日光東照宮「陽明門」【国宝】
創建年
- 1617年(元和3年)
再建年
- 1636年(寛永13年)
- 1973年(昭和48年)
- 2017年(平成29年)3月
- 2021年12月上旬〜
2022年(令和4年)4月16日(雨漏り等の手直し工事)
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 三間一戸
- 八脚・楼門
- 四面・軒唐破風付き
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 奥行き:4.2m
- 横幅:7.1m
- 高さ:11.2m
総工費
- 2万3487両(1636年再建時)
- 12億円(平成29年大修理時)
重要文化財指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
国宝指定年月日
- 1951年(昭和26年)6月9日
施工者
- 狩野探幽(デザイン/彫刻・色彩)
- 中井大和守政清(1617年・大棟梁)
- 甲良豊後守宗弘(1636年・大棟梁)
※一説では眠り猫の名工「左甚五郎」も棟梁補佐として参加。
総指揮
- 南光坊天海
- 小堀政一(小堀遠州)
発願者
- 徳川家康
- 2代目将軍・徳川秀忠
- 3代目将軍・徳川家光(現在)
日光東照宮の中で一番のメインである門は、なんといっても国宝にも指定されている「陽明門」でしょう。
日光東照宮へ参拝に訪れると、まず参拝者をこの豪華春蘭な陽明門が歓迎しド肝を抜かせてくれます。
そして、この陽明門は 江戸時代の建築様式、工芸、彫刻、絵画などの江戸文化がすべてが凝縮され詰まっています。
現在の日光東照宮の陽明門は、徳川家康公の21回忌にあたる1636年(寛永13年)に徳川家光公によって造り替えされたものです。
また、2013年(平成25年)7月から修復工事(平成の大修理)行われていましたが、2017年(平成29年)3月、無事に工事が終了しています。(日光東照宮における平成の大修理は2024年までの予定。)
3月10日(金)の午前9時からは多くの参詣者・ファンに見守られながら「竣功奉告祭(竣工式)」が執り行われています。
この陽明門は、当初6年間の再建計画で工事が開始されましたが、約2年ほど工期が縮まったことになります。
この工事では創建当初の陽明門を再現するために再び極彩色が施され、見事!江戸創建時の絢爛豪華な威容を回復しています。
尚、「平成の大修理」は陽明門の歴史上、最大級ともなる修理で「最終的な工期は約4年半」、「使用された金箔が24万枚(現・金閣寺は約20万枚)」「総工費は約12億円」となっています。
項・一覧
日光東照宮・陽明門の読み方
「陽明門」は「ようめいもん」と読みます。
「陽明門」の名前の由来
このような疑問が湧いた方も少なからず多いと思います。
「”陽明門”という名前はいったい誰が付けたの?名前の由来って?」
実はこの陽明門は、ぬぅぁんとぉぅ!「京都御所の東の門」から名前を取って「陽明門」と名付けたと伝えられています。
一般的に京都御所には「6つの御門が存在する」と伝えられていますが、実は12の門が存在し、この内、東の門の名前を「陽明門」と呼びます。
つまり、この日光東照宮を造営する時に、京都御所の東の鎮守としてこの日光東照宮を造営し、京都御所を守護すると言う意味合いで「陽明門」の名前を頂戴したと考えられます。
日光東照宮・陽明門の別名
別名で「日暮門(ひぐらしもん)」や「勅額門(ちょくがくもん)」、「北辰門(ほくしんもん)」とも呼ばれています。
日光東照宮の陽明門の大きさと別名「日暮し門・勅額門」と呼ばれている理由
別名「日暮し門」
日光東照宮の代表的な特徴とされるこの陽明門は、高さは11.1mの2層造りで、正面の長さは7m、奥行きが4.4mあります。
正面の唐破風下(屋根の下)には、後陽成天皇より送られた「東照大権現(徳川家康公の死後の別名)」の額が掲げられています。
なお、別名「日暮し門」と呼称されている理由とは以下のような理由になります。
- 「豪華春蘭」という言葉が見事に当てハマり圧倒されてしまう
- 彩色は勿論、金色の飾り金具などが据えられ、造りも細かく、とにかく1日中眺めていても飽きない
- 四面の軒唐破風屋根と八脚を持つ楼門をはじめとし、世界中探してもココにしかない
・・などのような理由で、つまりは「いくら見てても飽きない」と言ったことが由来になります。
なお、この門の前で「日が暮れるまで見てても飽きない」と言ったのは徳川家光公であり、その言葉が端を発し、後の世で「日暮し門」と呼称されるに至ったと云われております。
別名「勅額門」
陽明門には他にもう1つ別名があり「勅額門(ちょくがくもん)」とも呼ばれてい‥‥‥申す。
「勅額(ちょくがく)」とは、天皇が直に筆した文字を「扁額(へんがく)」として寺院や神社へ贈った「額」のことです。
陽明門の扁額は幕府の懇願により、「後水尾天皇」が直筆された扁額です。『東照大権現』と書かれています。
すなわち、この後水尾天皇の扁額が勅額門の別名の由来になっています。
「東照大権現」とは?
