも社参す。
11月、日光門主守澄法親王に輪王寺宮号を勅賜。
1656年(明暦2年)輪王寺宮門跡が比叡山(延暦寺)、東叡山(寛永寺)、日光山(輪王寺)三山を総括管理する長となることを幕府が定める。
これにより輪王寺宮門跡は絶大な権勢を誇った。

年号出来事
1663年(寛文3年)4月17日、徳川家綱が日光社参す。
1664年(寛文4年)9月3日、東照宮の修理が終わる。正遷宮が執り行われる。
1665年(寛文5年)4月17日、東照宮50回神忌が斎行される。
1679年(延宝7年)9月7日東照宮の修理が終わる。正遷宮が執り行われる。
1683年(天和3年)5月17日、日光山大地震(閏5月1日まで435回の地震)。
6月25日、稲荷川と大谷川の洪水で神橋辺に水が上がる。
9月1日、大地震が発生す。
11月7日、地震によって損壊した日光山の修復が終わり正遷宮が執り行われる。造替が完了す。
1684年(貞享元年)12月13日、鉢石町から出火し93軒が焼失。東照宮の御旅所が焼損す。
12月20日、蓮華石町から出火し、山内と民家668軒を焼失。
1685年(貞享2年)東照宮の御旅所が再建される。
1689年(元禄2年)4月1日、松尾芭蕉、日光山へ来山す。
9月、東照宮本殿の亀腹石を長畑より切り出す。
1690年(元禄3年)6月25日、東照宮の正遷宮が執り行われる。
7月4日、大猷院廟奥院の正遷座。
1695年(元禄8年)4月新宮の宮殿と本社拝殿の修復が完了す。本坊を修繕す。
1698年(元禄11年)6月4日、日光駐在の目付が2名に増員される。

年号出来事
1699年(元禄12年)7月1日、洪水で神橋辺に水が上がる。
10月、一坊を除く学頭以下、6院、衆徒、社家、楽人らに拝借金(幕府から金銭を借り入れる)が下付(わたす)される。
1700年(元禄13年)8月28日、日光奉行が設置され、日光目付は廃止。
9月11日、徳川綱吉が日光山法度を下す。
1713年(正徳3年)9月4日、東照宮の修理が終わる。正遷宮が執り行われる。
1715年(正徳5年)4月17日、東照宮100回神忌が執り行われる。
1728年(享保13年)4月17日、8代将軍・吉宗公(よしむね)が社参す。
1740年(元文5年)11月14日、日光神領で栽培された朝鮮人参50根が東照宮に献納される。
1749年(寛延2年)〜1753年(宝暦3年)宝暦の修理が開始される。
1753年(宝暦3年)5月27日、東照宮の修復が終わる。正遷宮が執り行われる。
1755年(宝暦5年)3月10日、地震が発生し、東照宮の奥院が崩壊す。

年号出来事
1764年(明和元年)5月22日、日光山の修復が終わり、東照宮が正遷宮が執り行われる。
例幣使街道が幕府の道中奉行の管轄になる。
1765年(明和2年)4月17日、東照宮150回神忌が斎行される。
1776年(安永5年)10代将軍・家治公(いえはる)が社参す。
1790年(寛政2年)1月、日光奉行の在勤が1年交代制に改められる。
1791年(寛政3年)1月、幕府が旗本に日光参詣を奨励す。
12月、日光神領が日光奉行の所管になる。
1796年(寛政8年)〜1798年(寛政10年)寛政の修理が開始される。陽明門の側面大羽目の絵「唐油彩色の牡丹唐草」→東側「唐油彩色の錦花鳥」/西側「巣籠鶴(作者:狩野祐清」へ変更される。
1798年(寛政10年)5月、東照宮と大猷院廟の修理が終わる。正遷宮・正遷座が執り行われる。
1812年(文化9年)〜1814年(文化11年)東照宮別当寺「大楽院」からの出火により銅庫が炎上す。銅庫内に収められていた陽明門の勅額も焼失。
この勅額は1814年に陽明門の勅額と同筆の文字が使用されていた江戸城の紅葉山東照宮の勅額を写して新造される。
1814年(文化11年)5月7日、東照宮の修復が終わり、正遷宮が執り行われる。
1815年(文化12年)4月、東照宮200回神忌。
10月16日、五重塔が全焼。
1816年(文化13年)東照大権現の二百回神忌が営まれる。
1818年(文政元年)9月19日、五重塔の再建供養が厳修される。
1843年(天保14年)12代将軍・家慶(いえよし)が社参す。(有史上、歴代将軍では最後の社参となる)
1851年(嘉永4年)4月13日、東照宮・本坊の修復が終わり、正遷宮が執り行われる。
1863年(文久3年)9月、東照宮と大猷院廟の修復が終わり、正遷宮が執り行われる。
1865(慶応元)年4月17日、東照宮250回神忌が厳修される。
将軍の社参回数「多いのは誰?」

