日光山輪王寺「渡廊(2つ堂)」【重要文化財】
創建年
- 1649年(慶安2年/江戸時代前期)
建築様式(造り)
- 切妻造
- 前後軒唐破風付
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行八間(奥行:約16m)
- 梁間一間(横幅:約2m)
重要文化財指定年月日
- 1944年(昭和19年)9月5日
「渡廊」の読み方
「渡廊」とは「わたろう」読み、つまりは「渡り廊下」のことを指します。
渡り廊下ですので建造物と建造物の間を繋ぐ廊下になり、現代では「渡廊下」や「渡り廊下」と呼称されます。
尚、「渡廊をわたろう」!!・・などと、豪快かつ迂闊(うかつ)に発してしまうと、友達・恋人との縁を「即切りされる」起点にもなり兼ねますのでご注意ください。ホゥホゥ
「渡廊」の建築様式(造り)
渡廊の細部にも見事な極彩色を見ることができます。
もっとも目立つ場所に唐破風の軒下と極彩色の組物が眩いばかりに目を惹きます。
朱色の丹塗りに緑色の連子窓のコントラストが上記の極彩色と合わさり、日光山の建造物の特徴に華を添えてい‥‥‥申す。
渡廊の間からは「日光山 輪王寺 慈眼堂」へ行ける!
常行堂と法華堂の間を渡り廊下となるこの渡廊が結んでいますが、渡廊の間は通行できるように一部、地面になっており、つまりは通路が一旦、途切れています。
この通路の切れ目からは、山奥へ入っていく道が見え申す。
実はこの道の先には「慈眼堂(じげんどう)」というお堂が建っているのですが、慈眼の名前を聞いてピーンっ!ときた方はなかなかの通です。
この慈眼堂には慈眼大師(天海大僧正)の墓がありまする。
天海大僧正は徳川家康、秀忠、家光の3代に使えた将軍家の懐刀であり、もっとも有名な功績としては江戸の町を設計したり、この日光の地を復興した人物でもあり申す。
しかし、渡廊の途切れた部分には柵もしくはロープが張られ、その先に進めなくなっています。
つまり、その先は禁足地になっているということでガンす。
慈眼堂は通常非公開!
なんとぉぅ!残念無念なことに慈眼堂は普段、一般非公開の場所であり、特別一般公開の時にしか入ることが許されない神聖な場所として認知されている場所です。
慈眼堂の特別一般公開については不定期で実施されているようなので、詳細は下記、日光山輪王寺の公式サイトをチェックしてみてくだすわぁぃ♡
もしくは、過去に「日光東観荘」という旅館にて募集されていたことがあり申したので以下にリンクを掲載しておきまする。
日光山輪王寺の「2つ堂」とは?
「2つ堂」とは、2つの同じ形をした堂舎を「2つ堂」と言いまする。
日光山輪王寺には「常行堂」「法華堂」と言う、2つ連なった珍しい形状の堂舎が、ちょうど大猷院の参道入口あたりに建立されています。
同じ大きさの2棟の堂舎が渡り廊下で繋がっており「二つ堂」あるいは「天秤(てんびん)」に見立てて「担い堂(荷い堂/にない堂)」とも呼ばれてい‥‥申す。
なお、2つのお堂と渡り廊下(渡廊)は、それぞれ国の重要文化財に指定されています。
円仁が「2つ堂」にして建立した理由
円仁の考えというよりは、台密としての教理の中に、阿弥陀如来を本尊とする常行堂と、普賢菩薩を本尊とする法華堂とが、渡り廊下によってつなぎ合わされることにより、天台宗の教理の1つである法華一乗と念仏が一体化した様子を表現していると云われるからです。(天台宗は正式名を「天台法華円宗」という)
法華堂の本当の創建年はいつ?
法華堂は848年(平安時代初期)、円仁が輪王寺(当時の寺号は”満願寺”)へ入山して創建され、その後、1100年代に再建されたという説があり申す。
しかしながら、円仁が輪王寺を訪れたという話は俗説との見方があり、実際は1100年代に創建されたとも考えられています。
渡廊(2つ堂)の場所
日光山輪王寺「2つ堂(常行堂・法華堂・渡廊)」は、日光二荒山神社の鳥居前に位置し、左脇の最奥には家光公が眠る「大猷院(たいゆういん)」があります。
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