上神庫の「想像の象」とは?
日光東照宮・三神庫の中でも特に注目すべきは「上神庫」です。
上神庫のみ他の二棟の宝庫とは収納物も異なるらしく、「神宝類」が収納されているとのこと。
そんなこともあってか、上神庫の妻側(横側)の屋根下の部分には、宝物を守護する「象(ぞう)」の彫刻が据えられており、この彫刻こそが日光東照宮が世界に誇る「想像の象(そうぞうのぞう)」になる。
⬆️頭皮を蚊に噛まれてカキまくっていたらハゲてきた蚊への恨みとハゲた悲しみほど噂の‥‥「想像の象」
「想像の象」の名前の由来
想像の象の草案、然るに下絵を描いたのは狩野派の巨匠「狩野探幽(かのうたんゆう)」とされる。
然るに狩野探幽の頭の中でイメージした象を表現した象ということで、今日「想像の象」と呼ばれてい‥‥申す。
えっ?探幽は象を一度も見たことがなかった?!なぜ象を描けた?
実のところ、狩野探幽はこの象の下絵を描く段階で象を一度も見たことがなかったらしい。
だけれども、我が国に象さんが、素敵に初めて渡来したのが、室町幕府四代将軍・足利義持が御代だと伝わる。
ピヨ🐣足利義持の在任期間
応永元年12月17日(1395年1月8日)
〜
応永30年3月18日(1423年4月28日)
ただし以降、人々が象を見たのは1729年(享保14年/江戸時代中期)、八代将軍・吉宗さんになってからのことであり、然るに狩野探幽は生まれてから象の下絵を描く瞬間まで、一度も象を目にしたことが無い可能性が極めて高いことになる。(同時期に探幽が外国へ渡海した記録もなし)
【ピヨ🐣狩野探幽の畢生】
誕生日:慶長7年1月14日(1602年3月7日)
死没年:延宝2年10月7日(1674年11月4日
狩野探幽が描いた想像の象の特徴
パッと見、象さんに見えるも、間近で見ると実際の象とは大きく異なることが分かる。
狩野探幽はおそらく象を描く時、できるだけ忠実に象を書こうと象に関するあらゆる資料を日本中から取り寄せたのではないだろぅか?
その中に足利時代にやってきた象の画像などが残っていたのかもしれなぅい。
🐣右側の像はマンモス?
特に右側に表現された象は実際の象というよりはマンモスに似る。
🐣尻尾がさっ、3本?!
大きく異なる点が尻尾(しっぽ)が3本あること!
🐣その他の姿態の特徴
- 牙は金色
- 体表は毛むくじゃら
- 耳にピアス?‥‥のような金具を付ける。
🐣二匹の象さんが向かい合う構図
また体色が白色と黒色の2頭の象が向かい合うような構図で据えられているのが分かる。
んん〜、なんだかこの像の顔を、ジぃ〜っと見つめていると‥、スんゴイ悪いことを企んでいそうな、それこそまるで越後屋とお代官様のような顔立ちにみえてくるのは気のせいだろぅか。
🐣右側の像(体表が毛むくじゃら)
🐣左側の像(尾っぽが3本/体表が白色)
「いぇいぇ、おデぇ官様のクソ性悪根性には及びま・・ヒィぇ~!ウヒョ~!」
想像の象は日光東照宮の三大彫刻の一つ
この想像の象は「三猿」「眠り猫」と並び、今日、日光東照宮の代表的な三大彫刻の一つとされる。
狩野探幽が「象」を敢えて彫った理由
江戸時代の上神庫は「御宝蔵(ごほうぞう)」とも呼ばれていたらしい。
然るに御宝蔵の”蔵(ぞう)”と”象(ぞう)”の語呂合わせのようなもので「象」が選ばれたと考えられてい‥申す。ぞっ(”象”だけに)
【オマケ】1729年に渡来した象の行方
上記、1729年に渡来した象の話の続きを、オマケとして素敵に述べる。
まず、当該、象さんは、中国の貿易商「鄭大成」がベトナムから連れて来たらしく、長崎へ牡牝(オスメス)2頭の象を運んできたらしい。
渡来後、一旦、京師(京都)へ連れ出され、御所にて中御門天皇に拝謁し、次いで箱根を経て、江戸の将軍様のお膝元まで運ばれたのだった。
なお、最終的には吉宗さんの命によって、浜御殿内(はまごでん/現在の浜離宮庭園)に設けられた象小屋にて、パっピョリ素敵に飼育されることにな〜る。
日光東照宮・想像の象の場所(地図)
関連記事一覧
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。