日光東照宮・上神庫
創建年
- 不明
- 1615年(元和元年)から1660年(万治3年)
- 推定:1635年(寛永12年)
建築様式(造り)
- 校倉造
- 切妻造
- 一重
大きさ
- 桁行七間(奥行:約14m)
- 梁間四間(横幅:約8m)
- 正面向拝一間(約:2m)
屋根の造り
- 銅瓦葺
重要文化財登録指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
日光東照宮・中神庫
創建年
- 不明
- 1615年(元和元年)から1660年(万治3年)
- 推定:1635年(寛永12年)
※部分的に1619年(元和5年)の旧材が使用されている。
建築様式(造り)
- 校倉造
- 入母屋造
- 一重・向拝付き
大きさ
- 桁行九間(奥行:約18m)
- 梁間三間(横幅:約6m)
- 向拝七間(約14m)
屋根の造り
- 銅瓦葺
重要文化財登録指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
日光東照宮・下神庫
創建年
- 不明
- 1615年(元和元年)から1660年(万治3年)
- 推定:1635年(寛永12年)
建築様式(造り)
- 校倉造
- 切妻造
- 一重
大きさ
- 桁行九間(奥行:約18m)
- 梁間三間(横幅:約6m)
屋根の造り
- 銅瓦葺
重要文化財登録指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
日光東照宮・三神庫の読み方
三神庫は「さんじんこ」
上神庫は「かみじんこ」
中神庫は「なかじんこ」
下神庫は「しもじんこ」
「神庫」とは?「三神庫」の名前の由来
「神庫」とは、神社などで宝物を入れておく建物のことを言います。 他には「宝物殿」 「たからぐら」とも呼ばれます。
上神庫・中神庫・下神庫の名前の由来とは、それぞれが建っている位置に関与しています。
中神庫は上神庫と下神庫の間に位置しています。
また、上神庫は別称で「宝蔵(ほうぞう)」とも呼称され、これら3つの神庫を総称して「三神庫」と呼称します。
日光東照宮・三神庫の役割
「中神庫」と「下神庫」は、日光東照宮の祭典や行事で使用する様々な道具(祭具)が収納されています。
代表的な祭典として5月17日と18日に執り行われる「例大祭・流鏑馬(やぶさめ)神事」や10月17日に執り行われる「神輿渡御祭(百物揃千人武者行列)」があります。
「千人武者行列」はもとは家康公の命日である4月17日に執り行われていた祭事で、起源は家康公を久能山から日光へ遷した際の行列を表わした祭事です。
つまり、これらの祭典で使用する馬具や、1200人余が着用する甲冑(鎧・兜など)が同数分が収納されています。
上神庫には、御神宝(ごしんぽう)と称される神様へ供進(きょうしん=お供え)するための宝物類が収納されています。
日光東照宮・三神庫の建築様式(造り)
三神庫は奈良の正倉院の双び倉(ならびぐら)の形をモチーフとして造営されていることから、「校倉造(あぜくらづくり)」と呼称される様式で造営されています。
これは木材を「井桁状(いげたじょう)」に積み上げて壁面を構築して行く建築様式の技法の1つです。
校倉造りは別名で「井楼造り(せいろうづくり)」とも呼称されることがあり、この代表的な建築として挙げられるのが奈良・東大寺「正倉院」になります。
校倉造と井楼造はほとんど同義として捉えることができますが、分かりやすい違いとして、校倉造りの方は積み上げる木材の断面を三角系に加工して「校木(あぜき)」と呼称される状態にして積み上げて行きます。
このようにわざわざ木材を積み上げて校倉造りにする理由の1つとして、木材の性質を利用して内部の温度や湿度を一定に保つことが挙げられます。
湿気が多い季節には木材が膨張して膨らみ、積み上げた木材と木材の間の隙間が狭まり、外気が建物内に入りにくくなります。
逆に湿気が多い季節には木材が内部の湿気を吸収するので、建物内部の湿度が少なからず一定に保たれます。
但し、校倉造りの保存効果に関しては、近年、調査が行われ、さほど効果が認められないことが明らかにされてい‥‥申す。
しかし、校倉を構成する各部材の上から塗装が施されていますので、幾分かは保存効果が認められると思われます。
また、神庫の建築が高床であることから、ネズ公(訳:ネズミ)の侵入を阻止することができまする。
和様建築と折衷様