「東照大権現」とは家康公の神号です。幕府が朝廷に対し、亡き家康公の御神号の宣下を願い出たところ、朝廷から4つの案が提出され、その中から幕府が選択したのがこの「東照大権現」です。
権現の意味を簡単に言うと「仮に現れる」となり、これは神仏習合思想に則った場合の神様に用いられる言葉です。
江戸時代、家康公は薬師如来が東照大権現として現出されたと考えられたため「権現」号が付されます。まさに、その名前の通り東国に拠点を置く江戸幕府の鎮守神として、はたまた、「西の天照大御神(伊勢神宮)に対して東から照らす神」として考えるとそれ相応の名前です。
なお、この扁額が制作された頃(1636年)、江戸幕府の権威は極まり、天皇をないがしろにする軽挙などが見え始め、ブチ切れしちまった後水尾天皇はついに幕府に対し、通達もなく無断で禅譲するのです。
その後、上皇となり院政をしいていることから、この扁額を描いた頃の天皇の状況を加味すると正式には「後水尾上皇」となり申す。
ちなみにこの後水尾上皇の扁額は明治元年、板垣退助の介在により、薩摩藩の主導による東照宮焼き討ちを防ぐ手立てとなっています。(板垣退助は後に日光の地を戦火から守った英雄として金谷ホテルに銅像が建てられている。)
別名「北辰門」
陽明門と北極星
他にも、まだ陽明門の謎があり、この陽明門から本殿まで直線で結ぶと、なんと!本殿の真後ろに「北極星」が来るそうです。
「北極星」とは、高天原の主、・・すなわち「天帝」を意味し、高天原の天帝とは「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」を意味します。
古代中国では北極星を「太一(たいいつ)」と呼称し、これは万物の母をも意味し、すべての理の中心として考えられていました。
ちなみに、伊勢地方や昔の神宮では、天照大御神を「太一」と呼称したようです。
これらのことから、一説では東照権現(徳川家康)を「東の天照大御神=『東照』」に例え、天照大御神と同列に拝するように設計されているとも云われております。
尚、『東照』の説に諸説あり、他にも以下のような説があります。
家康公が生まれた三河(愛知県東部)には「鳳来寺(ほうらいじ)」と呼称される寺院があり、家康公の母親は元気な子を授かるために、この寺院の本尊である薬師如来に篤く祈願したそうです。
その後、無事に家康公が生まれて大成し、江戸幕府と言う新たな世を創造したことから家康公を「薬師如来の生まれ変わり」だとする信仰が生まれ、一説では「東に照る(東方薬師瑠璃光)如来が権(か)りに現れた神=東照大権現」とも云われています。
すなわち、これらの事柄が「北辰門」と呼ばれる所以です。
日光東照宮の陽明門を作った人って誰?
実は陽明門は家康公が没した直後となる1617年に造営されていますが、現在見ることのできる陽明門の姿は1636年に大改修された時の姿になります。
すなわち1617年造営時と1636年の大改修時のときとで造営に携わったメンバーが異なります。
1617年造営時
- 作事方大棟梁(現場監督):中井大和守政清(なかい まさきよ)
- 造営奉行:本多上野介正純(ほんだまさずみ)
- 造営総指揮:南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
1636年大改修時
- 作事方大棟梁(現場監督):甲良豊後守宗弘(こうら むねひろ)
- 造営奉行:秋元但馬守泰朝(あきもとやすとも)
- 絵画・色彩担当:狩野探幽(かのう たんゆう)
この陽明門は徳川家康の遺言によって、徳川秀忠公の発願で造営が開始されています。これが初代の陽明門です。
造営を担当したのは、崇伝と共に「黒衣の宰相」とも呼ばれた「南光坊天海(なんこうぼうてんかい)」が総指揮をとり、1617年に建設されました。
ただ一説によると、中井政清や甲良豊後守宗弘の親分的存在である「小堀 政一(小堀遠州)」が、家光公の指示によって最終的なチェックを行っていたとも云われています。
中井政清(なかい まさきよ)とは?
