【オランダの陰謀】日光東照宮のオランダ回転燭台の「逆さ葵(徳川家の家紋が逆)」の謎とは?!

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日光東照宮「オランダ回転燭台(回転式灯籠)」【重要文化財】

区分概要
奉納年1643年(寛永20年)
作者(設計者)ヨハネス・ルトマ
作者(制作者)ヨーストヘリッツゾーン
奉納者オランダ東インド会社(オランダ商館)
※Nederland(ネーデルラント)/オランダ国

※設計者と製作者はオランダが独自で行なった調査により素敵に判明💘

オランダから3回目(最後)に奉納された灯籠

逆さ葵のオランダ回転燭台とは?

日光東照宮の陽明門のすぐ下の向かって歩くと、左側に洋式の「回転燭台(かいてんしょくだい)/回転する灯籠」が見てきます。

日光東照宮の「回転燭台」の徳川家の家紋が逆?!逆さ葵の謎と過去の陰謀説

この回転燭台(回転式灯籠)は、1643年(寛永20年)に、遠くオランダの地から、東照宮へ奉納されたものです。

オランダの首都である「アムステルダム」で造られて、船で長崎に運び込まれたと伝わる。

ピヨ🐣日光東照宮にあるオランダ灯籠一覧

奉納年名前奉納数
設置場所
文化財区分
1636年
(寛永13年)
シャンデリア型の
釣灯籠
1基
陽明門手前
【重文】
1640年
(寛永17年)


スタンド型の
蓮灯籠
1基陽明門手前【重文】
ブラケット型の
灯架(燭台)
12基陽明門袖塀【重文】
1643年
(寛永20年)
逆さ葵の回転燭台1基陽明門手前【重文】

※重文=重要文化財




回転燭台(回転灯籠)の特徴

名前の通り回転する!

この回転燭台(回転灯籠)のロウソクに火を灯すと、燭台が自然に回転する仕組みになってい‥‥申す。

徳川紋(三つ葉葵の御紋)がすべて逆向きに取り付けられている!

この回転式燭台(回転灯籠)をよく見ると、上部に徳川家の家紋があしらわれた銅板が添えつけられているのが視認できます。

しかしこれ‥‥‥よく見ると・・なんと!「三つ葉葵が逆さま」になっています。




「逆紋の回転灯篭」とも呼ばれる!

上記のように徳川紋が逆さまに取り付けられていることから、この回転燭台は別名で「逆紋の廻り燭台」とも呼ばれてい‥申す。

具体的に逆さの意味を説明

分かりやすく説明すると、通常の三つ葉葵は上から1葉2葉の順番になっています。

この回転燭台は、別名・「逆紋の廻り燭台」とも言われている

ところがこの燭台の葵紋をよく見ると・・上から2葉、1葉になってしまっているのが分かります。

そして、この燭台をよく見ると、上部に徳川家の家紋であり「三つ葉葵」が逆さまになっているというのです。

さらに驚くことになんと!1か所だけではなく9カ所にある葵紋すべてが逆になっています。

何かの陰謀か・・と思っちまぃやすが、これは徳川紋を初めて見たアムステルダム在住のオランダ職人が作ったものなので、どうやら間違えて作ってしまったようです。

贈られた回転灯籠を見た将軍(当時は家光さん)はさぞかし驚いただろうが、この回転灯籠がオランダ国王のご発意によって、オランダ国王名義で製作され、そして贈らてきた‥という事実を勘案し、きっと笑顔で受け取ったのでしょう。

修正ひとつ加えずに、贈られてきたままの姿で据え置いている事実を以ってして、当時の日本の外交情勢や幕府の置かれた立場などがこの回転灯籠の有り様で、つぶさに掴み取ることができ申す。

日光東照宮の回転灯籠は実は超高級品!

この回転式灯籠、オランダ本国でもなかなか御目に掛けることのできない超が付くほどの特注品、つまり「高級品」に位置付けられるらしい。

それゆえ、価値や値段に換算すると、途方もない価値や値段が付くとな。オホ

なぜオランダから灯籠が日本へ贈られたのか?

当時の日本(江戸幕府)では、カトリック教会とスペインおよび、ポルトガルのつながりによる日本への侵略行為に対して警戒感を高めていたそうな。

そんな時、オランダは日本が警戒しているという情報や、当時、日本では初代の国王(将軍/徳川家康公のこと)の陵墓を造営している(寛永13年/1636年の東照宮の寛永の大造替のこと)という話も聞きつけたとかで、その陵墓に奉納する一品として、早速、貢物をブラ下げて使節団を日本へ送った。

(その貢物の1つが1636年に贈られてきた灯籠※この回転灯籠とは別の灯籠。オランダからは他に1640年のものを含めると合計3回も灯籠が贈られてきている。)

また、1637年12月〜1638年4月までの間、九州にて島原の乱が勃発し、天草四郎の籠城に手を焼いていた幕府に対し、折よくオランダは自船から原城へ砲撃をけしかけたり、武器弾薬も提供した。

オランダはキリスト教と関係性がないことを幕府に意識づけるとともに、これらのお膳立てが功を奏してか、1639年(寛永16年)に幕府はポルトガル船の来航を禁止し、うまく江戸幕府へ取り入ったオランダは、日本からポルトガルの追い出しに成功した。

こぅしてオランダは事実上、鎖国下の我が国において、欧州諸国としては初となる長崎出島での自由交易権が認められたのだった。

その後、アジアにおける情勢はポルトガル一色の支配色から、オランダ色が混ざり始め、やがてポルトガルは没落していく。




東インド会社オランダ商館とは?

東インド会社オランダ商館は、1602年3月20日にオランダで設立された、世界初の株式会社といわれまする。

初代将軍となった家康公が政権を掌握した後の1609年(慶長14年)にオランダと日本との国交が開かれ、商館が平戸に置かれます。

ちなみにオランダの商館は、ほかにジャワなどにも置かれています。

1628年(寛永5年)には、長崎の代官「末次平蔵」がオランダ領の台湾行政長官「ピーテル・ノイツ」との間に紛争を起こし、結果、幕臣に斬殺されています。(タイオワン事件)

この事件の影響により、オランダ商館は閉鎖。日本とオランダの交易は以後、約4年間途絶えることになり申す。

これに対しオランダはノイツが独断で行ったこととして、幕府に上申し、同時にノイツ本人を幕府へ差し出すのですが、これに満足した家光公は1632年(寛永9年)に人質を解放の上、貿易再開をも許可しています。

しかし、1640年(寛永17年)に商館所有の倉庫の破風に記した西暦表記の年号が江戸幕府の咎めの対象とされ、倉庫の取り壊しを命じられ申す。

そして1641年(寛永18年)7月、オランダ商館は平戸から長崎出島へ移転させられてい‥‥申す。

その後、東インド会社は1799年12月31日にオランダ政府の命令により、半ば強制的に解散させられたのだった。

日光東照宮・回転燭台(回転式灯籠)の場所

日光東照宮の陽明門のすぐ下の向かって歩くと、左側に洋式の「回転燭台(かいてんしょくだい)/回転する灯籠」が見てきます。

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