日光二荒山神社「滝尾神社」【日光二荒山神社・別宮】
主祭神:田心姫命(たごりひめのみこと)
※女峰山の女神(大己貴命/おおなむちのみこと/の嫁神でもある)
項・一覧
滝尾神社の境内案内図
日光二荒山神社には飛び地にも境内があるのだが、そのうちの1つが滝尾神社でゴザる。
滝尾神社は日光二荒山神社の本殿がある境内地の後方の山奥に位置します。日光二荒山神社の本殿から徒歩約30分、距離にして約1.8㎞です。
スケジュール的に時間が許せるのであれば、立ち寄ってみてはいかがでしょう‥‥かっ!カカカっ! かつおぶし
滝尾神社の参拝順路
滝尾高徳水神社(たきのおたかとくすいじんじゃ)→ 白糸の滝(しらいとのたき)→ 別所跡→ 影向石(ようごうせき)→ 運試しの鳥居(うんだめしのとりい)→ 楼門(ろうもん)→ 拝殿(はいでん)→ 本殿・唐門(ほんでん・からもん)→ 縁結びの笹(えんむすびのささ)→無念橋(むねんばし)→ 三本杉(さんぼんすぎ/御神木)→ 滝尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ)→ 酒の泉(さけのいずみ)→ 安産子種石(あこだねいし)
白糸の滝
名前の由来
流下する水の様子が白糸や絹糸を垂らしたように見えることから由来が来てい‥‥‥申す。ガフェっ
なお、このような白糸の滝という名前の滝は全国各地に存在することから、滝の種類の名称と位置付けることができまする。
看板の内容
『天狗沢にかかる名瀑、高さ約10メートル、弘法大師修行の場と伝えられる。文明18年(1486年)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に左の和歌が詠まれている。
世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この滝壺の たきの白糸』
「滝尾神社」と刻字された一応の境内入口となる石碑
境内入口となる石碑が見えてから本殿までは徒歩3、4分は歩く。
参道には子供の頭ぐらい大石が敷石されているが、苔むした石もあるため雨天時や湿気が多い時は滑りやすいので要注意💖
別所跡
上記、入口となる石碑を通過して石段を登ると右側に妖怪ポストのような妖しげ看板が見えてくる。….妖しげな看板?
ただ、看板が無ければ落ち葉の積もったただ、更地よ。
看板が無ければ‥‥‥どなぃしょ。オホっ
看板の内容
別所跡『東照宮の還座以前、日光参詣の中心はこの滝尾周辺であった。「日光責め(日光の輪王寺で行う強飯式 (ごうはんしき) の異称)」で有名な輪王寺の「強飯式」(山伏が大盛りの飯を残さず食べろと責める儀式)も、ここが発祥地である。
明治になって別所は廃絶。永正六年(一五〇九)日光に来た連歌師、宗長(1448-1532)の紀行文「東路(あずまじ)の津登(つと)」には、「ここより谷々を見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん。」とあり、盛時の様子が偲ばれる。』
この看板の内容のよれば往時はこの別所周辺には五百坊(500を超える寺院)が軒を連ねていたことになる。
この滝尾神社は日光権現の一翼を担ぅ存在として、修験道などを通じて信仰の中心であった様子がうかがえる。
影向石(ようごうせき)
滝尾神社と刻字された石碑を通りすぎて参道をしばらく歩いた先の右側に見えてくる石コロころころドコいった‥‥‥です。
運試しの鳥居の少し前にありまする。
看板の内容
影向石(ようごうせき)
影向石とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。弘法大師・空海が弘仁11年(820年)この地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れた伝えられている。
運試しの鳥居
同じく、滝尾神社にあるこの鳥居は徳川3代目将軍家光の懐刀であり忠臣でもあった「日光山守護・梶定良(かじ さだよし)」によって、1689年(元禄2年)に奉納された鳥居。
特徴は鳥居の真ん中に穴が開いており、この穴を使ったちょっとした占いがこの鳥居の由来になっている。
運試しの鳥居の特殊な参拝方法(占い方法?)
- この鳥居の額束中央に見える穴ボコに、そこらへんで拾った小石を3つ投げ入れる。(現在は手前にボールが置かれている)
- 小石が見事に穴を通ると願いが叶うと言われる。
なんでも小石が通った回数分、願い事が早く叶うとのこと。
その昔、ピッチャーで激モテ黄色い声援浴びせられ級のコノヤローはチャンスだと思って試してみては?