「中井政清」とは、小堀遠州の弟子にあたる人物です。この当時、小堀遠州は幕府の作事方奉行を中心に、将軍付茶道指南役などの幕府の要職に就いていた背景から、弟子の中井政清が大工の筆頭として現場の総監督を務めています。
「秋元但馬守泰朝」とは?
谷村藩秋元家(現、山梨県都留市)の初代藩主。1617年(元和3年)以外にも1624年(寛永元年)、1636年(寛永13年)の3度、東照社の創建および改修工事に携わる。
1636年の家光公による大改修の時は、それまでの実績を評価されて造営奉行に任命されています。
「狩野探幽(かのう たんゆう)」とは?
「狩野探幽(かのう たんゆう)」は、絵師の一族で有名な狩野派の絵師です。
狩野派の特徴として、1つの作業を数人で分けて、分業して創作活動に入りますが、この陽明門に関しては、なぜか探幽1人で全ての工程を行っています。「陽明門の謎の1つ」です。
「甲良豊後守宗弘(こうら むねひろ)」とは?
「甲良豊後守宗弘」は、法養寺(滋賀県犬上郡甲良町)の有名な名工・甲良家の子孫です。彫刻を主に担当していたと云われております。
寺社などの門の造営や伏見城修繕の功により、異例とも言うべき官位を賜ったほどの名工(彫師)です。
なお、同郷(滋賀県)の出身である小堀遠州や、築城の名手で東照宮の造営にも携わった「藤堂高虎公(とうどうたかとら)」とは深い関わりがある人物です。
日光東照宮・陽明門の大きな特徴
- 「三間一戸楼門」という、柱の間が3つあり、通用口が1.8メートルで、左右に合計で約3.6メートル分の空き部分(随神像安置)がある造りになっている
- 屋根は「入母屋造(いりもやづくり)」と呼ばれる三角で尖った屋根と、曲線を持つ「唐破風(からはふ)」と呼ばれる豪華な屋根が正面・左右に据えられている
- 「銅瓦葺き」と呼ばれる銅製の屋根瓦で葺かれている(当初は檜皮葺/ひわだぶき)
- 未完成な柱がある(左手2番目の柱は『魔除けの逆さ柱』と呼ばれ、グリ紋の向きが逆さま)
- 508体の彫刻で埋め尽くされている
- 龍馬(りゅうば)の彫刻は陽明門でしか見ることができない
- 人物の彫刻もこの陽明門と唐門のみしか存在しない
- 陽明門には何故か唐獅子の彫刻が多い
- 別名で「日暮し門」と呼称されている
- 一辺・約10cmの金箔が
15万枚(現24万枚)も使用されている
日光東照宮・陽明門の歴史と年表
徳川家康公は1616年(元和2年)4月17日にこの世を去りましたが、この世を去る前、自らの一周忌に自らを日光山に小さな堂を建てて祀るようにとの遺言を残しています。
その直後、家康公は久能山(現・久能山東照宮)に埋葬されますが、翌年、この遺言に従って嫡男であり2代目将軍であった「秀忠公」が家康公の霊廟となる「日光東照社」を日光山内(現在地)に造営し、翌年1617年(元和3年)4月17日に竣工、すぐさま家康公の御遺体を久能山から日光へ移しています。(正遷宮)
秀忠公が創建した日光東照社は現在の日光東照宮の6分の1程度の大きさだったようで、この時に建てられた陽明門はごく普通の寺社に見られるような「楼門」だったと記録されています。
屋根も現在のような「銅葺き」ではなく「檜皮葺き」で葺かれ、さらに柱も現在みられるような「胡粉塗り(ごふんぬり)」で「グリ紋入りの逆さ柱」などではなく、ケヤキの素木をそのまま用いて「唐木色付け」を施しただけの質素な柱だったようです。
⬆️元和創建時の東照社の様子。右下に見えるのが陽明門。1640年・狩野探幽 作「東照社縁起(仮名本)」より
すなわち陽明門も現在のような極彩色が施された絢爛豪華な門などではなく、かつては極めて質素な楼門であったことがうかがえます。
この後、檜皮葺から→銅葺きへと葺き替えられたのは、1654年(承応3年)のことです。
3代将軍「徳川家光」公による再建(寛永の大造替)『現在の絢爛豪華な陽明門の誕生』
やがて秀忠公もこの世を去りますが、あとを継いで3代目将軍となった徳川家光は家康公を心から敬愛し、懐に忍ばせた守り袋の中には「二世権現、二世将軍(3代目でありながら家康公の子・2代目であるの意。敬愛の度合いを示したもの。)」と書いた紙を折りたたんで入れていた逸話が残されているほど家康公を尊敬していたようです。
