日光東照宮の歴代宮司と家系(ルーツ)一覧

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日光東照宮の歴代宮司と家系(ルーツ)情報

日光東照宮の歴代宮司と家系(ルーツ)情報日光東照宮は、南光坊天海と言う家康公の参謀であった僧侶が造営し、その後に家康公の御霊を守るために、生涯を終えるまで日光東照宮の住職(宮司)を務めました。

その後、天海の息子である「公海」が跡を継ぎ東照宮の住職となりました。

やがて公海も寿命を全うして1654年(承応3年)に辞職します。

そして、公海の跡を継いだのが・・なんと!「天皇の子(皇太子)」だと言うから驚きです。

以降、世襲制で皇太子が継いでいくことになります。




日光東照宮と「法親王」

初代の天皇の住職は、後水尾天皇の第3皇子の「守澄法親王」でした。

その後、後水尾天皇は上皇となられて、1656年(明暦2年)に「輪王寺宮の勅号」を発せられます。

輪王寺宮の勅号とは、比叡・日光・東叡の3山を合わせて「天台宗の総本寺」とすると言った内容の命令のことです。

これにより、後の数代は天皇の子孫である皇太子が住職を世襲していくこととなります。

以後、「法親王(皇族が僧侶の資格得た呼び名)」が明治時代初頭まで歴任することになります。

トップが不在の荒れ果てた日光東照宮

明治時代に入ると「神仏分離令」の法律の施行により、輪王寺と東照宮とトップが「住職」と「宮司」に別れることとなります。

しかし、法親王は住職として輪王寺の住職を継承し、東照宮の宮司はしばらく不在と言う形になりました。

しかし、1880年(明治13年)に元会津藩主の「松平容保(まつだいら かたもり)」が、宮司に就任することを明治天皇により許され、以後、荒れ果てた日光の景観を取り戻すために「保晃会(ほこうかい)」と言う「結社」を作り資金調達を開始します。

明治13年に元・会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)が、宮司に就任するこそして、この気運を後押しするかの如く、1887年(明治20年)には「古社寺保存法」が施行されることとなり、国から援助金を得ることができるようになります。

尚、「古社寺保存法」とは分かりやすく言うところの国宝を保護(保存)する法律のことです。

さらに「保晃会」は、日本に各地の知人などから資金調達をするなどに尽力し、現在の日光の景観の地盤を保つことに成功します。

この後、明治27年に容保の弟にあたる「松平定敬(まつだいらさだあき)」が、宮司を継承し、1908年(明治41年)7月にこの世を去っています。

その後、養子の松平定晴が家督を継承しますが、1916年(大正5年)に保晃会は解散することになります。

トップが不在の荒れ果てた日光東照宮保晃会設立記念碑

現在は「保晃会」に代わり「日光社寺文化財保存会」が、日光の景観を守るべく社寺保全を行っています。

ちなみに、2015年現在の日光東照宮の宮司は「日光社寺文化財保存会」理事である「稲葉久雄(いなばひさお)」宮司と言います。

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