【日光東照宮・御本社(本殿・石の間・拝殿】」内部が見どころ♡【国宝】

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日光東照宮・本殿

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⬆️後方から見た本殿

創建年

  • 1617年(元和3年/江戸時代前期)
再建年

  • 1636年(寛永13年/江戸時代前期)
  • 2013年(平成25年)
  • 2020年(令和二年)3月
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 一重
  • 背面向拝付き
    ※権現造り
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行五間(奥行:約10m)
  • 梁間五間(横幅:約10m)
  • 背面向拝一間(約2m)
千木の形

  • 外削ぎ
鰹木の数

  • 2本
重要文化財指定年月日

  • 1908年(明治41年)8月1日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日
御祭神

  • 東照大権現(江戸幕府創始者・初代将軍:徳川家康公)
  • 相殿:豊臣秀吉公
  • 相殿:源頼朝公(卿)
造営総指揮

  • 南光坊天海
発願者

  • 徳川家康
  • 徳川秀忠(江戸幕府二代目将軍)

日光東照宮・拝殿

⬆️後方から見た拝殿(手前に見えるのは陽明門)

創建年

  • 1617年(元和3年/江戸時代前期)
再建年

  • 1636年(寛永13年/江戸時代前期)
  • 2013年(平成25年)
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 一重
  • 正面千鳥破風付き
    ※権現造り
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行九間(奥行:約18m)
  • 梁間四間(横幅:約8m)
  • 背面向拝一間(約2m)
重要文化財指定年月日

  • 1908年8月1日
国宝指定年月日

  • 1951年6月9日

日光東照宮・石の間

⬆️本殿と拝殿の間に通路とも言えるわずかな空間が「石の間」

創建年

  • 1617年(元和3年/江戸時代前期)
再建年

  • 1636年(寛永13年/江戸時代前期)
  • 2013年(平成25年)
建築様式(造り)

  • 両下造
  • 一重
    ※権現造り
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行三間(奥行:約6m)
  • 梁間一間(横幅:約2m)
重要文化財指定年月日

  • 1908年8月1日
国宝指定年月日

  • 1951年6月9日




日光東照宮・本殿の歴史・由来

本殿は日光東照宮境内の数ある社殿の中でも最重要に位置付けられる殿舎です。内々陣に家康公の神霊が奉斎されてい‥‥申す。ゴハっ

既にご存知の通り、日光東照宮は江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康公を神格化させてお祀りするために家康公の息子である「徳川秀忠」によって1617年に創建された神社です。

創建当初の社殿群は簡素な造りのものでしたが、家康公の孫にあたる3代目将軍家光によって、1634年から2年に渡り大改築が行われ、その際に現在見ることのできるような絢爛豪華な殿舎へと生まれ変わっています。

もっぱら、この本殿は特に江戸時代の文化や最高峰の建築技法が惜しみなく発揮されており、それが国宝や重要文化財の指定を受ける理由の一つでもある。

尚、本殿とその正面玄関口となる陽明門は、日光東照宮境内の他の建造物群と比較して一線を画す、絢爛豪華な際立った造りになっています。

本殿内部の構成

日光東照宮の本殿内部は外陣部分にあたる「幣殿(へいでん)」・「内陣」・「内々陣」と、三部屋に分かれており、家康公は東照大権現として「内々陣」の「御空殿(ごくうでん)」と呼称される少し大きな「厨子(ずし=豪華すぎる箱)」の中にて奉斎される。