家光公が家康公を心から敬愛した理由は、弟・忠長との将軍の座をかけての世継ぎ争いで、家康公が自らを選んでくれたことが大きく関与していると考えられます。
上述のように陽明門には家康公が好んだとされる中国の儒教の思想が取り入れられ、さらに家康公の霊廟を守護する門として、中国の禅宗様(唐様)を中心に据えて建てられています。
その典型例が門に敷き詰められるようにして配された「詰め組」と呼ばれる「出組(組物)」です。
家光公は陽明門を造営するに際して金に糸目はつけなかったことから、日本全国から選りすぐりの大工たちがおよそ454万人も集められたと伝えられています。中でも江戸時代最大の絵師一族と謳われた、幕府御用絵師の狩野派の代表格「狩野探幽」が自らの一族全員を率いてデザインを一手に引き受けています。
その探幽と合力して大工を担当したのが、江戸城本丸の造営も手がけた江戸幕府作事方・大棟梁「甲良豊後守宗広(こうらむねひろ)」です。
陽明門は今日に至るまで「世に2つとない門」とまで云われますが、まさにそれはこのような日本全国から最高の腕を持つ名工たちの共演によって造営されたからに他なりません。
1616年(元和2年)
4月、徳川家康公が駿府城(すんぷじょう)にてこの世を去る。(享年75歳)久能山に埋葬される。
10月、2代将軍秀忠(ひでただ)公、日光東照社の造営に着手す。
1617年(元和3年)
南光坊天海総指揮のもと、日光東照宮の造営が開始される。なお、創建当初は”東照宮”ではなく”東照社”だった。(日光東照社)
1623年(元和9年)
第2代目将軍「徳川秀忠」公の次男(嫡男)徳川家光が第3代目将軍に就任する。
1632年(寛永9年)
秀忠公がこの世を去る。
1634年(寛永11年)9月
家光公、東照社へ社参す。この折、家康公の21回目の御神忌(1636年)へ向けての東照社の大造替を決意す。
現在の絢爛豪華な社殿へと一新される「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」が開始される。この大改修によって現在見ることができるような絢爛豪華な世に2つとない門が誕生する。
1635年(寛永12年)
陽明門の脇の間の正面の随身像が京都七条仏所の康音によって制作される。(背面の風神・雷神も康音の作の可能性が指摘されている)
1636年(寛永13年)4月
家康公の21回目の御神忌となる年であり、同時に日光東照宮の大改修工事(寛永の大造替)が一応の完工を迎える。
工事決算目録『日光山東照大権現様御造営御目録』に記された内容によれば寛永の大造替における陽明門の総工費は「23487両(円換算で2,348,700,000円(23億4870万円)」。
1645年(寛永21年)
東照社、宮号を宣下される。この宣下によって初めて「日光東照宮」となる。
1651年(慶安4年)
家光公、この世を去る。
1653年(承応2年)
家光公の霊廟となる日光山輪王寺「大猷院(たいゆういん)」の造営が開始される。
1654年(承応3年)〜1657年(明暦3年)(承応年間)※承応の修理
檜皮葺き→銅葺きへ屋根の葺き替え。
1749年(寛延2年)〜1753年(宝暦3年)※宝暦の修理
側面大羽目の絵「唐油彩色の牡丹唐草」→東側「唐油彩色の錦花鳥」/西側「巣籠鶴(作者:狩野祐清」へ変更される。
1796年(寛政8年)〜1798年(寛政10年)※寛政の修理
側面、大羽目板を現在の牡丹の浮き彫りへ変更し、従来の絵を覆う。(牡丹の下絵は狩野養川院法印惟信(かのうこれのぶ)/彫刻は和泉忠兵衛義孝/彩色は狩野柳渓藤原共信)
1812年(文化9年)〜1814年(文化11年)
東照宮別当寺「大楽院」からの出火により銅庫が炎上す。銅庫内に収められていた陽明門の勅額も焼失。この勅額は1814年に陽明門の勅額と同筆の文字が使用されていた江戸城紅葉山東照宮の勅額を写して、新造される。
江戸時代後期(年代不詳だが1837年以前と推定)
上記、いずれかの修理によって従来、白木であった柱や彫刻に胡粉が塗られている。
1837年(天保8年)に出版された植田猛縉が著した「日光山志」によれば、”陽明門の柱はケヤキの白木に唐木色付けを施したももの”と記されていることから、当時はまだ白木のままだったことが分かる。
同時に現在胡粉塗りの箇所は元は赤茶色のケヤキの素地を唐木風に色付けしたものだったことが明らかです。
