日光山輪王寺「勝道上人の墓」
現在の日光山を開創した勝道上人は、この仏岩(ほとけいわ)がある場所一帯を「離怖畏所(りふいしょ)」と呼んでいます。
「離怖畏」とは、「離怖畏如来」に代表されるように、『すべての恐怖心や不安を排除する』などの意味合いがありまする。
仏岩の下は勝道上人の墓であり、火葬した現場‥‥ヒィィィ怖”
勝道上人は弘仁8年3月1日(817年3月21日)に弟子たちに囲まれながら83歳でこの世を去ってい‥‥‥申す。グゲっ
勝道上人の遺体は荼毘(火葬のこと)に付され、その火葬した場所というのが、ちょうどこの仏岩のあった場所だったとされてい‥‥‥まする。(フェィント)
荼毘に付した後は、お骨を拾い集め、当地に墳墓が築かれてい‥‥‥申す。ガハっ
看板の内容
日光開山の祖、勝道上人は、弘仁8年(817)に83歳で遷化され、仏岩で茶毘にふされた。
当初、上人の遺骨は仏岩谷の上方に埋葬されたが、東照宮鎮座のおり、開山堂が建てられ、遺骨もここに移された。
五輪塔の台石には「勝道上人之墓」と刻まれている。
また、隣にある三基は、上人の弟子のもの。
勝道上人の来歴と生涯(年表)
年号 | 出来事 |
735年(天平7年)4月21日 | 勝道、下野国芳賀郡に生を得る。(俗姓は若田)オぎゃ〜、オぎゃ〜、母乳ちゅちゅ💋 |
762年(天平宝字6年) | 勝道、下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受ける。(僧侶になる) |
765年(天平神護元年) | 僧侶の勝道、出流山満願寺(栃木市)を開創す。 |
767年(神護景雲元年)4月上旬 | 僧侶の勝道、日光山へ最初の登頂を試みるが失敗に終わる。 |
781年(天応元年)4月上旬 | 僧侶の勝道、再び日光山への登頂を試みるが失敗に終わる。 |
782年(延暦元年)3月 | 僧侶の勝道、3度目の正直で登頂を試みる。そしてついに登頂成功す。その後、山頂にて37日間、日光山の神霊を礼拝す。 |
784年(延暦3年) | 僧侶の勝道、中禅寺湖の湖畔に「神宮寺(現在の中禅寺/輪王寺別院)」、山麓に「本宮(現在の本宮神社)」と「四本龍寺」を創建す。 これら勝道が創建した社寺が日光山繁栄の礎となり、これ以後、日光は神仏信仰の聖地として繁栄をきわめていく。 |
795年(延暦14年) | 勝道上人、以降に上野国講師に任命され、「上人」の称号を授与される。以後は上野国分寺に滞在す。 |
807年(大同2年) | 勝道上人、干ばつが起こった際は日光山にて祈雨を執り行う。その功あって「伝灯法師位」の僧位が授与される。 |
810年(弘仁元年) | 勝道上人が開創した創建した神宮寺ならびに四本龍寺に「満願寺」号を賜る。以後、寺号を「満願寺」へ改称す。満願寺は現在の輪王寺の前身寺院。 |
816年(弘仁7年)4月 | 勝道上人日光山山頂に三社権現社を創建す。 |
817年(弘仁8年) | 勝道上人、四本龍寺の北にある岩窟にて83歳で死去。 |
仏岩のオススメの巡り方
この仏岩は東照宮の美術館から直進する形で1本の山道を歩いた先にありまする。
実はこの仏岩を含めたこの山道は「日光史跡探勝路(滝尾神社コース)」というものに含まれてい‥‥‥これはやめとこか。オホっ
この史跡探勝路を巡ることで日光山内に点在する堂や社が巡拝できるようになってい‥‥‥申す。グヘっ
勝道上人の墓の場所(地図)
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