日光二荒山神社(末社)・日枝神社【重要文化財】
創建年
- 不明
- 推定:848年(嘉祥元年)
再建年
- 1648年(慶安元年)から1651年(慶安4年)頃
- 1911年(明治44年)
建築様式・造り
- 正面入母屋造
- 背面切妻造
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行一間(奥行:約2m)
- 梁間一間(横幅:約2m)
重要文化財指定年月日
- 1973年(昭和48年)6月2日
御祭神
- 大山咋命
神事
- 例年6月15日
発願者
- 円仁(慈覚大師)
日光二荒山神社・日枝神社の読み方
日枝神社は「ひえじんじゃ」と読みます。
日光二荒山神社・日枝神社の歴史・由来
日光二荒山神社の日枝神社は、有料エリアとなる「神苑」の中にありますので、参拝するには所定の拝観料金が必要になり申す。
日枝神社の創祀
820年(弘仁11年/平安時代)に弘法大師・空海が女峰山の祭神である田心姫命を勧請して滝尾権現を建立します。
その滝尾権現は遥拝所として祭祀し、848年(嘉祥元年)に慈覚大師・円仁が日光山へ入山した折、日枝神社(山王信仰に基づく日枝神社とは、比叡山麓の日吉神社(現在の日吉大社)より勧請を受けた山王権現のこと)を滝尾権現境内に勧請しています。
これが日枝神社のはじまり(起源)とされてい‥‥申す。
日吉神社は現在では、日本屈指の「日吉大社」の名前でスッカリかりかりカリカリ梅‥酸っぱ!!‥‥てなほど、スッカリと有名になっちまっていやすが、日吉社といえば比叡山を開創した伝教大師・最澄が延暦寺ひいては天台宗全体の守護神として尊崇を寄せてた社です。
円仁とは?
円仁(えんにん)は別名「慈覚大師(じかくだいし)」と言い、天台宗の3代目の座主になったほどの人物です。
794年(平安時代)に下野国(しもつけのくに/栃木県)にて、壬生氏の氏族としてこの世に生を得ています。なんでも円仁が生まれた直後にお空には吉兆を告げる紫色の雲がたなびいたそうです。
しかもちょうど何の因果か、平安京が成立した年の生まれでゴンす。
802年に下野の大慈寺に入山し、15歳のときに比叡山(ひえいざん)の伝教大師・最澄(さいちょう)に師事します。
838年には遣唐使として、遣唐使船に乗り込み、中国唐へ訪れています。
唐から帰国した後は日本各地を巡礼し、唐で学んだ教えや修法を広めたばかりでなく、多数の寺院の建立や再建にも携わっています。
この巡礼の最中、日光へも立ち寄り、円仁は千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三仏(日光三所権現本地仏)を日光市野口にある山王社(現在の日枝神社)に勧請してい‥‥‥申す。(つまり山王社は現在の三仏堂のルーツということになる)
つまり、日枝神社と山王信仰が天台宗から派生したものであると言うことは確かなようです。
日光山縁起に登場する神々一覧 | ||||
日光三山 | 日光三社権現 | 日光三所権現 | 日光三所権現本地仏(三仏) | 日光三神 |
女峰山(※母) | 滝尾権現 | 女体権現 | 阿弥陀如来 | 田心姫命(母神) |
二荒山(男体山)(※父) | 新宮権現 | 男体権現 | 千手観音 | 大巳貴命(父神) |
太郎山(※子) | 本宮権現(太郎権現) | 太郎大明神 | 馬頭観音 | 味耜高彦根命(子神) |
※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられています。
明治時代に現在地に遷座した
かつて、二荒山神社本殿の後方には「後殿」という建造物が建っており、これが1911年(明治44年)に改修された際、現在の日枝神社の場所に移築されています。
つまり、現在の日枝神社およびその社殿は、明治44年に移築されてきた後殿という建造物をそのまま受け継ぐ形で使用していることになり申す。
それでその後殿が造られた年代ですが、様式や手法から二荒山神社拝殿と同時期とみられています。
平成の保存修理
この日光二荒山神社の末社「日枝神社」では、外部の塗装の剥落が目立ってきたのと、縁廻り、飾り金具などの腐朽化が見られたため、平成25年6月1日〜2020年10月5日に保存修理が実施されています。
日枝神社のルーツとは?