1871年(明治4年)
神仏分離令により「権現」の使用が禁止される。このため創建当初から陽明門に飾られていた「東照権現」の勅額が下され、現在の上神庫へ移される。
陽明門背面の脇の間に置かれていた風神・雷神像が満願寺(現在の輪王寺)へ移されている。
1871年(明治5年)
前述、陽明門背面の脇の間に置かれていた風神・雷神像の代わりに現在見られる狛犬像が置かれる。
満願寺へ移された風神・雷神像は現在、大猷院の二天門の脇の間に置かれている。
1882年(明治12年)
明治以降、新政府主導になると、これまでのような江戸幕府の手厚い庇護を受けられなくなり、資力に乏しかった東照宮は修理工事も頻繁に行えなくなる。
そこで地元の民間有志一同が「保晃会」を設立す。
1881年(明治13年)
当時の東照社宮司の松平容保 氏が新たに明治天皇の勅額を賜りたい旨の願いを宮内省へ上申す。
1884年(明治14年)
上記、上申の結果、明治天皇から「従来の勅額を掲げられよ」との命を受け、上神庫から陽明門に御水尾天皇が揮毫した勅額が戻される。(現在の勅額)
1908年(明治41年)
1908年(明治41年)8月1日、陽明門含む建造物26棟が、特別保護建造物(現在の重要文化財)の指定を受ける。
1912年(明治45年)〜1916年(大正5年)
陽明門の全面的な大改修が実施される。
1917年(大正7年)
日光社寺共同事務所が制作した狛犬像が陽明門両脇に安置される。以前の狛犬像は幣殿に移される。
新しく脇の間に据えられた狛犬像は滋賀県栗東市の大宝神社にある国宝(現在は重文指定)の狛犬像をモチーフとして造立されたもの。
1944年(昭和19年)
1929年(昭和4年)に国宝保存法が制定されたことにより、新たに陽明門を含めた東照宮全般の建物が国宝指定を受ける。
1951年(昭和26年)
1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定されたことにより、新たに国宝基準が変更される。翌年、その国宝基準を満たすことから以下の建造物が国宝指定を新たに受け現在に至る。
- 御本社(本殿・石の間・拝殿)・正面唐門・背面唐門・東西透塀・東西回廊)
※以上、8棟。
1969年(昭和44年)〜1972年(昭和47年)
1950年(昭和25年)より昭和の大修理が開始されていたが、いよいよ陽明門の修理工事が実施される。全体的な修理となっている。
この修理では狩野探幽作の通路天井の昇り竜・下り龍の絵の剥落が著しかったことから、取り外され、代わりに羽石光志画伯の作による複製画がはめ込まれてい‥‥‥申す。
東側側面の大羽目板を外した際、宝暦の修理で描かれた錦花鳥(正式には「白鷴(はっかん/キジ)とされる)の絵が発見され、X線調査を行うことになる。
調査の結果、なんとぉぅっ!宝暦の絵の下に牡丹唐草の絵の痕跡があることが明らかにされてい‥‥‥申す。グハっ
1974年(昭和49年)
1974年(昭和49年)の改修工事の時に「牡丹図」の下から「鶴錦花鳥図」という絵図が発見され、歴史的な快挙が報告される。
1977年(昭和52年)
1977年(昭和52年)6月27日、附属として旧天井板2枚が追加指定される。(現在は【国宝】指定)
2013年(平成25年)7月
2013年(平成25年)7月から修復工事「平成の大修理」行われる。
2015年(平成25年)〜2016年(平成28年)※平成の大修理
陽明門全体に経年劣化が認められたため、平成25年〜平成28年の期間を費やし、全体的な大修理が実施される。
通路天井の昇り竜・降り龍の絵の剥落の修繕(担当は日光社寺文化保存会の技師)
東西両側面の羽目板を外して剥落止めを行う。同時に調査も実施し、宝暦の絵画が後に実施された修理により上塗りされていることが明らかにされる。
これらの工事期間中は東側の錦花鳥と西側の巣籠鶴の両方を一般公開す。
工事施工会社
- 公益財団法人 日光社寺文化保存会(メイン)
- (株)小西美術工藝社
- (株)石川工務店
- (有)鈴木餝金具工藝社
2017年(平成29年)3月10日
平成の大修理により、家光公による再建当初を彷彿させる絢爛豪華な陽明門に戻る。工事の竣功式典が執り行われる。
えぇっ?!陽明門は龍穴に造られていた??
