日光東照宮・朝鮮鐘【重要文化財】【世界文化遺産】
- 奉納年:1643年(寛永20年)
- 鋳造年:1642年(崇禎壬午 年)
- 大きさ:直径約1m
- 読み方:ちょうせんしょう、ちょうせんがね
- 文化財指定区分:国指定重要文化財
「朝鮮鐘」の名前の由来
この朝鮮鐘は、1643年(寛永20年)、4代将軍・家綱(当時は竹千代ぎみ)の誕生を奉祝するために来朝した「朝鮮通信使」により奉献された鐘でゴンす。
それゆえ、「朝鮮鐘」と呼ばれてい‥‥‥申す。グホっ
来歴(歴史)
前述の朝鮮通信使が東照宮へ来朝した際、銅製の花瓶(三具足/現在は奥社宝塔前に設置されている)、香炉、燭台を携えています。
朝鮮通信使とは?
朝鮮通信使とは、およそ室町時代から江戸時代の間に朝鮮国(李氏朝鮮)から日本へ派遣された外交使節団のことをいいます。
主に日本の実質上の支配者たる将軍家(幕府)を対象とし、その後継(子供)の誕生や、代替わりの際に奉祝の意味合いを込めて朝鮮王国から使節団が遣わされています。
正式名称を「朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし)」と呼称するように江戸幕府はこの使者を「朝貢使節」と見ていたようです。(※聘礼=贈り物の意)
朝鮮通信使は、朝鮮半島から船に揺られ、対馬を経て、江戸(現在の東京)までの約1000㎞もの行程をおよそ9ヶ月もの期間を費やして訪れたそうです。
朝鮮通信使は12回も江戸へ来ていた?
朝鮮通信使は記録上では、なんと!12回も来朝しています。
このうち3回は江戸を経てわざわざ日光まで足を運んでいます。
1回目:1636年(寛永13年)
- 徳川家康公13回忌の奉祝
- 将軍は3代目徳川家光公
概要
中でも1636年(寛永13年)に初めて通信使が社参した際の様子は「東照宮を訪れた初めての外国人」ということで東照社縁起絵巻にも描かれてい‥‥‥申す。ガハっ
2回目:1643年(寛永20年)
- 家綱の4代目将軍就任の際の奉祝
&
日光東照宮落成奉祝
概要
この時は奥社宝塔前に銅三具足や書額が奉納されてい‥‥‥申す。グギャっ
3回目:1655年(明暦元年)
徳川家綱公が将軍に就任(代替わり)の奉祝
概要
このときは300人の大使節で来朝。
【補足】1644年(正保元年)に琉球賀慶使も社参!
琉球賀慶使が日光東照宮へ来訪し、香炉と花瓶を献上。
この時は薩摩藩主・島津光久が70余名を引き連れての大使節団でした。
例幣使の制度化
家光公は1647年(正保4年)頃、例幣使を制度化させ、また、自らも大行列を伴い社参を挙行します。
家光公は朝鮮はじめ琉球、オランダまでも社参させることを義務付けていますが、これもいわゆる幕府の権威をゆるぎないものとするための政策の1つであり、同時に諸外国に対しての権力と国威の見せつけであったことがうかがえまする。
この朝鮮灯籠には外観からは想像もつかないほどのストーリーが秘められており、とてつもない過去の歴史が刻まれているということです。
朝鮮通信使が日光まで足を運んだ理由
一言でいうと江戸幕府に取り入るため。外交政策の一環。
この当時、幕府は朝鮮国に対し、日光まで参拝することを強く打診しています。それに倣ったものが、このような朝鮮通信使の日光訪問です。
なお、1811年(文化8年/純祖11年)に来朝した通信使は対馬まで来た折、それ以上の入国を差し止められ、これを最後に朝鮮通信使の制度は断絶しています。
朝鮮通信使は1人や2人ではない!100人以上の大行列だった!
朝鮮通信使は1人や2人が贈り物を携えて来朝するのではゴザんせん!
