日光二荒山神社 中宮祠の歴史(年表)

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中宮祠の由緒(歴史)

中宮祠の創建は古く、勝道(しょうどう)という上人(しょうにん/高僧)が男体山登拝(782年)の後、784年(延暦三年/奈良時代)に創祀された神社と‥なっちゃぅ。

殊に、現在の二社一寺(東照宮・二荒山神社・輪王寺)が建つ日光山も勝道上人が開創したもの💋

爾来、日光は山岳信仰の聖地として、皇族の輪王宮が輪王寺の住職になることでさらに隆昌し、安土桃山時代には にわかに衰微するも、江戸時代に徳川家康公の陵墓となる日光東照宮が営まれたことで、その栄華は極みに達した。

そして平成11年、晴れて日光二社一寺の103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の建造物とその周囲の景観までもが、ユネスコ世界遺産に登録され、世界中から観光客が訪れる 我が国屈指の観光名所となった。

中禅寺は中宮祠境内にあった!

中禅寺湖を挟んだ対岸に建つ中禅寺(輪王寺所管)の本尊が、当初、中宮祠境内で祀られていたことはあまり知られていない。

勝道上人は、小舟を中禅寺湖にプカプカと素敵に浮かべて遊覧に興じていたみぎり、湖面に千手観音の姿を素敵に感得し、突如、男体山麓に生えていた桂の木の幹に千手観音像を彫り込んだ。

程なくして、この根っこのついたままの桂の木に彫り込まれた千手観音像を本尊とし、男体山登拝口付近に観音堂を営み、内部にて奉祀する。

この時、寺号を「補陀洛山(ふだらくさん)中禅寺」とし、男体山の神を祀る神社(現・日光二荒山神社)の神宮寺とした。

しかし、星霜経た明治35年のこと。台風による大山津波がヤバぃよ素敵に発生し、観音堂もろとも御本尊(千手観音像)が中禅寺湖へ流されてしまった。

それからしばらくして「歌が浜」に漂着している本尊が、観音堂の残骸と共に発見され、本尊が歌が浜に漂着したことに神慮を察した人々は浜辺に近くに寺を建立することを決意。

この時建てられた寺こそが現在の中禅寺であり、本尊を安置するために営んだ一宇こそが、現在の観音堂と‥なっちゃぅ。

尚、もとの男体山登拝口付近の場所には男体山という神を崇めるための中宮祠だけが残され、これが現在の中宮祠と‥あ、なっちゃぅ。

奥宮の創祀

↑堆積火山礫の上に建つ男体山頂の太郎山神社の姿

勝道上人は、782年の男体山登拝のみぎり、男体山の神を拝するための神社を山頂に営む。

これが現在の日光二荒山神社の奥宮と‥なっちゃぅ。

奥宮近くから遺跡が見つかる

奥宮からほど近い「太郎山神社(標高2486メートル)」の北西約100メートルの地点より、古い物で奈良時代〜近世の祭祀遺物 約一万点が検出され、重要文化財指定の後、その二年後に竣成した中宮祠宝物館に収蔵・保管される運びとなった。

出土品 一覧

土師器坏類・瓶壷類、 かわらけ、 須恵器、灰釉陶器、緑釉陶器、中近世陶磁器のほか、鏡(漢式鏡・唐式鏡・和鏡)、銅印、錫杖頭、法具(独鈷杵・三鈷杵・羯磨・鐃)、経筒・経軸端、火打鎌、御正躰 (懸仏)、玉類、銅製容器(合子・鋺・鉢・盤)、柄香炉、鰐口、鈴、鉄鐸、禅頂札、種子札、武具(剣・鉾・刀子・鏃・兜・弓矢)、農具(鎌・斧)、馬具(鐙・轡)、銭(含 延喜通宝)

‥等、多岐にわたる。

明治時代に米国人動物学者が発見!