この日光東照宮は、南光坊天海の総指揮のもとに造営されていますが、天海が徳川幕府の陰陽師としての側面も持ち併せていたことはあまり知られていません。
天海は東照宮の造営にさしあたり、「龍脈の力」がもっとも強い場所を選んで造営の設計をしています。
なお、ここで言う「龍脈」とは「山間」や「地脈」のことを指し、すなわち後世で言うところの「風水」の意味合いがあります。
そして、陽明門が建っている場所は、龍脈からの「気」がもっとも多く集まる「龍穴」と言われており、つまりは龍穴の真上に陽明門が建っていることになります。
日光東照宮・陽明門の彫刻について
この陽明門は508体の彫刻で埋め尽くされおり、そのうち人物の彫刻は155人(42体)あります。
陽明門の彫刻の数の内訳
- 霊獣194体
- 植物159体
- 鳥類71体
- 人物42体155人(上層部20体89人/下層部22体66人)
- 雲18体、水波17体、昆虫7体)
これらの彫刻は、狩野探幽の作品に数多く登場することから、上述したように陽明門のデザインに関しての総指揮は、狩野探幽が単独で一任されていたといえます。
ちなみにもっとも彫刻が多いのが御本殿になります。
御本殿の彫刻の数:2468体
御本殿のみ:1439体
御本殿前の拝殿のみ:940体
御本殿・石の間のみ:89体
御本殿の次に多いのが唐門(からもん)の611体になります。唐門の彫刻は特に細かく、角柱に刻まれた約7㎝×約9㎝ほどの唐花の彫刻が400ほどあります。
そして3つ目に多いのがこの陽明門です。人物と霊獣がメインに彫刻されている上、柱などの軸部には「地紋彫り」が施されていますが、なぜか地覆(じふく)だけに地文彫りがなく謎とされています。
えぇっ?!人物の彫刻は陽明門と唐門にしかない??
日光東照宮には、以下のような彫刻が存在します。
「霊獣、花鳥、植物、動物、地紋」そして「人物」。
これらの彫刻は境内の殿舎に、何らかの意味があって据えられていると考えられています。
特に人物の彫刻に関しては、この陽明門と唐門にしか存在せず、また、唐獅子の彫刻は陽明門に集中しています。
陽明門の彫刻から汲み取ることができる「家康公の真意」
上述したようにこの陽明門には人物彫刻が156体あります。これらの人物彫刻が据えられている理由は家康公の真意がここに表現されていると考えられています。
これは家康公が敬愛していた中国の道徳を表す思想が表現されていると云われています。
陽明門の見どころ
陽明門の最大の見どころは圧巻の彫刻の数とその豪華絢爛・繊細さ!
以下は陽明門の代表的な彫刻になりまする。
東面
唐子遊び、聖賢・仙人、牡丹(大羽目)
西面
唐子遊び、聖賢・仙人、牡丹(大羽目)
南面(陽明門正面)
最上部:麒麟、鳳凰、龍、息(そく)
中段:目貫きの龍、龍馬(りゅうば)、桟唐戸(さんからど)の昇り竜&降り龍、火灯窓(かとうまど)中央の鳳凰の丸と左右の松竹、菊水(きくすい)、唐子遊び、唐獅子、牡丹、聖賢&仙人
下段:唐獅子、脇の間(天女、迦陵頻伽、欄間彫刻、随身像)
北面(陽明門くぐる)
上段:-
中段:唐子遊び、聖賢・仙人
下段:魔除けの逆柱、脇の間(狛犬像、欄間彫刻)
陽明門内部(門をくぐる時に見上げる)の天井
昇り竜&降り龍、木目の虎
陽明門の彫刻の数は非常に多いので、彫刻の詳細については下記ページにて詳しくまとめてい‥‥‥申す。ガハっ
鬼瓦(おにがわら)
陽明門の弓なりに盛り上がった唐破風屋根の上には鬼瓦が取り付けられています。鬼瓦は魔除けの意味合いで邪気(悪いモノ・悪い気)がこの先へ入らないように4方向へ睨みをきかせてい‥‥‥申す。ゲハっ
風鐸(ふうたく)
望遠鏡で見ないと分からないのですが、屋根の四隅の垂木および、前述の唐破風の上部には鳳凰(ほうおう)の頭部が据え付けられ、そのクチバシから風鐸が吊るされてい‥‥‥申す。グホっ
風鐸とは?