この「運試しの鳥居」の名前の由来とは、梶定良が自身の運試しのために小石を3つ投げたところ、見事に穴を通ったため、以来、穴を通った数で運勢を占ったことが由来となっているとか。
注意点
最近、訪れた参拝者が小石を投げるため手前側に小石がありんせん。最近(おそらく2020年くらい)からゴルフボールサイズの玉が置かれています。(投げた後は戻しましょう)
もしくは奥(社殿がある方)へ行くと小石がワンサカ♪と拾えまする。オホ案内看板の内容
重要文化財世界文化遺産 運試しの鳥居『この鳥居は一般的な鳥居とは違い、上部中央に丸い穴が設けられている点が特徴で、この穴に小石を3つ投げいれ、1つでも入ると願いが叶うとされている。
日光東照宮の再建立を命じ、輪王寺大猷院に祀られた徳川幕府三代将軍・家光(1604年-1651年)の家臣、梶定良(かじさだよし/1612年-1698年)が元禄二(1689)年に奉納したもの。
梶定良は家光の死後、大猷院内で家光廟堂を守った忠臣であり、その墓所は田母沢(たもざわ)の釈迦堂にある。』
投げてみた感想
一言で言って意外に難しい。
ムカついたのか6個くらいの小石を一気に投げているコノヤローがいたが1つも入っていなかった。
- 創建年(再建年):1697年(元禄10年)
- 建築様式(造り):重曹入母屋造(じゅうそういりもやづくり)、総漆塗り
滝尾社は日光三社権現の一翼を担っていたことから、モロに神仏習合の影響を受けていた‥‥‥というより信仰の中心的存在だった。
それゆえ、滝尾社を象徴する表玄関ともなるこの楼門は重要視され、神仏分離(1871年(明治4年))以前までは、弘法大師・空海が揮毫したとされる「女體中宮(女体中宮)」の額が掲げられいたとされ、門両脇の間口には仁王像が安置されていたという。
「女体中宮」とは、この滝尾社が日光三神(下記の表参照)の1柱とされ、はたまた日光・女峰山の神とも例えられる「田心姫命」を奉斎することから、「女体」の名前が付された。
「中宮」とは妃もしくは皇后などの意味合いをもち、はたまた本社(本宮)と奥社(奥宮)との間に位置する神社を「中宮」ともいうことから、この滝尾社に大師は「中宮」と敬称を込めて命名したのであろぅ。
日光山縁起に登場する神々一覧 | ||||
日光三山 | 日光三社権現 | 日光三所権現 | 日光三所権現本地仏(三仏) | 日光三神 |
女峰山(※母) | 滝尾権現 | 女体権現 | 阿弥陀如来 | 田心姫命(母神) |
二荒山(男体山)(※父) | 新宮権現(二荒山神社) | 男体権現 | 千手観音 | 大巳貴命(父神) |
太郎山(※子) | 本宮権現(太郎権現) | 太郎大明神 | 馬頭観音 | 味耜高彦根命(子神) |
※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられています。
建築様式
門全体に弁柄漆を用いた造り。門の間口は3つ(三間)、屋根の造りは入母屋造で瓦は銅瓦葺き。上層には高欄をまわし、その腰と最上部に三手先の出組を据える。
上・下層の中備には古式(大仏様)の双斗が見える。垂木組みは二軒繁垂木。
案内看板の内容
重要文化財『重層入母屋造総漆塗り元禄10年(江戸時代1697年)に移転新築された。それ以前は正面参道石段を登った付近にあり、おなじくらいの門であった 江戸建築の重厚な建物である』
この看板の内容からするに1697年以前は現在の運試しの鳥居をくぐって1分くらいの場所に立っていたのだろぅ。うきゃ
滝尾神社・拝殿【重要文化財】
上記、楼門をくぐるとすぐに拝殿が視界に入る。拝殿と楼門がこれほど接近しているとは夢にも思わない。
- 創建年(再建年):1731年(正徳3年)
- 建築様式(造り):入母屋造
- 屋根の造り:銅瓦葺
拝殿は妻飾り他、わずかな旧材を活かして1713年(正徳3年)に再建されている。
大きさは桁行3間、梁間3間。社殿全体に楼門と同じく、弁柄漆がほどこされている。キャキャキャっ
往時は現在より、もう2周りぐらい大きな社殿だったとされ、正面向かい見て右端の縁側には清水寺(京都)のような舞台が附属しており、周辺の景色を一望できたとされる。
