日光山輪王寺「法華堂(2つ堂)」【重要文化財】

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日光山輪王寺「法華堂」【重要文化財】

創建年

  • 不明
  • 推定:1100年代/平安時代後期
再建年

  • 1649年(慶安2年/江戸時代前期)
建築様式(造り)

  • 宝形造
  • 正面向拝付き
  • 総土朱塗り
  • 一重

※純唐様の建築様式

屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行三間(奥行:約6m)
  • 梁間四間(横幅:約8m)
  • 向拝:約2m
御本尊

  • 普賢菩薩
重要文化財指定年月日

  • 1944年(昭和19年)9月5日

輪王寺「法華堂」の読み方

法華堂は「ほっけどう」と読みます。




法華堂には正式名がある?!

法華堂の正式名は「法華三昧堂(ほっけさんまいどう)」と呼称します。

仏の周りを歩いたり座禅をしたりする「法華三昧」と呼ばれる修業のためのお堂であることから上記のような名前が付されています。

法華三昧とは、天台宗特有の修法であり「経典・法華経」用いて「37日間行う修法のこと」言います。

日光山輪王寺「法華堂」の歴史・由来

この日光山は勝道上人が766年に開創し、以来、山岳信仰、修験道、神道などが結びつき、神仏が習合した聖地として発展を遂げます。

その発展の影響を受けて築かれたのが、この法華堂です。

この法華堂は比叡山延暦寺にある「西塔・にない堂」を模して造営された堂宇(お堂)となりまする。

天台宗と日光の結びつきはいつから始まった?

慈覚大師・円仁(じかくだいし・えんにん)は、794年(平安時代)に下野国(しもつけのくに/栃木県)にて、壬生氏の氏族としてこの世に生を得ています。なんでも円仁が生まれた直後にお空には吉兆を告げる紫色の雲がたなびいたそうです。

しかもちょうど何の因果か、平安京が成立した年の生まれでゴンす。

802年に下野の大慈寺に入山し、15歳のときに比叡山(ひえいざん)の伝教大師・最澄(さいちょう)に師事します。

838年には遣唐使として、遣唐使船に乗り込み、中国唐へ訪れています。

帰国後、叡山へ一度戻り、今度は台密(天台密教)を広めるために、関東地方や東北地方を中心に練り歩きます。最終的に円仁が創建するなどの関わった寺は関東に209寺、東北に331寺を超えるといわれます。

その中の1つに満願寺(現在の輪王寺)があり、有名どころでは、浅草の浅草寺や、平泉の中尊寺があり申す。

輪王寺の寺伝によれば、829年(天長6年)〜833年(天長10年)頃に、慈覚大師・円仁は満願寺(まんがんじ/現在の輪王寺のこと)へ入山し、台密(天台密教)を布教しまくります。

まず、常行堂の隣地に建つ法華堂が創祀されてい‥‥申す。

円仁は遣唐使として中国に渡った実績があることから、知名度もあり、人気もありました。そんな円仁が日光山へ入ったことにより、天台宗が日光へ広まりをみせます。(この当時の日光は山岳信仰や修験道の修行の場とされていた)

日光で天台密教が広まるのを見て、まずは常行堂の隣地に建つ法華堂が創祀されます。輪王寺の寺伝よると、隣地に建つ常行堂は848年(嘉祥元年)に円仁の手によって、比叡山延暦寺の「にない堂」を模して、建立されたとのこと。法華堂が先に建てられたのだとするならば、848年以前かそのあたりということになり申す。

また、円仁は千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三仏(日光三所権現本地仏)を日光市野口にある山王社(現在の日枝神社)に勧請してい‥‥‥申す。(つまり山王社は現在の三仏堂のルーツということになる)

しかしながら、現在見ることのできる姿は、1649年(慶安2年/江戸時代)に再建された時の姿ですが、この再建では創建より踏襲される姿形を可能なかぎり模して復原するように再建されてい‥‥申す。

それゆえ、この法華堂はじめ、常行堂、これらをつなぐ渡り廊下となる「渡廊」までもが重要文化財指定を受けるに至ってい‥‥申す。

日光山縁起に登場する神々一覧
日光三山日光三社権現日光三所権現日光三所権現本地仏(三仏)日光三神
女峰山(※母)滝尾権現女体権現阿弥陀如来田心姫命(母神)
二荒山(男体山)(※父)新宮権現男体権現千手観音大巳貴命(父神)
太郎山(※子)本宮権現(太郎権現)太郎大明神馬頭観音味耜高彦根命(子神)

※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられています。

円仁の帰国後の奇跡

円仁は帰国後、3代目の天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)に就任し、事実上、天台宗山門派の始祖となってい‥‥申す。

健脚の持ち主であり、はたまた大変な行動力の持主と伝えられてい‥‥申す。グハっ

円仁が創建・再建・復興したと伝わる寺院は関東・東北だけでも500以上あると云われます。

法華堂は世界遺産!