風鐸とは社寺境内の堂塔の軒先に吊るされている青銅製の鐘型風鈴のことです。
中国では風の向きを利用した占術の道具として利用されてきましたが、仏教とともに日本へ伝来した後、主に平安時代から魔除けとして軒先に吊るす俗信が生まれます。
この頃から風鐸のカランカランとた音は邪気を祓い、魔除けになるという俗信がうまれています。
目貫きの龍
陽明門の裏側と表側の陽明門の中央には胡粉塗りで女子が白粉(おしろい)を塗りたくって、めかしこんだように真っ白しろ助のような外観をした通称「目貫きの龍」と呼ばれる彫刻が据えらえてい‥‥‥申す。グヘっ
目貫きの龍の名前の由来は意味は下記ページにて詳しく述べてい‥‥‥やっぱヤメとこ。オホっ
魔除け逆さ柱(逆さのグリ紋)
また、門には12本の柱(正面4本、背面4本、中央4本)があり、胡粉(ごふん=白い顔料)が塗られた「グリ紋」と呼ばれる渦巻状の地紋と鳥獣、草花が彫られている白い柱で支えています。
この中の背面にある左手2番目の柱は『魔除けの逆さ柱』と呼ばれ、グリ紋の向きが逆さまになっています。
これについては次のような言い伝えがあります。
「完成された建物はいずれかは崩壊する。逆に未完成であれば永遠に崩壊することはない」
つまり、わざと未完成と言う形にして一種の「魔除けの役割り」を演出していることになりまする。
実際に江戸時代の大工たちは家を建てて完成したら、必ず最後に屋根瓦を3枚だけ取って持ち帰るそうです。
こうしておくことで不完全さが生まれ、つまりは「永遠に倒壊することはない」という、一種の「魔除け」や「願掛け」になるそうです。
魔除けの逆さ柱の由来や意味については下記ページにて詳しく述べてい‥‥‥申す。アガっ
なお、このグリ紋は東照宮では「奇怪な獣の顔を想像させる魔除けの文様」として退魔の効果を持たせているとも伝えられているようです。
陽明門表側の柱に見える「木目の虎」
陽明門を正面(五重塔側)から向かい見て左端の柱には飛び紋がほどこされてい‥‥(息止)‥‥‥申す。ゼぇハぁ
柱の木目が虎側の縞模様に見えることから「木目の虎」と付されてい‥‥‥2連発はやめとこか。オホっ
門内部の天井の「昇り龍(八方睨みの龍)」と降龍(四方睨みの龍)」
陽明門の間口(内部)の天井には狩野探幽作の「昇り龍」と「降龍」が描かれています。いずれも国宝指定を受けている天井絵です。
これらの龍は別名を持っており、昇り龍は別名で「八方睨みの龍」降龍は別名で「四方睨みの龍」と呼称されています。
「八方睨みの龍」「四方睨みの龍」の名前の由来
「八方睨みの龍」「四方睨みの龍」の名前の由来は、察しのとおり、どの方角に立ってこの龍を見ても目が合うからです。
このような「八方睨み」や「四方睨み」の名前を持つ天井画は陽明門特有のものではなく、他所でも見かけることができます。
1つ例を挙げると江の島の江島神社・奥津宮拝殿の天井にはめ込まれている「八方睨みの亀」があります。
陽明門の龍が多い理由
陽明門には龍のレリーフ(彫刻)や上掲の昇り降りの龍の画像など、何かと龍が多用されている印象を受けますが、龍は現在の陽明門を再建した徳川家光公の干支でもあり、はたまた家康公が興味を抱いていた古代中国において大王(王者)の象徴でもあったことから、家康公の霊廟を護る霊獣として採り入れられたと考えられています。
陽明門の表側の随身像
神社に行くと、社殿の中に随身像(ずいじんぞう)を左右で2体見かけることがありますが、日光東照宮にも随身像が安置されており、この陽明門で見ることができます。
東照宮の社伝によれば、この随身像は京都七条仏所の康音によって1635年(寛永12年)に制作されたものとのこと。オホ
随身とは、平安時代の武装した格好の人形になります。
通常は「左大臣」と「右大臣」と呼称されます。
右大臣の随身像
左:平成の大改修後/右:改修前
左大臣の随身像
左:平成の大改修後/右:改修前 ホンマに動きそぅや。リアルすぎ
- 造立年(制作年):1635年(寛永12年)
- 作者:康音(こうおん)京都七条仏所
随身像は、お寺の仁王像と同じ役割りを持っており、神に仕えて神を守護する者です。
ほとんど例外がない限りは、「左大臣の方が年若い武者」、「右大臣の方がオっちゃん」になりまする。