社殿内部の様子
社殿内部は四天柱が据えられ、この区画だけ小組格天井が張られている。ほかは竿縁天井。なお、普段は閉扉されているので内部は見れない。
神社参拝の作法(看板引用)
二拝(にはい) 二拍手(にはくしゅ) 一拝(いっぱい)
まず、二度ていねいにおじぎをする
次に 二度かしわ手を打つ
最後に もう一度 おじぎをする
以上のことを祈念を込めて行ってください。
滝尾神社・本殿および唐門【重要文化財】
本殿
- 創建年:1713年(正徳3年)
- 再建年:1941年(昭和16年)
- 建築様式(造り):三間社流造
唐門
- 創建年:1740年頃(元文5年)頃
- 建築様式(造り):二脚平唐門
例祭日
- 毎年4月17日(弥生祭)
ご利益
- 子授け・安産・子育て
本殿・唐門の歴史
滝尾神社の本殿は1713年(正徳3年)に造り替えられています。
1941年(昭和16年)に倒木があり、社殿が損壊。その後、旧材を使用して再興されたのが現在の姿とのこと。クっ、ココココココ …. 王騎将軍?
唐門の方は当初から本殿前に建てられていたワケではなく、1740年頃に信奉者による寄進によって建立されたと伝えられています。
建築様式(造り)
本殿は三間社流造の銅瓦葺で、向拝にわずかに極彩色が見えるが楼門、拝殿と同様に全体的に弁柄漆で塗装されている。
手前には一間一戸の平唐門を建て、門左右から石玉垣を本殿を囲うように巡らせている。
石玉垣と本殿へ通じる石畳は1713年(正徳3年)の造立。
本殿の裏側に扉がある
滝尾神社の本殿にも本宮神社と同様、「裏扉」が設けられており、この役割はおそらく、御神体とされる女峰山を礼拝できるためのものだと考えられています。
なお、本宮神社の方は調査中とのこと。オホ
案内看板の内容
重要文化財
本殿 唐門
本殿は三間社流れ造り
唐門は二脚平唐門
総漆塗り 極彩色
この建物は正徳三年(一七一三年)に建て替えられたもので周りの玉垣 石畳もその時設けられた。
御神体の女峰山を遥かに拝むように本殿の裏壁には扉が付けられた造りになっていて全国的にも大変めずらしい
縁結びの笹【滝尾神社】
同じく滝尾神社には、御神木の1つ「神竹」として本殿前に「笹」が生い茂っています。
なんでも、この笹にの前で恋愛以外にも仕事や友人などあらゆる良縁に恵まれるように祈念すると霊験あらたかなパワーを授かることができると云われます〜る。
「縁結びの笹」の由来
二荒山神社の神苑にも同様の縁結びの笹がありまするが、この縁結びの笹を株分けして神苑内に手植えしたものだと伝えられているようです。
関連記事:日光二荒山神社・縁結びの笹
無念橋
本殿の真後ろ、三本杉の前にはゆるい弧を描いたミニ石橋があるのだが、このミニ石橋にはちょっとした由緒がありまする。
その昔、女人、牛馬は山内立ち入り禁止とされていた。そこで山内には入れない者は、この橋を自らの年齢と同じ数だけの歩数で歩き渡ることで、女峰山を拝したのと同じだけの功徳が得られたとされていた。
それゆえ「願い橋」という名前が付されたといぅ。
案内看板の内容
重要文化財
無念橋
三本杉を通してご神体山の「女峰山」を遥拝するため、自分の身を清め俗界と縁を切ることを意味する橋であったが いつの頃からか己の歳の歩数で渡ると女峰山頂上 奥宮まで健脚で登った事となり願いがかなえられると言われるようになり「願い橋」と呼ばれる江戸時代までここは日光修験の中心地であったところから修験者(山伏)達の足腰のたんれんのための修行が原因でこうした伝承が生まれたのであろう
注意点
つまり、オッさんorオバハンになればなるほど、ク、コココココココ……っコケっ!‥‥(1歩=コ)と奇声をあげんばかりの超短い歩幅で歩かなアカンちゅ〜こと💋
逆に1歳児とかやったらマタ裂けて出血&切れ痔さんコンニチワ状態💔うきゃ
三本杉
本殿背後の石玉垣(石柵)内にそびえるようにして立つ背の高い三本の巨杉です。
なんでも女峰山の女神が降臨したという伝承がある御神木とか。