中神庫
これら3棟の建造物の細部に目をやると伝統的な和様(わよう/鎌倉時代に唐様が伝来する以前から日本にあった伝統的な建築様式のこと)の様式を用いて、落ち着いた雰囲気を演出しています。
これが顕著なのが中神庫です。
上神庫と下神庫
壁面には陽明門や拝殿前の唐門に見られるようなきらびやかな装飾が施されず、上掲写真のように牡丹唐草が描かれているのみです。
対して上神庫と下神庫は中神庫とは打って変わり、屋根は勾配を持つ切り妻造の屋根が乗り、妻側を参道へ見せています。
極彩色で彩られ、大きく湾曲した海老虹梁(えびこうりょう)を左右に据え、その中央に大瓶束(たいへいずか)を立てて、これを受ける。
束の下には鬼の彫刻が見えるなど、大仏様(禅宗様)の意匠が見える。
対して、蟇股は板蟇股(いたかえるまた)を据え、緑青塗り(ろくしょうぬり)を施すなど和様の一面も見えるなど、全体を通して折衷様が映える。
寛永期の東照宮の大造替には、腕利きの大工が全国から招集されたとだけあって、大工の粋というものが込められているように思えまする。
中神庫から発見された墨書から推定できる創建年
中神庫の棟木からは、『元和5年(1619)御大工・鈴木近江守長次 銘の紀年墨書』が見つかっています。
つまり、1619年(元和5年)に建てられたか、再建された、もしくは解体修理されたことを意味しますが、年数的にみて1619年に中神庫が建てられたのでしょう。うきゃ
中神庫が1619年だとするならば、残り2つ(上神庫・下神庫)も近しい年代に建てられたものだと推察でき‥申す。
ちなみに1636年(寛永13年)の「寛永造営帳」には「東ノ御蔵」「御中ノ蔵」「御宝蔵」という名称が見えることから、少なくとも寛永の大造営以前には建てらえていたことになり‥申す。
日光東照宮・三神庫の見どころ
上神庫の「想像の象」
日光東照宮・三神庫の中でも特に注目すべきは「上神庫」です。上神庫だけは上述のとおり、内部に収納されている物も他の2つと異なり「神宝類」となります。
そんなこともあってか、上神庫の妻側(横側)の屋根下の部分には「2つの目を惹く彫刻」が施されています。1つは左側の彫刻で、これは東照宮を守護する「象(ぞう)」の彫刻があります。
もつ1つは向かい合う形で、その右側に彫られている同じく「象」の彫刻です。
これら2つの像の彫刻こそが日光東照宮が世界に誇る「想像の象(そうぞうのぞう)」と呼称される彫刻です。
「想像の象」の名前の由来
作者として下絵を描いたのは狩野派の巨匠「狩野探幽(かのうたんゆう)」ですが、実のところ探幽はこの象の下絵を描く段階で象を一度も見たことがなかったようです。
つまりは狩野探幽の頭の中でイメージした象を表現した象ということで「想像の象」と呼ばれてい‥‥申す。
想像の象の外観
牙は金色、体表は毛むくじゃらで、耳にピアスにような金具が付けています。大きく異なる点が尾っポが3本あることです。
また体色が白色と黒色の2頭の象が向かい合うような構図で据えられています。
ただ、この像の顔‥。ジぃ〜っと見つめていると、何だかものスんゴイ悪いことを企んでいそうな、越後屋とお代官様のような顔立ちにみえてきます。
↑右側の像(体表が毛むくじゃら)「そちも悪よのぅ。ふぉっふぉっふぉっ」
↑左側の像(尾っぽが3本ある)。体表が白色。「いぇいぇ、おデぇ官様のクソ性悪には及びま・・ヒィぇ~!ウヒョ~!」
ちなみにこの想像の象は「三猿」「眠り猫」と並んで、日光東照宮の代表的な「3彫刻の1つ」とも言われています。
【補足】狩野探幽が「象」を敢えて彫った理由
上述のとおり、江戸時代の上神庫は「御宝蔵(ごほうぞう)」とも呼ばれていました。
つまり御宝蔵の”蔵(ぞう)”と”像(ぞう)”の語呂を合わせて「象」を選んだとも云われております。
関連記事:日光東照宮 上神庫「想像の象」
三神庫の中で最大の大きさを誇る「中神庫」
三神庫の中でも、ひときわ大きい神庫が「中神庫」です。
中神庫にも彫刻が施されており、正面に「鶴」「亀」「鳳凰」の彫刻があり、扉の上には「青色と白色の牡丹」が描かれています。
これらの彫刻の組み合わせは、上神庫の「想像の象」の周りにも見られます。
日光東照宮・三神庫の場所(地図)
日光東照宮・三神庫は石鳥居から境内へ入って表門をくぐった先に3つ並ぶようにして造営されております。
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