日光田母沢御用邸
読み方
にっこう たもざわ ごようてい
※「たぼざわ」ではありませんのでご注意ください!
造営年
1899年(明治32年)
敷地面積
39,390㎡(11,900坪)
※面積比較:阪神甲子園球場の敷地39,600㎡とほぼ同じ広さ。一般的なサッカーグランド約5.5個分の広さ。
- 造営時の敷地面積:107,000㎡(32,000坪)
建築規模
床面積4,471㎡(1,350坪)、106室
※面積比較:バスケットボールコート約10個分の広さ。
建築様式
木造、二階建(一部三階)、銅板葺
重要文化財指定年月日
2003年(平成15年)12月25日
日光田母沢御用邸記念公園の開園の経緯
当地に御用邸が建造された理由とは❓
病弱であった皇太子の避暑地向けの静養先の候補地探しが行われた。
その結果、明治以降に外国人や華族、実業家の別荘地として開拓されていた日光に注目が集まり、結果、日光が選定された。
田母沢御用邸が公開された理由とは❓
日光田母沢御用邸(にっこうたもざわごようてい)は、日光出身の銀行家・小林年保(こばやしねんぽ)の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の3階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として建造されました。
以後は修学旅行生の宿泊施設として活用されたり、博物館として利用されたりしていましたが、老朽化が進んでいました。
そのため、1996年(平成8年)に栃木県が買い取り、建築技法などの調査研究が行われた後、修復が始められた。
そして、面積が最大だった1921年の姿をできる限り復元する形で建物がよみがえり、2000年、旧御用邸は記念公園として再スタートを切りました。
田母沢御用邸の歴史(年表)
年 | できごと |
1896年(明治29年) | 年末より田母沢御用邸用地の買収交渉開始される。 買収前の住民は安川町(土地所有者は、伯爵勝海舟で、町名も勝伯爵から賜り安川町となった)へ集団移転した |
1897年(明治30年) | 病弱であった皇太子の避暑地向けの静養先の候補として、日光が選定される。 |
1898年(明治31年) | 地元出身の銀行家小林年保の別邸に赤坂離宮から旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築して御用邸の造営を開始、翌年完成する。 |
1899年(明治32年)6月 | 日光田母沢御用邸が落慶(完成)す。 1893年9月に日光東照宮・朝陽館を買い上げて完成した山内御用邸は、当邸完成後も引き続き皇族が利用した。 |
1912年(大正元年) | 嘉仁親王(大正天皇)が即位される。 |
1917年(大正6年) | 大正天皇が公務の心労から健康状態が悪化し、静養所の拡充が急務とされる。 |
1918年(大正7年) | 天皇が御用邸で公務を行うことが増えたため、天皇の滞在所として大増改築が行われる。 2年後完了。
|
1920年(大正8年) | 大増改築が完了す。 |
1922年(大正10年) | さらに小規模な改築が行われ、現在の姿となる。 |
1922年頃〜1925年頃まで | ※1925年頃までは大正天皇、大正天皇崩御御は昭和天皇・香淳皇后が、夏の静養所として使用された。 |
1944年(昭和19年)7月 | 東京大空襲に備え、皇太子(第125代天皇明仁)の疎開先となる。 |
1945年(昭和20年) | 終戦を迎えた後の田母沢御用邸は廃用となり、大蔵省関東財務局の所管に置かれる。 |
1947年(昭和22年)10月 | 栃木県が大蔵省より旧田母沢御用邸を借り受け、栃木県観光協会が運営者として一般公開す。 |
1948年(昭和23年)4月 | 「日光国立公園博物館」として一般公開される。 日光の歴史を始め、地形・地質、動植物、工芸品など多岐にわたって紹介施設となる。 |
1950年(昭和25年) | 御用邸本館と庭園の一部を除いた敷地のほとんどが日光植物園へ移管される。 |
1957年(昭和32年)頃 | 日光博物館が旧・日光パレスホテルへ移転す。 |
1960年(昭和35年)頃 | 旧田母沢御用邸内に日光博物館が再び開館す。 |
2000年(平成12年) | 修復工事が完了し、「日光田母沢御用邸記念公園」として開園する。 |
2001年(平成13年) | 明仁天皇・美智子皇后が来園す。 天皇自身が皇后を案内しつつ疎開時の思い出などをお話される。 記念にイチイの木を植樹。
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2003年(平成15年)12月 | 御用邸十棟が、国の重要文化財に指定される。 |
2006年(平成8年) | 日光田母沢御用邸が政府より栃木県へ譲渡される。 |
2022年(令和4年)1月9日 | 日光田母沢御用邸記念公園の研修ホールにて日光市主催の成人式が開催される。 当園が成人式会場となったのは初。 |
小林年保(こばやしねんぽ)とは❓
小林年保は、江戸時代は日光奉行所(役所)の同心(下級役人)を務めた人物で、明治維新後は徳川慶喜に付き従い静岡県駿河に移り住みました。
それから明治新政府に登用されて頭角を現し、民間に転じて初代・静岡商工会議所会頭や静岡第35国立銀行(現在の静岡銀行)頭取などを務めました。
また、「小林銀行」を開業したり、日光の老舗ホテル「金谷ホテル」の開業のため多額の融資を行ったりした、実業家・資産家でもありました。
御用邸が現在の姿形になったのは1921年!
御用邸では建造後も増改築が行われ、現在の姿となったのは1921年のことです。
戦時中には当時の皇太子殿下が学童疎開のため、学習院初等科5年生から6年生にかけての約1年間ご滞在されるなど、戦後1947年に廃止されるまで天皇・皇太子が3代に渡って利用されました。
現在、御用邸として使用されていた場所を当時のまま残し、一般に公開されているのは全国でもこの田母沢御用邸のみだということです。
建築部分は「旧日光田母澤御用邸10棟」として国の重要文化財に指定されています。
構造・分類上「10棟」となっていますが、前述の通り1つに繋がっています。
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