実は現在の御神木は二代目。初代の御神木は腐朽化などの影響により、倒木として横たわっている。
当初の3本は1699年(元禄12年)、1747年(延享4年)、1749年(寛延2年)の各年代に倒木していますが、古からのシキタリにより、例え御神木でも倒木しても戻さず(触れずに)そのままにして放置しておくとのこと。
案内看板の内容
三本杉(神木)
弘法大師が、この山で修行をした時に田心姫命が現れた場所と伝えられる。
初代の杉は一六九九、一七四七、一七四九年と相次いで倒れ、現在の木は二代目である。
倒れた親木は、そのままにしておく習わしで、今も横たわっている。
この神木の霊験を示す話があり、寛文七年(一六六七)鶏頭院山舜の下僕が、この神木を小さいと馬鹿にして、神罰を被ったという。
鶏頭院とは、調べると「比叡山の兜卒谷」と出てきたので、おそらく天台宗の総本山である比叡山にかつて存在した「鶏頭院(けいとういん)」という名前の寺院だと思われる。
その鶏頭院に所属した高僧「山舜」の下僕という推察。
瀧尾稲荷神社
820年(弘仁11年)に弘法大師・空海が滝尾神社とともに創建したのが、当社の起こりであると伝わる。
史実では816年(弘仁7年)4月、勝道上人が男体山の山頂に創祀した三社権現社のうち、女体山の神である滝尾神社を日光山内に勧請して祭祀したと云われる。
しかし、その滝尾神社を日光山内のドコに祀ったのかが、明言されていないため、今日まで当地に祀られたことになっている。
これについての根拠となるものとして、鎌倉時代に勝道上人の弟子である「道珍」が編纂したとされる写本・「滝尾建立草創日記」によれば、820年(弘仁11年)に弘法大師空海が日光三社権現の1柱である女体権現(滝尾神社)を当地に勧請する形で奉斎したのが、当・滝尾神社起こりであるといぅ。
また、この道珍が記した日記によれば当時、大師から密教の秘法を授けられ、その後、道珍は滝尾神社境内にかつて存在した「別所(現在は”別所跡”)」に参籠し、「滝尾上人」と名乗ったと云われる。
だとすれば鎌倉時代は真言宗の一派だったことになり、別所も真言宗の御堂ということになりまする。
1592年(天正20年/戦国時代)に編纂された「滝尾山旧記」にも3月21日の弘法大師空海の命日に御影供という法要が執り行われていたことが記されている。
立て看板の内容
滝尾稲荷神社
弘仁十一年(八二〇)弘法大師が滝尾神社とともに、稲荷神社も創建。
祭神は倉稲魂神(稲荷大明神)。昭和四十一年九月に台風で流出したため、昭和四十三年に巴会により再建された。
三月二十五日が例祭。
五月二十五日の講社大祭には、多くの信者が集まる。
昔、滝尾上人が朝のお供えを忘れると、稲荷の神が化けて出ては、催促したという伝説が残っている
上記、案内看板の伝承によると、その昔、この稲荷社にはお供え物を定期的にする儀礼(風習)があり、ある時、滝尾上人がお供え物を忘れてしまうことがあった。
そんな時、稲荷の神が1匹の狐に化けて社頭に現れ、「お供え物を忘れている」と催促したとある。
「巴会」という言葉が出てきたが、巴会とは1996年に宇都宮旧臣の子孫たちが参集して結成された会のこと。現在でも時折、親睦会や勉強会を行なっている。
酒の泉(さけのいずみ)
この滝尾神社の見どころの1つとして、古くから日光を代表する名水が湧き出ている泉があります〜る。
その名水ぶりは醸造家がうなるほどのものであるらしく、この水で酒を醸造すると二日酔いならぬ一週間酔いしていまぅほどの美酒ができるとのこと。
現在でも現役でこの水を使用して醸造されており、出来た酒は毎年、春の報醸祭、秋の祈醸祭の折、二荒山神社本社へ奉納されてい‥‥‥申す。ガホっ
なお、春の報醸祭、秋の祈醸祭は当地ではなく、二荒山神社の神苑内にある「二荒霊泉」にて斎行される。
しかしながら現在、この酒の泉には自宅付近のゴミステーションで毎朝見かけるような緑色のネットで覆われて、見づらくなっている。
案内看板の内容
酒の泉
本宮の清水(昭和二十四年の今市地震で消失)、薬師の霊水とともに日光の三霊水の一つ。弘法大師が、この泉の水を汲んで神にささげたといわている。