全国にある「日枝神社」のルーツは、比叡山の麓にある「日吉神社(ひよしじんじゃ/=日吉大社)」です。
比叡山はもともと「日枝山(ひえのやま)」という名称で呼ばれていたということで、「日枝神社」の名前の由来となりました。
日吉神社も古くは日枝神社と呼ばれていたようです。
山王権現の名前の由来とは?
日本の天台宗の起源ともなる中国の天台山にある天台山国清寺では、「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」という守護神を祀りたてており、円仁により日本へもたらされたこの神は「山王権現」と呼ばれるようになってい‥‥申す。
東照宮造営の総指揮を執った南光坊天海僧正も天台宗の帰依を受けた僧侶であり、神仏習合時代には独自の見解となる「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を唱え、家康公を東照大権現として祀りたて国家の守護神としていまする。
日枝神社の例祭日
日枝神社では毎年6月15日には例大祭が執り行われます。
日光二荒山神社・日枝神社の建築様式(造り)
日枝神社は朱色の丹塗りの小さなお社です。
日枝神社の殿舎も日光東照宮の境内の建造物の特徴と類似しており、極彩色で彩られています。
正面の扉は、黒漆塗りの四辺に金色の装飾が施された開き扉が据えられており、豪華な仏壇を彷彿とさせます。
縁(えん)は背面を除いた三辺に回されており、「背面は切妻造り」で「正面は入母屋造り」と言う一風変わった様式で造営されています。
通例であれば「階隠し(はしかくし)」といって手前に延びる階段を覆い隠すか、神社であれば屋根を流造りする例が多いのですが、この殿舎はそのような仕様にはせず、それどころか向拝(ごはい)すら設けないという稀有な造りです。
だとすれば手前の階段は後で附属されたか。
⬆️正面の貫などには極彩色の唐草模様があしらわれている。社殿内部は御簾(みす)が付けられていて見えない。
日光二荒山神社・日枝神社の御朱印
この日枝神社にもオリジナルの御朱印があります。
中央に日枝神社の墨書きがあり、右にご利益の1つでもある「健康守護」の墨書きがあります。
- 御朱印の値段:300円
- 御朱印の授与場所:境内入口の社務所
日光二荒山神社・日枝神社の御祭神「大山咋命」
大山咋命は「おおやまくいのみこと」と読み、「おおやまくいのみこと」の「くい」とは「杭」のことを意味し「おおやまくい」とは、大きな山に杭を打つ、つまり山を所有し治めるという意味合いなると云われます。
名前だけで読み進めると「クソデカイ山を食うミコち~」と言う風にも受け取れます。よぅわからんわ
最澄はこの大山咋命を比叡山や延暦寺(えんりゃくじ)の結界を守る守護神として祀っていますが、日光二荒山神社の日枝神社では「山と健康の神」との由来があります。
また、大山咋命は比叡山の山の神様で、日本各地の日枝神社も、総本山である日吉大社(日吉神社)から、神様をわけてもらって祀っています。(=勧請/かんじょう)
そして比叡山と言うと、上記の天台宗の総本山・延暦寺があります。
天台宗の開祖である最澄が比叡山延暦寺を開いた時、最澄は大山咋命を始めとする山の神々を「山王(さんのう)」と呼称し、比叡山や延暦寺の守護神としました。
最澄が延暦寺の守護神として理由とは、日本には古くから「山は神が宿る場所である」あるいは「山は神である」という「山岳信仰」があったからです。
現在でもこの山岳信仰は日本人の遺伝子に脈々と受け継がれており、山へ入り祈願するために毎年、多くの人々が登山(登拝)されています。
天台宗から生まれた神道があった!?「山王神道と山王神社」
平安時代以降、最澄の弟子や後継者たちによって天台宗が全国に広まるのと同時に、天台宗の教えと山王の信仰を組み合わせた「山王神道」と呼称される思想も広まりをみせました。
後に山王神道は、日本各地に日吉神社、日枝神社、または山王神社と呼ばれる神社ができるほどに発展を遂げます。
そして上述したとおり、現在でもこれらの神社は現存しており、全盛期より数は減ったものの、それでも日本全国で約3800社もの神社が現存しています。
身近な場所ですと、中禅寺湖の湖畔にある、二荒山神社の中宮祠にも「山王社」があります。
日枝神社に祀られているのが山の神だという点においては、男体山、女峰山、太郎山と言った各・山の神を祀る日光二荒山神社との共通点が見出せます。
日枝神社のご利益
- 健康長寿
- 安産祈願
日光二荒山神社・日枝神社の場所
日光二荒山神社・日枝神社は神苑の受付を入って右手に位置します。