この常行堂は、「日光の社寺‥‥」の世界遺産の1翼を担う存在であり、隣地に建つ常行堂とこれらをつなぐ、渡り廊下である「渡廊」も同様に世界遺産の1つです。




日光山輪王寺「法華堂」の建築様式(造り)

一般的には「常行堂は和様建築」で造営され、「法華堂は唐様(禅宗様)建築」で造営されていると云われます。

法華堂は上記の常行堂とは異なり堂内へは入れませんが外観は見学ができます。

まず、双方の堂舎とも言えることですが、周囲に縁(椽/えん)を回し朱色の丹塗りの高欄(こうらん=手すり)が取り囲みます。

それと常行堂との建築様式の違いを見てみるのも面白いです。

常行堂の特徴しては連子窓(れんじまど)が据え付けられており、法華堂には鐘のような輪郭の火灯窓(かとうまど)があります。

上述したように法華堂は、唐様(禅宗様)建築で造営されています。

火灯窓が堂舎に据えられているということは、概ね内部には須弥壇のようなものが設置されていて仏像が祀られています。

なお、火灯窓は”花頭窓”とも書かれますが、これは正式な書き方ではありません。一説には灯明から連想した一種の火災除けのマジナイの意味合いで”花頭”と付けたとも云われます。

正面頭上の貫の木鼻の植物柄風の彫刻などは唐様(禅宗様)建築の特徴とも言えます。

その他、常行堂の入り口の上部にある組物と組物の間には蟇股(かえるまた)と呼称される装飾があり、その中には龍の彫刻が施されています。

「龍(竜)」はインドから仏教と共に中国⇒朝鮮⇒日本へと伝来したものですが「龍の彫刻」は和様の特徴でもあり、この法華堂にはありません。

日光山輪王寺の「2つ堂」とは?

「2つ堂」とは、2つの同じ形をした堂舎を「2つ堂」と言いまする。

日光山輪王寺には「常行堂」「法華堂」と言う、2つ連なった珍しい形状の堂舎が、ちょうど大猷院の参道入口あたりに建立されています。

同じ大きさの2棟の堂舎が渡り廊下で繋がっており「二つ堂」あるいは「天秤(てんびん)」に見立てて「担い堂(荷い堂/にない堂)」とも呼ばれてい‥‥申す。

なお、2つのお堂と渡り廊下(渡廊)は、それぞれ国の重要文化財に指定されています。

円仁が「2つ堂」にして建立した理由

円仁の考えというよりは、台密としての教理の中に、阿弥陀如来を本尊とする常行堂と、普賢菩薩を本尊とする法華堂とが、渡り廊下によってつなぎ合わされることにより、天台宗の教理の1つである法華一乗と念仏が一体化した様子を表現していると云われるからです。(天台宗は正式名を「天台法華円宗」という)

法華堂の本当の創建年はいつ?

法華堂は848年(平安時代初期)、円仁が輪王寺(当時の寺号は”満願寺”)へ入山して創建され、その後、1100年代に再建されたという説があり申す。

しかしながら、円仁が輪王寺を訪れたという話は俗説との見方があり、実際は1100年代に創建されたとも考えられています。

法華堂の御本尊「普賢菩薩」

法華堂のご本尊は普賢菩薩です。普段は釈迦如来の脇侍を務めている仏様です。

普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍としてあまりに有名です。

「文殊の知恵」に「行の普賢」という言葉がある通り、普賢菩薩は「十の大願」を立て行(修行)へ勤しみます。

法華教は女性に往生説を初めて説いたために、多くの女性の信仰を集めました。

この頃から白象に乗った普賢菩薩が有名になっていきます。

あまり知られていない!『法華堂のご利益』とは?

法華堂に奉斎される「十羅刹女」、「鬼子母神」は共に女性の神様です。鬼子母神は多産・安産の利益があります。

以上のことから、このお堂は女性のご利益が多いお堂です。

これから出産を控えた女性の方は真摯に祈りを捧げてみてくださいな。ポンっ!と豪快に痛みなく安産で飛び出してくるかもしれませんゼよ!

御本尊「普賢菩薩」の脇侍

普賢菩薩の左右には脇侍として、左脇に「鬼子母神像(きしもじん)」、右脇に「十羅刹女像(じゅうらせつにょ)」が奉安されてい‥‥‥申す。

十羅刹女(じゅうらせつにょ)とは?

十羅刹女(じゅうらせつにょ)とは、仏教の天部における10人の女性の鬼神です。

法華経では、10人の十羅刹女たちが釈迦から法華経の話を聞くと、成仏できることを知るとされ、それゆえ十羅刹女たちは、自らが成仏するために法華経を所持し伝える者を守護するとを誓ってい‥‥申す。る。

鬼子母神とは?

鬼子母神とは、安産・子育(こやす)の神様とされてい申す。

安産・子安の神とされる理由は、インドでは夜叉神の娘であり、多くの子供を産んだことに端を発するものでゴンす。

しかしながら、その性格は残虐非道極まりないものがあり、他人の子供をさらっては食べていたのです。

その惨状を見かねた釈尊(釈迦)は、鬼子母神の末っ子をさらって隠したのです。

慌てた鬼子母神はいく日いく日も嘆き悲しむのです。

その様子を見た釈迦は鬼子母神へこう告げます。

『千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん』

鬼子母神は今まで自分が食べてきた子たちの母ジャの気持ちを察すると同時に釈迦への帰依の意を示し、以後は安産・子育の神となることを誓います。

こうして長らく時を経て、鬼子母神は安産・子宝・子育の神として生まれ変わり、今でも篤く尊崇されているのです。うきゃ




法華堂の内部へは入れる?

法華堂は堂舎の扉が閉扉されており、したがって通常は一般非公開でゴンす。

公開日程は不明ですが、不定期で公開されることがあることもあるかもしれません。内部を見学したい方は小まめに輪王寺の公式サイトをチェックしておきましょう。….要チェックやで!...by.彦一

日光山輪王寺・法華堂(2つ堂)の場所

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