この御供水(ごうこうずい)には、酒の味があるといわれ、持ち帰って元水として酒を造ると、良酒ができるという。
醸造家の崇敬が厚く、古くから栃木県内の酒造家たちで酒泉講が結成され、秋には祈醸祭、春には報醸祭が行われる。
現在は、西神苑の「二荒霊泉」で行われる。
安産のご利益満載💖子種石💞
滝尾神社境内のさら最奥を流れる天狗沢を渡ると石鳥居と石棚に囲まれたクソデカぃ石コロが見えてくるのだが、このクソデカぃ石コロこそが「子種石」といぅ、不思議しぎしぎ摩訶不思議なご利益をもつとされる霊石なのである。
なんでもこの石の前で『子どもを授かりますように〜』『安産でありますように〜』‥‥などと祈念すると子宝に恵まれ、無事にポンっ!苦しまずあっちゅ〜間に安産できるといぅ、霊験あらたかなパワーを授かれるんだとか。
確かに、神話で例えると滝尾神社の主祭神である「田心姫命」は「縁結びの神・大己貴命(大国主大神)」の妻神であり、大己貴命と結婚して良き子宝に恵まれている。
看板の内容
古くは、子種権現といわれた。
子供が授かるように、また、安産でありますようと、この霊石に祈念すれば霊験があるというので、今日でも参拝者が多い。
夫婦であれば「安産子種石のお守り(子種石守)」を忘れずに!
この子種石には古くから当神社に伝わるお守りがありまする。
子種石の御神霊をいただいて特別に奉製されたお守りとであり、この子種石に祈念してからこのお守りをいただくことで効果(ご利益)が倍増するといぅ。
夫婦で持てるように2体同時に授かることができ申す。
- 初穂料(値段):1000円
- 授与場所:日光二荒山神社の境内授与所(御朱印授与所ではない)
子種石の概要
子種石の周囲の石を小さく砕いた石が安産子種石守の中に封入されている。
子種石の持ち方
けっして中を開けてはいけない。‥‥らしぃ。(開けるとツキ(運)が逃げてしまぅとか)
実際に二荒山神社には、多くのキャぉっプル(訳:カップル)たちが参詣して、子供を授かったといぅ喜びの声や手紙が数多く寄せられているとのこと。
お守りの説明文
此のお守りは二体を以って1組と成し、緑色は男、紅色は女の守りなり
男女各錦袋のまゝ肌身に付けて恩頼(みたまのふゆ)を待ち、或は函のまゝ神棚に奉安するもよし
「恩頼」とは、神様から受ける恩徳、加護のこと。
瀧尾稲荷神社の御朱印
この滝尾稲荷神社にも御朱印が頒布されています。
御朱印の頒布場所は日光二荒山神社の本殿脇にある授与所です。
滝尾神社の御朱印については下記ページにて。
滝尾高徳水神社(たきのおたかとくすいじんじゃ)
滝尾神社の境内入口となる白糸の滝付近には「滝尾高徳水神社」という神社が建てられてい‥‥‥申す。ギョハっ
この神社は最近、当地に引っ越してきた神社ですが、古くは鬼怒川沿いに建立された鬼怒川の鎮守神であり、水を司る水神でした。
この滝尾高徳神社でも御朱印が授与されており、日光二荒山神社の御朱印授与所にて受けられまする。
滝尾高徳神社の詳細については下記ページまで。
滝尾神社の拝観料金と拝観時間
- 拝観料金:無料
- 拝観時間:24時間365日参拝可能
滝尾神社の滞在時間(所要時間)
日光二荒山神社の公式では約15分とアナウンスされている。
滝尾神社の境内は以外に広く、滞在時間は人によるが30分もあれば不自由や後悔を感じることなく、境内の隅々まで見て回れる。
ただし、ここでの境内とは白糸の滝を含めたそれより先の敷地内のこと。
境内地は大自然に囲まれているので、大自然の息吹を感じたり、沢で水遊びをしたりするとその分、時間もかかる。
なお、滝尾神社境内には専用の屋根付きの休憩所のようなものはない。自販機はおろかトイレもないので弁当や飲料の持参は必須。
それと雨が急に降ってくると雨宿りする場所が楼門の下くらいしかないのでエラぃこっちゃでどなぃしまんねん状態がコンニチワ状態でやって来る。 どゆ意味や
それと人が少ないので夕方以降の参拝はオススメしなぃ。
絶対に幽霊の1匹や2匹はいることであろぅ。ふぉっふぉっ。… 幽霊って数える単位「匹」でエエの?