なんとぉぅっ!総勢約200人(警護役を含めれば1000人以上とも)から成る豪勢極まりない有り様でした。
正使、副使、従事官(しゅうしかん)という三使が先導しながら、1000を超える使節団を率い、江戸へ来朝します。
将軍へ謁見した後、日光を目指し、まずは日光東照宮へ、家光公逝去後は、大猷院へも参拝していまする。
このような話を聞くだけで当時の将軍の力や日本の国威がどれだけのものであったのかが、想像につきまする。
朝鮮通信使は手厚く歓待された
朝鮮通信使は、将軍が日光へ社参した時と変わらぬほどの歓待を受けながら日光を目指しています。
現在、今市駅付近の杉並木公園には「今市客館跡」という石碑が残されていますが、名前から察することができるように朝鮮通信使を歓待するために迎賓館が建てられていたのです。
往時の今市客館は幕府が威信をかけて1万両を投じて、造らせた絢爛豪華な建造物であり、朝鮮国との外交政策に一役買ったワケでゴザる。
見どころ
漠の彫刻
⬆️これは象ではなくおそらく漠。カールした巻き毛が何よりの証拠。ただ、象は耳が垂れている‥はてさて。
今市客館跡の場所(地図)
なお、この石碑は「朝鮮通信使来日400年記念」を奉祝する目的で建立されたものです。うきゃ
朝鮮鐘は朝鮮国王からの贈答品!鐘に刻銘が残る!
この鐘には刻銘があり、この刻銘を読み解くと次のようになりまする。
『朝鮮国王が東照宮へ奉納するために鋳造させたもの』
この刻銘をもって当時、朝鮮を治めた王「仁祖(インジョ)」からの贈答品であることが分かりまする。
つまり、この鐘は1642年(崇禎壬午 年)に仁祖が鋳造を命じて作らせ、それを朝鮮通信使に持たせて、1643年(寛永20年)に東照宮へ奉納したとことになりまする。
「朝鮮鐘」の特徴
別名で「虫蝕の鐘(虫喰い鐘)」とも呼ばれる
ちょぃと、この朝鮮鐘を近くで見ておくんなまし。
龍頭(りゅうず/鐘を吊るすために付けられるテッペンの突起)の部分に小さな穴ボコが開けられていることが分かるハズです。0
この穴ボコは鐘の音が鳴り響く時間(残響時間)を長くする工夫と言われますが、このような穴ボコは日本の鐘にはありんせん。
まさにこの鐘が日本以外で鋳造されたことを伝える大きな特徴であり、見どころとなる箇所です。
それゆえ、後世にて「虫蝕の鐘」もしくは「虫喰い鐘」と呼ばれることになってい‥‥‥申す。ゴハっ
日本の撞座とは違い‥‥撞座がない?
これも文化の違いか?
韓国の撞座は八葉あるものの撞座がない。日本に納品する段階で日本の鐘(日本文化)を研究しつくしていたハズなのに何故だろう?
例えば東大寺の奈良太郎には撞座がある。
対してこの鐘には撞座というものがない。
これが何を意味するのか?朝鮮の日本国に対する姿勢だったのか?
朝鮮鐘は東照宮境内だけのものではない!全国の社寺でも見られる!
実は、このような朝鮮由来の梵鐘は珍しいものではなく、この東照宮の朝鮮鐘を含め、全国津々浦々、合計で47口の朝鮮鐘が確認されてい‥‥‥申す。グハっ
このような朝鮮鐘は、鎌倉時代に暗躍した倭寇(わこう)はじめ、文禄・慶長の役によって日本へもたらされたとされる説がありまする。
もしくは韓国の寺院から日本の寺へ売り継がれながら、日本へ伝来したとされる説もありまする。
東照宮の朝鮮鐘は撞かれることはないようですが、全国の寺院では現役で使用されているケースが散見されまする。
有名な朝鮮鐘が見られる寺院一覧
常宮神社(じょうぐうじんじゃ/福井県敦賀市)【国宝】
観音院(岡山市東区西大寺)【国指定重要文化財】
秋月城跡出土高麗鐘【福岡県指定文化財】※1985年に福岡県朝倉市(当時は甘木市)の中学校の改築工事中に出土
朝鮮鐘がある場所(地図)
陽明門を向かい見て右脇。ちょうど鐘楼の向かい側に鐘舎が建ち、その中に吊られる形で現存してい‥‥‥申す。ゴホっ