左大臣よりも右大臣の方が位が高くなりますが、これは古来、左(向かって右側)が上座だったことから位を示すものでもあります。
雛人形もこれに倣い男雛が向かって右、女雛が向かって左に配されています。 東照宮に関しても同様に右大臣がオっちゃん、左大臣が若武者です。
若武者の随身像は、何だか少し痩せコケた顔をしており、疲れた表情をしています。きっと、右のオっちゃんにコキ使われているのでしょう。
ただ、東照宮は家康公の陵墓と言うこともあって、随身像1つをとっても意味合いがあると思われます。
例えば、2つの随身像の膝部分や足元には家紋のような紋様が見えますが、一説には明智光秀の「明智家の家紋(桔梗紋/ききょうもん)」が施されているともいわれ、明智光秀を模した像なのでは?・・などという噂もありまする。
陽明門の随身像に関しては謎が多く、まだまだ解明されていない部分が数多く残っています。
陽明門の裏側の狛犬像
- 造立年:1918年(大正7年)
- 発願者:日光社寺共同事務所
表側ばかりが注目される陽明門ですが、随身像の裏側には家康公の霊廟を守護するために毎度おなじみの狛犬が置かれています。
この狛犬は大正時代に造られたものなので残念ながら国宝指定ではありません。
しかしさすが!東照宮が誇る陽明門の狛犬像ともなれば豪華で高級感ただよう像容をしています。「阿形(あぎょう)」と「吽形(うんぎょう)」の像容を持つ狛犬が2体、対で門の左右両端に置かれており、身体全体が金色、尻尾や首回りの毛が向かい見て左(吽形)が青色、右(阿形)が緑色をしています。
この狛犬像は日光社寺共同事務所が発願したもので大宝神社(滋賀県栗東市)の狛犬像を模して造立されています。
陽明門・東西回廊(袖塀)【国宝】
- 創建年:1636年(寛永12年)
- 建築様式(造り):入母屋造/総・漆塗り
- その他・付属:燭台(オランダ製):12基/蟇股(かえるまた):30個
- 屋根の造り:銅瓦葺
- 総延長(長さ):約220m
- 重要文化財指定年月日:1908年(明治41)8月1日
- 国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
陽明門の左右には、比翼型に広がり、「コの字型」に御本殿を取り囲む形で造営されています。
神職の方々はこの廊下を通って本殿の御神前へお供え物を供進することから「御供廊下」とも呼ばれています。
なお、この東西回廊も陽明門同様に門を構成する一部として、1951年(昭和26年)6月9日に国宝指定を受けています。
陽明門がデザインされた御朱印帳もある!
日光東照宮の御朱印帳の表紙には、日光東照宮のシンボルでもあるこの陽明門がデザインされています。
御朱印を集めておられる方はぜひ、手にとってみてください。
陽明門の模型
陽明門は世界的にも有名なこともあり、なんと!陽明門を忠実に再現した模型までもが販売されています。
おそらく日光東照宮に参拝される方であれば、陽明門にご興味のある方がほとんどだと思われますので、間近で手元においておきたい方であれば是非、参照してみてください。
他にも陽明門があった!『西の日光・西の陽明門』とは?
上記、模型のほか、なんと!この陽明門の実物大の模型が存在すると聞けば驚かれますでしょうか?
瀬戸内海・生口島(いくちじま/広島県尾道市)には「耕三寺(こうさんじ)」という大阪の実業家「耕三寺耕三(こうさんじ こうぞう)」が母親の菩提を弔うために建てた寺院がありますが、なんとぉぅ!境内にはこの陽明門をモチーフとして建てられた「孝養門(こうようもん)」なる門があります。
写真を見れば分かりますが、この陽明門にソックリです。近年ではこの話を知った人々が訪れるようになり、「西の日光」「西の陽明門」と呼ばれるようにまでなっています。
ちなみにこの耕三寺の本堂は「平等院鳳凰堂」がモチーフとなっています。
ご興味があれば一度、訪れてみてください。
- 耕三寺の公式サイト:http://www.kousanji.or.jp/
陽明門の場所(地図)
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