日光山・輪王寺「大猷院廟(本殿)」【国宝】
大猷院廟には以下のような3つの間(部屋)とその奥に家光公が永眠される「皇嘉門(御廟)」があります。
大猷院・本殿【国宝】
創建年
1653年4月(承応2年/江戸前期)
建築様式
権現造り(3棟が連なる建屋)
一重裳階(もこし)付(屋根の下にもう一枚屋根を付ける造り)
入母屋造(屋根付きの建屋)
屋根の造り
銅瓦葺
大きさ
桁行(奥行)3間(約5.5m)
梁間(横幅)3間(5.5m)
重要文化財指定年月日
1908年(明治41年)8月1日
国宝指定年月日
1952年(昭和27年)11月22日
法要
徳川家光公ご命日法要:毎年4月20日
大猷院・本殿「相の間」【国宝】
創建年
1653年(承応2年/江戸前期)
建築様式
一重、両下造(りょうさげづくり)本殿と拝殿を繋ぐような造り方=「権現造り」
屋根造り
銅瓦葺
大きさ
桁行(奥行)3間(約5.5m)
梁間(横幅)1間(約2m)
大猷院・拝殿【国宝】
建築様式
一重、入母屋造
大きさ
桁行(奥行)7間(約12.6m)
梁間(横幅)3間(約5.5m)
屋根造り
正面千鳥破風付
「大猷院・皇嘉門」【重要文化財】
創建年
1653年(承応2年/江戸前期)
重要文化財指定年月日
1908年(明治41年)8月1日
そもそも「大猷院」はなんて読むの?
まず、「大猷院」の読み方は、「 大猷院( たいゆういん )」と読みます。
すなわち、「大猷院廟(たいゆういんびょう)」と読みます。
「大猷院」とは、江戸幕府の3代目将軍・徳川家光が没した後に、朝廷(後光明天皇)より、下賜された「法号(死後の名前)」になります。
つまり、この「大猷院」は徳川家光に関連した建物であることが、この時点で分かります。
「大猷院」の意味・由来
「大猷院」の「大猷」とは、「成長」や「大きく成る」または「大きな道」との意味合いがあります。
「院」は、高い身分の方や多大な功績を残した方の送られる名前であり、また墓所の名前でもあります。
これらのことを合わせると、徳川家光公は多大な功績を残した、「偉大な偉人である」という解釈になります。
大猷院の見学所要時間
- 大猷院の総計見学所要時間:30分〜40分
この大猷院はザックリと言えば本廟とそれ以外とで分かれます。
本廟(本殿)の所要時間
本廟は皇嘉門が本殿の右奥にありますので、皇嘉門および拝殿の後方にある本殿も見学したい場合は裏側へ回り込む必要がありますので、その分時間を要します。
それと本殿では輪王寺の僧侶の方が説法を交えた由緒などのお話を拝殿内部でされていますので、お話を聞く場合は5分〜10分ほど別途、所要時間がかかります。
- 皇嘉門・拝殿裏を見る見学ルート:約5分
- 拝殿内部でお話を聞く場合:5分〜10分
これ以外にも月に一度、法要も営まれます。中でも年に1回、4月20日の法要は盛大に執り行われます。(見学可)
本廟以外
大猷院の敷地自体が広大でその上、石階段が多く、階段を昇るだけでも時間を要します。
ただ、基本的には見るだけです。おもかる石のように何かを試したりということはありません。入口付近に手水舎があって手水舎で口と手を清めたあとは本廟(本殿)を目指します。
途中、仁王門、二天門などをじっくりと見学しも10分〜15分くらいです。
大猷院の建築様式(造り)
大猷院の本殿の内部
大猷院の本殿内部は手前から以下の3つの間(部屋)で構成されています。
- 拝殿(手前)
- 相の間(中央)
- 本殿(最奥)
内部に入ると分かりますが、これらの3つの間(部屋)は1つの連なった建物に見えます。
このような縦の直線上に建物が『串』字型に並んび1つの建物としたような造りを、特別に「権現造り(ごんげんづくり)」と呼称します。
大猷院は東照宮より規模は小さいが細部の造りは東照宮よりも優る
大猷院の建造物には、彫刻の質や描かれている壁画や金箔の金の質なども、東照宮より優れた質のものが使用されています。
ただ、江戸幕府を創設した最大の功労者である家康公が眠る東照宮よりも、良いものを使用しても良いのか?という疑問に苛まれますが、これに関しては時代の流れによる建築の技術の進歩や、材料の加工技術が向上している背景から、止むを得ずといったところでしょう。
初代将軍である家康公の治めた時代よりも、家光公の時代の方が良質の金を掘削する方法や、掘削に用いた道具・機材、さらに掘り出した鉱石を加工する技法なども優れていたと考えるべきでしょう。
あらためて時の流れというものをシンミ〜リと実感することができます。
大猷院本殿の別名は「金閣殿」!
大猷院本殿は、金の装飾技術なども含め、使用されている金の多さ、その上、絢爛豪華さも兼ね添えていることから別名で「金閣殿(きんかくでん)」とも呼ばれます。
本殿を間近で見れば分かりますが、金の色艶が見事に映えます。鏡のように髪型がセットできたり、お化粧ができたりするのとちゃぅか・・と思っちまうほど見事です。
大猷院の歴史・由来
輪王寺・大猷院は、家光公の墓所となります。
ただ、厳密には、家光公が眠る墓所となる場所は大猷院の最奥に位置する「本堂」の右脇にある「皇嘉門(こうかもん)」の奥です。ここに奉安されています。
「皇嘉門」までの道のりは、「仁王門(におうもん)」から進み「二天門(にてんもん)」「夜叉門(やしゃもん)」と続きます。
夜叉門をクグり抜けた奥には、「本殿」「拝殿」「相の間」を抱える「輪王寺・大猷院」が建立されております。
大猷院の大きな特徴は、見る者を惹き付け魅了し虜にしてしまう圧倒的な極彩色です。
また、権現造りの本殿内部には、狩野派のエース「狩野探幽(かのうたんゆう)」作と言われる、およそ140にも及ぶ龍の絵が天井に描かれております。
その他にも、家光公ご愛用の甲冑なども安置されております。
大猷院を建立した人物といったい誰?
