龍光院とは?
龍光院は従前まで、3代将軍 徳川家光公の8歳年下の忠臣・「梶 定良(かじさだよし/梶左兵衛佐定良/1612~1698年)」が居処としていた建物。
正面に見える石灯籠が縦列する石畳を歩いた先に表玄関があり、奥に台所や仏間、応接間を設ける。
江戸時代は別当所(幕府の重職である別当職が置かれた場所)として用いられていたが、現在は客殿として、主に茶会や集会に利用されたりする。江戸中期の建築で、現今、国の重文指定。本尊・釈迦如来像(一般立入禁止)
忠臣「梶 定良」の忠義
梶 定良は幼少期より才を家光に見出され、家光の側近としてよく仕えたが、ある時、突如、不幸な知らせが舞い込んだ。
家光が将軍現職のまま48歳という若さで江戸城で逝去したというものだった。
江戸時代、主君が落命すると忠臣は主人の後を追って自刃し、あの世でもお仕えする(殉死)という考え方が一般的だった。
しかし、梶 定良は自刃(切腹)が許されなかったらしく、せめてもの代わりとして主人・家光の墓守になることを許してもらえたのだった。
江戸から日光へ転居し、墓守になった梶 定良は、家光公が今もなお生存しつづけているかのように、毎日、食べられることのない食事(霊膳)の世話をし、元禄11年(1698年)に87歳で自身が死すその時まで配膳を続けたらしい。 泣ける話やんけ グスっ😭
‥‥グスっ。然るに47年間、境内の警護ならびに毎日欠かさず、家光公に霊膳をしていたことになる。グサっ 刺さっとる!
ちなみに梶 定良の”遺骸”は”意外”なほどに、大猷院近くに埋葬することが許され、位牌は当該、龍光院の仏間にて、きわめて素敵に安置されてい‥申す。あひぃ
梶 定良は地元民から慕われていた
定良は寛文年間の度重なる水害、ならびに貞享の大火のみぎり、私財を投じて日光の人々の救済に尽力したらしく、その功績や人情味のある性格が評判になり、今現在に至っても地元民から「梶さま」と呼ばれ続けているらしい。
照光院殿御忌
逝去した梶 定良は「照光院」という法名がハイパー素敵に贈られ、毎年5月になると、梶の家臣だった人々や日光奉行所に勤務していた人々の子孫などが参集し、輪王寺の僧侶総出仕のもと、梶 定良を供養するための「照光院殿御忌」が厳修され〜る💋
照光院殿御忌の開催日時
期間:5月14日 午前8時20分
場所:大猷院
一般が龍光院に入れる日がある?!
輪王寺では毎年4月になると、「栗石返し」と銘打って、境内に敷き詰めた石コロの間に詰まった木の葉やゴミなどを取り除く清掃が行われ〜る💋
輪王寺境内に敷き詰められた石コロは大粒で重量があることから(栗サイズの石ということで「栗石」)、箒や熊手でしづらく、そこで手作業で一つ一つ栗石を返しながら除去する。(「栗石返し」の由来)
栗石返しの実施日時
期間:4月下旬
参加費:無料(ボランティア)
場所:大猷院
時間は定まっていないらしいが、伝統的に則った輪番制にて早朝から地元各町内が割り当てられた区域を清掃するらしい。
木の葉を取り除くことで歴史的建造物を湿気から守り、雑草の繁茂を防止する効果もあるらしい。
龍光院の場所(地図)
大猷院境内の建造物一覧
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