滝尾神社の由緒(歴史)
弘法大師・空海が820年(弘仁11年)に創建したと伝わる古社。
現在の建物は1645年(正保元年)に改築された時のものがベースで、その後、それぞれの建造物が星霜経ながら再建・修繕されている。
日光二荒山神社の祭礼である弥生祭(4月)では、日光二荒山神社の境内から滝尾社まで神輿が渡御(とぎょ)があり、当神社が年内でもっとも賑わぃを見せる期間です。
1679年(延宝7年)に滝尾社に奉納された「滝尾参籠之大帳」によれば、1643年(寛永20年)9月に172代「藤本房亮慶」が滝尾社に参籠していた時、日光山座主である毘沙門堂の公海が「弘法之御影」を修復した旨の記述が残されている。
1687年(延宝6年)に編纂された「滝尾山年中行事」によれば、1646年(正保3年)3月、滝尾社の本社と別所とを移し替える工事が実施された旨の記述があり、この一文の中に「弘法大師・空海が滝尾本社を創建した‥‥‥」などの由緒が書き記されている。
この他、空海筆とされる「女体中宮」の扁額、空海作とされる「滝尾御牛玉」など、空海伝承に関わる数々の重宝も記されている。
「滝尾参籠之大帳」によれば、1173年(承安3年)3月、滝尾別所に参籠した39代「三融房 静覚」以降、代々の上人が「赤字如法経」という円仁系の独自の如法経を滝尾社に奉納したことが記されている。
さらに1507年(永正4年)7月に131代「教城房昌観」、1597年(慶長2年)2月に157代「教城房昌長」が、それぞれ「弘法大師御筆 一部一巻之 法華経」を寄進した旨のことが記されている。
以上の内容からも理解が進むように、この滝尾社は現在の神社の趣とは大きく異なり、仏教色まみれだったことが伝わってくるが、中世からの滝尾社は、どうやら66部聖(六十六部廻国聖のこと。日本全国66カ国を巡礼し1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者)の納経所として機能していたようです。
つまり神社ではなく、もはやお堂(寺院)であり、神前にて読経や様々な行法が行われていたことが想像につく。
この根拠を示すものの1つとして滝尾社境内入口付近に見られる大乗妙典1000部の供養塔が建立されている。
これは1679年(延宝7年)2月に円浄坊維海が願主となって、13670人の奉加施主たちが合力して建てたものとされている。
つまり、真言宗を通じた法華経の信仰の地だったことを物語っている。
その様相は天台宗座主の天海僧正が日光山の座主となり、歴代将軍の霊廟が築かれてから後も真言宗を通じた信仰は姿形を変えることなく、中世から踏襲される信仰の地でありつづけたことを物語っている。
滝尾神社の場所(地図)
滝尾神社までの行き方
日光史跡探勝路の滝尾神社コースを進んだ先のゴール地点(折り返し地点)となる神社です。
楼門から徒歩7分くらいの所に滝尾高徳水神社が建ち、滝尾高徳水神社の前の空き地が駐車場になっているので車で足元まで行くことができる。
滝尾神社の駐車場概要
- 収容台数:普通車約10台
- 形式:平面自走式、アスファルト舗装なしの土壌
なお、この駐車場は空き地といえばただの空き地なので大々的にも公開されていない。
つまり、常時利用できるかは不明なので詳細は管理社である日光二荒山神社まで。(2021年10月現在、工事業者の車両が使用するため使用不可とのこと)