大猷院を建立したのは、家光の次の将軍である4代目将軍「徳川家綱」ですが、実際に造営指揮を採っていたのは、家光の懐刀とも言われる「酒井忠勝(武蔵国川越藩の2代目藩主)※後の老中・大老」でした。
徳川家綱は家光の嫡男(長男)であり、母親の宝樹院(ほうじゅいん/お楽の方)は、この時代では稀有な農民の出身です。
しかし、家光公が若くしてこの世を去ったため、わずか11歳で4代目将軍となっています。
したがって、大猷院の建造を一手に指揮していたのは、老中の酒井忠勝であると推察されます。
大猷院が日光東照宮に建立された理由
1651年(慶安4年)、病弱であったと云われる徳川家光は、齢30歳を迎える前にこの世を去ることとなります。
病床の最中、家光はこのような遺言を残しています。
「私は没した後、東照権現(徳川家康公)にお仕えするつもりだ」
この遺言を聞き届けた老中・酒井忠勝は、翌年の1652年(承応元年)の2月中旬から家光の墓所の造営を始め、1653年(承応2年)4月初旬に完成させています。
その墓所(霊廟)こそが現今の「大猷院」であり、現代にみることのできるような大猷院を、わずか1年ほどで完成させたことになります。
この工期の短さからしても、忠勝の家光に対するただならぬ、自らの息子のような思いがあったのかもしれません。
大猷院の見どころ
説法(お話)
大猷院の中では輪王寺の僧侶の説法や簡単な歴史などを聞くことができます。所要時間は5分〜10分、靴を脱いで畳敷きの部屋で聴聞します。
極彩色の絢爛豪華な建築様式
大猷院内部は極彩色の組物や長押、柱、扉に至るまで東照宮の陽明門に負けじと劣らぬ装飾が施されています。
2代目将軍の御廟とは言えど、絢爛豪華さでは初代家康公の御廟「東照宮」を凌ぐものがあります。
⬆️黒を基調として金細工が据えられた框扉。中板の透かし彫りが見事!
⬆️相の間。高欄下に見える黒を基調とした腰組が見事!周囲を面取り加工して金で塗装を施した三手先の腰組。
⬆️拝殿内部。絢爛豪華な金色の折り上げ式格天井。まさにこの世の極楽浄土
⬆️同様に黒を基調した「透き塀」。金飾りや装飾、繊細な透し彫りの冴えが光る!
⬆️御本殿。透かし彫りの火灯窓が見事。他の寺社ではまずお目にかかれない。
⬆️拝殿前の唐門の唐破風を下から見た画像(写真)。金細工の繊細な彫刻が見事
赤色や黒色が用いられたデザイン
家康公の眠る東照宮とこの大猷院が大きく一線を画す見どころは、赤色や黒色が随所に用いられている点です。この理由については後述していますが、彩色を減少させ、あまり目立ちすぎないようにするための、家光公の家康公に対する配慮の気持ちが現れた「工夫である」と考えられています。
「大猷院・皇嘉門」【重要文化財】
創建年
1653年(承応2年/江戸前期)
建築様式(造り)
竜宮造り
別名
竜宮門
重要文化財指定年月日
1908年(明治41年)8月1日
「皇嘉門」とは?
皇嘉門とは「こうかもん」と読み、これは京都御所の内裏外郭の「十二門」(12つの門)の1つ「皇嘉門」から由来がきています。
ただ、「皇嘉門」という名前は天子を守護するための門の名前なので、いくら将軍でも勝手に付けるのは恐れ多いことなのですが、これは朝廷から直々に賜ったため、あえて皇嘉門としています。
そして、この皇嘉門の奥にこそ、徳川家光公が奉安されています。
皇嘉門の建築様式(造り)
この皇嘉門を見れば分かりますが、少し日本らしくはない建築様式をしており、どちらかというと中国の建築様式に近いものがあります。
これは中国明朝の「竜宮造り」を採用したためです。
竜宮造りとは?
竜宮造りの大きな特徴となるのが、門の通行口部分が漆喰の台形に近いアーチ型で造られているところです。
この下層部の上に入母屋屋根を乗せた造りです。
代表的な竜宮造りの建造物として「小田急・江ノ島駅」や「下関・赤間神宮」が挙げられます。
大猷院は、1651年(慶安4年)に家光公が残した御遺命により造営された霊廟になります。皇嘉門の建築様式をよくご覧になれば分かりますが、日光東照宮が「白色と金色が基本色」としてて用いられて造営されているのに対して、大猷院は「赤と黒が基本色」で造営されています。
また、家光公が眠る本堂は、東照宮の方角(家康公霊廟)を向いています。
さらに、境内面積や建物自体の大きさも含めたすべてが東照宮に比べてかなり小規模になります。
これらのことから推察できることは、初代将軍・家康公への敬意と、家康公の御廟である東照宮よりも派手にならないように、その忠臣たる最低限の威厳を残して造られたことを意味していると思われます。
現在、大猷院は明治時代初頭に発せられた、「神仏分離の法律」により、日光輪王寺の管轄で管理されています。
もちろん、世界遺産の中にこの大猷院も含まれております。
大猷院の場所(地図)
大猷院は、この日光山の数あるお堂の中でも、最奥に位置します。
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。