秀忠公:3回(その他1回)
家光公:9回(その他1回)※最多

これ以降は幕府の財政難につき、8代吉宗、10代家治、12代家慶(いえよし)各々1回のみ。

吉宗公は徳川宗家中興の祖としても知られるほどの歴代の中の将軍では飛び抜けた異才を発揮。

これまでの腐れきった幕府の組織形態を改め幕政改革を素敵に実施。

民間における文武を推奨し、倹約を念頭におき、自らが率先して行うなど江戸時代中期における幕府の財政基盤を立て直してた功労者。

それゆえ、以降の代の将軍は社参がなんとか実現できている。

明治時代

年号出来事
1869年(明治2年)日光県が設置され「輪王寺」号が廃止される。
1870年(明治3年)イギリス公使ハリー・パークスが日光を来訪す。
1871年(明治4年)日光県が廃止。「栃木県」へと変更される。
神仏分離令により日光山内の社寺は満願寺、二荒山神社、 東照宮に分離される。
この影響により「権現」の使用禁止が言い渡され、創建当初から陽明門に飾られていた「東照権現」の勅額が下され、現在の上神庫へ移される。
また、陽明門背面の脇の間に置かれていた風神・雷神像が満願寺(現在の輪王寺)へ移され、代わりに現在見られる狛犬像が置かれる。
満願寺へ移された風神・雷神像は現在、大猷院の二天門の脇の間に置かれている。
これ以後、仏教色が濃い日光修験も数ある行法が大幅に廃絶。衰微し現在に至る。
1872年(明治5年)日光山の女人禁制が解除される。
アーネスト・サトウ氏が日光へ来訪す。英字新聞(横浜)に日光を紹介す。
1876年(明治9年)明治天皇が日光を巡幸される。中禅寺湖を「幸の湖(さちのみずうみ)」と和歌に詠まれた。
1879年(明治12年)明治以降、新政府主導になると、これまでのような江戸幕府の手厚い庇護を受けられなくなり、資力に乏しかった東照宮は修理工事も頻繁に行えなくなる。
そこで日光山の未来永劫保存をモットーに掲げ地元の民間有志一同が「保晃会」を設立す。
1884年(明治14年)上記、上申の結果、明治天皇から「従来の勅額を掲げられよ」との命を受け、上神庫から陽明門に御水尾天皇が揮毫した勅額が戻される。(現在の勅額)
1883年(明治16年)「輪王寺」号が復活し、満願寺から再び→「輪王寺」へと改称す。
1889年(明治22年)4月1日町制施行により上都賀郡日光町が誕生す。(日光町、七里村、清滝村、細尾村、野口村、北和泉村、山久保村、所野村、久次良村が合併)
1890年(明治23年)8月1日日本鉄道日光線が開通す。日光駅が開業す。

年号出来事
1902年(明治35年)大水害発生す(大山津波)。被害状況は死者46名、家屋の被害160余戸、神橋が流失す。
この後、中禅寺が中禅寺湖の歌が浜へ移転す。跡地には中宮祠(日光二荒山神社)が残され現在に至る。
1908年(明治41年)8月1日陽明門含む建造物26棟が、特別保護建造物(現在の重要文化財)の指定を受ける。
1912年(明治45年)〜1916年(大正5年)陽明門の全面的な大改修が実施される。
1917年(大正7年)日光社寺共同事務所が制作した狛犬像が陽明門両脇に安置される。以前の狛犬像は幣殿に移される。
新しく脇の間に据えられた狛犬像は滋賀県栗東市の大宝神社にある国宝(現在は重文指定)の狛犬像をモチーフとして造立されたもの。




大正時代

年号出来事
1925年(大正14年)中禅寺湖へ至る自動車道(第一いろは坂)が開通す。
1926年(大正5年)「保晃会」が解散す。この後、民間団体による修理事業へと引き継がれ、現在は公益法人「日光社寺文化保存会」がその後継的機関となっている。

昭和時代

年号出来事
1929年(昭和4年)10月1日東武日光線が開通し、東武日光駅が開業す。
1944年(昭和19年)1929年(昭和4年)に国宝保存法が制定されたことにより、新たに陽明門を含めた東照宮全般の建物が国宝指定を受ける。
1950年(昭和25年)東照宮の「昭和の大修理」が開始される。
1951年(昭和26年)1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定されたことにより、新たに国宝基準が変更される。翌年、その国宝基準を満たすことから以下の建造物が国宝指定を新たに受け現在に至る。
1954年(昭和29年)日光市制が施行される。
1961年(昭和36年)本地堂(薬師堂)が焼損す。
1966年(昭和41年)鳴き龍が本地堂(薬師堂)の天井に戻される。
1965年(昭和40年)中禅寺湖へ至る自動車道(第二いろは坂)が開通す。
1968年(昭和43年)本地堂(薬師堂)が再建される。
1969年(昭和44年)〜1972年(昭和47年)昭和の大修理に際し、いよいよ陽明門の修理工事が実施される。全体的な修理となっている。
1974年(昭和49年)陽明門の改修工事の時に「牡丹図」の下から「鶴錦花鳥図」という絵図が発見され、歴史的な快挙が報告される。
1976年(昭和51年)「日光宇都宮自動車道」が開通す。
1977年(昭和52年)6月27日附属として旧天井板2枚が追加指定される。(現在は【国宝】指定)

平成時代

年号出来事
1999年(平成11年)ユネスコ世界文化遺産に登録される。(登録名:日光の社寺/対象:東照宮42棟、 二荒山神社23棟、輪王寺38棟の計103棟と、日光山内および周辺の野山一帯)
2005年(平成17年)神橋の改修工事が終了す。
2006年(平成18年)JR、東武鉄道が相互乗り入れ直通特急の運行を開始す。
2013年(平成25年)7月修復工事「平成の大修理」行われる。
2015年(平成25年)〜2016年(平成28年)平成の大修理が開始される。
2017年(平成29年)平成の大修理が一応の終わりを迎える。工期約4年。今後100年はないとされるほどの大修理だった。

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