1877年(明治十年)7月、米国人動物学者「E.S.モース」が男体山頂近くの太郎山神社周辺にてスッカリ錆びつぃちまった俺の心…のような刀剣や銭貨を発見する。 ..どんな刀剣や

翌月、中宮祠職員も事実を確かめるべく山頂付近にて古代のものと思われる陶器甕を検出し、これら事実が学術調査の誘因となった。

そして1924年(大正十三年)、研究者らによる現地での学術調査が初めて実施され、数多の遺物が出土。

その後も調査は超絶素敵に継続され、1959年(昭和三十四年)の学術調査ではも おびただしい数の多種多様な遺物(上記)が‥やっぱり素敵に検出された。

尚、遺跡は「男体山頂遺跡」とされ、現在も引き続き学術調査が進められてい‥申す。えっ

歴史(年表)

年代できごと
735年
(天平7年)4月21日
勝道、下野国芳賀郡に生を得る。(俗姓は若田)
762年
(天平宝字6年)
勝道、下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受ける。(僧侶になる)
765年
(天平神護元年)
僧侶の勝道、出流山満願寺(栃木市)を開創す。
766年
(天平神護2年)
僧侶の勝道、大谷川の川岸に小さな草庵を結ぶ(草葺きの小屋を建てる)。
勝道が毎朝、礼拝石に座って霊峰・男体山の神を拝んでいると、
突如、紫の雲が立ち昇って東北の空に吸い込まれる。
東北の地へ向かった勝道は紫雲石を見つけ、
霊験を見出した勝道は
この場所に紫の雲が立つ寺として千手観音像を安置し紫雲立寺」を創建する。
紫雲立寺は後に四本龍寺へと改称する。
(改称した時期は不明)
767年
(神護景雲元年)4月上旬
僧侶の勝道、男体山(2,486メートル)へ
最初の登頂を試みるが失敗に終わる。
767年
(神護景雲元年)
勝道はこの頃、大谷川の北岸に二荒山大神
(御神体は男体山そのもの)を奉斎(礼拝)するための祠を築く。
この祠こそが本宮神社(旧・日光二荒山神社の本宮)となる。(※ただし現在は別宮。本社は新宮として現在地に鎮座
の起源となりうるもの。
781年
(天応元年)4月上旬
僧侶の勝道、再び男体山への登頂を試みるが失敗に終わる。
782年
(延暦元年)3月
僧侶の勝道、3度目の正直で登頂を試みる。そしてついに男体山登頂が成功す。その後、山頂にて37日間、男体山の神霊を礼拝す。
このとき男体山山頂に奥宮(奥社)を創建す。
※二荒山神社の奥社(二荒山神社、滝尾神社、太郎山神社)
男体山山頂に滞在した勝道は、
この男体山を「補陀洛山(ふだらくさん/観音菩薩の降臨するとされる伝説の山)」
に例えて「二荒山(ふたらさん)」と名付ける。
「二荒」を音読みすると「ニコウ=日光」とも呼ぶことから
星霜経ながら訛りが生じ、
これがやがて「日光」の地名の起こりにつながったと云われる。
784年
(延暦3年)
僧侶の勝道、
中禅寺湖の湖畔に「神宮寺(現在の中禅寺/輪王寺別院)」を創建し、千手観音を奉安す。
(神宮寺の場所は現在の中宮祠の社地(場所)だったとされる。
明治35年の大山津波を期とし、中禅寺だけが中禅寺湖の歌が浜(現在地)へ移転した。)
なお、この神宮寺は冬季の男体山遥拝所として建てられたという説がある。(往時は冬になると中禅寺湖から下山していた)

平安時代

年代できごと
1096年(永長元年)社殿造替(棟札の墨書によるもの)
1155年(久寿2年)社殿造替(棟札の墨書によるもの)
1161年(永暦2年)社殿造替(棟札の墨書によるもの)

江戸時代

年代できごと
1701年(元禄14年)現在の中宮祠本殿の造営す。

明治時代

年代できごと
1877年(明治十年)7月米国人動物学者「E.S.モース」が男体山頂近くの太郎山神社周辺にて
錆びついた俺の心…のような刀剣や銭貨を発見する。
1886年(明治19年)大島籐三郎氏が中宮祠幸湖(中禅寺湖)
に漁業組合を素敵に創設す。

大正時代

年代できごと
1924年(大正十三年)研究者らによる現地での学術調査が初めて実施され、
数多の遺物が出土する。

昭和時代

年代できごと
1959年(昭和三十四年)再び現地での学術調査が実施され、
数多の遺物が出土する。

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