日光山輪王寺「行者堂」【栃木県指定 有形文化財】
創建年:平安時代
再建年:
1575年(天正3年/戦国時代)
1990年(平成2年)に改築
1992年(平成4年)に内部に安置される群像に彩色がほどこされる(塗装工事)
現在の行者堂を建てた人物:桜本坊宗安
「行者」の名前の由来や意味とは?
「行者」とは「ぎょうじゃ」と読み、仏道・修験道(しゅげんどう)の修行をする人のことをいう。オホ
行者堂の歴史
この行者堂の創建された年代は不明。推定では平安時代とされ、ちょうどこの頃は山岳信仰の盛んな時代でした。
「輪王寺明細帳」によれば、現在の堂は1585年(天正13年)に桜本坊宗安が再興する形で建てたものだと伝えい‥‥申す。ゴハっ
その後、平成2年に改修工事が実施され、次いで平成4年には内部に安置される役小角像および脇侍(待鬼)の鬼2躯(体)も彩色が施されてい‥‥‥申す。ガハっ
以後も数度におよぶ軽微な修理が施工され、今日に至りまする。
行者堂の役割
この行者堂は修験者の修行場として建てられた堂でゴザる。
行者堂のご利益
- 健脚長寿
- 無事に帰ることができる(交通安全)
この行者堂が位置する場所は古来、女峰山への登山口でもあり、道行く人々はココで無事を祈願して山へ入ったそうな。
それゆえ、祈願することで足が丈夫なり、道中の諸害から身を護ってくださる利益があるとされまする。
行者堂の内部で祀られている仏像
行者堂の内部は修験道の開祖である「役小角(えんのおづぬ/通称・役行者」を中央に配し、その左右両脇に2躯(2体)の待鬼(鬼の像)を2躯が奉安されてい‥‥‥申す。グハっ
これらの諸像は剥落が著しかったことから、平成4年に塗り直しが実施されてい‥‥‥申す。ガハっ …あ、”ガハっ”2回目か?
役行者とは?
通説では、役行者は舒明天皇6年(634年)に大和国葛上郡茅原郷(現在の奈良県御所市茅原)に生まれ、17歳のときに元興寺(奈良)にて孔雀明王の呪法を学んだ後は、葛城山(かつらぎさん/奈良)にて修行を行い、修験道を見出したとされる。
また、呪術や法力に優れた才を発揮し、鬼を使役する力を有していたと云われる。
なお、役小角は実在した人物とされるが、山岳信仰の隆昌により、後世にて彼を尊崇した人々が彼の人物像を脚色し、現今においては存在自体の架空説も考えられている。うきゃ
行者堂と日光修験
日光修験とは、日光山で行われてきた独自の修験道のことでガンす。
明治初頭の神仏分離により、日光修験は禁止されていたのですが、現今に至っては輪王寺(中禅寺)、日光山興雲律院、日光二荒山神社の協力で復興され、通称「三峯(さんぶ)」と呼ばれる春・夏・秋の3回の峰入りがおこなれれてい‥‥‥申す。ガヘっ ”ガヘっ”は初
三峯(さんぶ)
- 春峰(華供峰)
- 夏峰(補陀落夏峰)
- 秋峰(五禅頂)
※往時は四季にまたがり「三峯五禅頂」という入峯修行が行われていた。
※女峰山を目指して四本龍寺(勝道上人が草庵を結び日光を開創した場所)に集合し、行者堂から入山するのは秋峰(五禅頂)。
行者堂の建築様式(造り)
柱は組物を用いず舟肘木で組み上げ、天井は竿縁天井、壁面は横嵌板張りの簡素な建物。
入口には扉がない。
正面の一間は土間造り。
二間目から一段高くなって床板が張られている。
奥の一間部分に壇が設けられ修験道の開祖「役小角」がまず、中央に、その左右両脇に2体の侍鬼(前鬼・後鬼)が奉安されてい‥‥‥申す。モヘっ
行者堂の見どころ
草鞋(ワラジ)の奉納
この行者堂へは草鞋を奉納してから入山して登山される方も散見されまする。
古来、この行者堂へ草鞋を奉納して願を掛けると足腰の病が平癒に至り、また、丈夫なるという俗信があり申す。
狛犬
行者堂の堂前には左右両脇に対になった狛犬像があります。
台座に以下のような刻銘が見えまする。
『享和三亥年 下野国都賀郡友沼村住 俗称 杢原弥太良』
この刻銘を訳すと、享和3年(1803年の亥の年/江戸時代後期)に下野国(現在の栃木県)の都賀郡の友沼村(現在の野木町友沼村)の「杢原(もくはら)弥太良」が奉納したことになりまする。
登山届ポスト
行者堂から女峰山を目指す登山ルートは標高差1758mもあり、片道約4時間30分を要するルートです。
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行者堂の場所(地図)
行者堂のオススメの巡り方
この行者堂は東照宮の美術館から直進する形で1本の山道を歩いた先にありまする。
実はこの行者堂を含めたこの山道は「日光史跡探勝路(滝尾神社コース)」というものに含まれています。
この史跡探勝路を巡ることで日光山内に点在する堂や社が巡拝できるようになってい‥‥‥申す。グヘっ