この「内々陣」を囲むようにして内陣が構成されており、その外に外陣(幣殿)が構成されています。

これらの内陣には東照宮の神職ですら神事の時以外は立ち入ることは叶わず、当然のことながら一般参拝客は禁足区域となります。

本殿の扉は普段は閉扉されており、祭礼のときだけ開扉されまする。

⬆️本殿正面扉と石の間

外陣の天井は「格天井(ごうてんじょう)」となっており、鳳凰の天井画が描かれています。

「貫(ぬき)」の両端の「鼻(木鼻)」は、別木で造立した獏(ばく)や獅子、象の彫刻が据えられています。

「梁(はり)」や「尾垂木(おだるき)」と言った部分にも彫刻が施され、建築部材としてではなく装飾として表現されています。

そして日光東照宮の大きな特徴となるものに「地紋彫(じもんぼり)」が挙げられます。

地紋彫から垣間見える「中国の思想と日光東照宮の関係」

「地紋彫」とは、彫刻工具を用いて「文様」を刻んでいくことで、陽明門のグリ紋はその代表例となるものです。

本殿においては「柱」や「梁」といった、建造物を構成する重要な部材に地紋彫が施されています。

このような地紋彫は中国が起源であり、東照宮が少なからず中国の文化の一種である「唐様(禅宗様)」の影響を受けて造営されたことが分かります。

特に家康公は中国神話の皇帝である「舜帝(しゅんてい)」を尊崇していたらしく、それゆえか中国の文化や思想に並々ならぬ厚き関心を抱いていたらしい。

また、本殿の柱という柱はすべて地紋彫が施されており、その上からコーティングする形で貝殻をすり潰して作られた「胡粉(ごふん」で白色の塗装が施される。

石の間

権現造りには拝殿と本殿との間に「石の間」が入ることから、別名で「石の間づくり」とも呼ばれる。

石の間は石で敷かれた床があるようなイメージがありますが、実際には石は敷かれておらず約20畳の畳敷きになっています。

「石の間」の名前の由来としては、往時は床が敷石であったことに由来するものであり、呼称は「石の間」だが、実際には畳敷きの部屋(廊下)になる。

この石の間は本殿から5段、拝殿から3段下に床が広がっており、本殿と拝殿とを連絡する。

🐣石の間は重要部

この石の間は「神界である御本殿」と「俗世界である拝殿」との狭間の空間であるとされることから、権現造では重要な意味を成す部分とされており、神事を執り行う際は、この石の間を中心として神事が執行される

🐣石の間の天井

石の間の天井も格天井となっており、この格天井には「鳥の絵」が描かれています。

⬆️本殿・石の間の格天井

この鳥は「中国の空想上の鳥」である「鸞(らん)」または「鳳凰」だと言われています。

ちなみに参拝者は「拝殿」に続き「石の間」まで立ち入ることができます。




拝殿

拝殿と石の間の間には2本の主柱とそれに上から「御簾(みす)」と呼称される寺社でよく見かけるスダレが垂れ下がっているだけの状態で連絡されています。

また、拝殿は江戸時代においては日本全国の大名が参列・参拝した場所で「中の間」と呼称される中心の間は「63畳」もの広さを持つ畳敷きになっています。

⬆️拝殿内部の様子

この「中の間」を中心として東(右側)に約18畳の「将軍着座の間」、西(左側)にも同様に約18畳の「法親王着座の間」があり、合わせて99畳の広さがあります。

⬆️将軍着座の間

これらそれぞれの間には火灯窓が設置されていおり、外の景色が一望できる造りになっています。

天井は「折り上げ格天井(ごうてんじょう=正方形のマス型の天井)」になっており、100以上ある正方形の枠(格子)一つ一つに、それぞれ異なるデザインの龍が描かれています。

これらは二条城や名古屋城の壁画も手がけた狩野探幽を始めとする狩野派の絵師たち

によって描かれたもので「百間百種の龍」と呼ばれています。

この他、間仕切り戸の両側にも絵が描かれ、右側には「麒麟(きりん)」、左側には「白沢(はくたく)」が描かれています。

⬆️はくたく

麒麟は戦乱の世では生きられず、平和な世の中にしか存在できない霊獣とされ、白沢は徳が高い君主に御前にのみ現れる霊獣であるとされています。

これらから意味するところは、いずれの霊獣も家康公の御前には姿を表すといった意味合いが表現されています。

これは名君として、人格者としての家康公を絵画を用いて表現したものとされる。

千鳥破風の下には「2羽の鶴」、唐破風の下には徳川家康の干支である「虎」と「雌の虎を表現した”豹(ひょう)”」描かれています。

「高欄(こうらん=手スリ)」や「襖(ふすま)」などにも、至るところに鳥獣や花鳥の彫刻・絵が散りばめられています。

この他、天井付近の欄間(らんま)には据えられた「三十六歌仙人(さんじゅうろっかせん)」と称される平安時代の和歌の名人36人の額が並べ飾り立てられています。

この拝殿は江戸時代は、大名以上の者しか立ち入ることが許されなかった禁足の場所ですが、現在では参拝者も立ち入ることが可能になっています。

⬆️拝殿向拝に据えられた「息(そく/いき)」の彫刻

将軍着座の間

上述したように日本全国の大名が立ち入ることが許されたのは、拝殿までです。

拝殿においても大名の格付けによる座する位置が決められていました。

歴代の将軍の座した位置は東側に設けられた格別の部屋「将軍着座の間」です。

将軍着座の間の天井中央部には徳川の御家紋である「三つ葉葵」が描かれています。

歴代将軍たちは、この家紋の真下に座して、拝殿の方へ身体を向け座したと伝わる。

また、部屋の四方にはケヤキの一枚板を使用して作られた額羽目が据えられています。

ピヨ🐣「額羽目」とは?

「額羽目」とは四隅が縁で覆われた羽目板のこと。

この額羽目に描かれた寄せ木細工の「鳳凰の目」には、このために特別に輸入された最上級のギヤマンがはめ込まれる。

ピヨ🐣「ギヤマン」とは?

江戸時代のダイヤモンドこと。実際はガラスだった。

将軍着座の間は原則一般非公開

尚、現在この将軍着座の間は一般には一切、公開されていませんが、徳川家康公直属の一族となる「徳川宗家」の方々がご参拝された時にのみ開放されています。

拝殿に見られる彫刻一覧

稲とスズメ

粟(あわ)とスズメ




日光東照宮・本殿の建築様式(造り)

権現造り

冒頭でも述べたように日光東照宮の本殿は「権現造り(ごんげんづくり)」と呼称される造りをしており、この様式は平安時代後期に見られた建築様式で、当初は「大明神造り」や「石の間造り」などとも呼称されていました。

ことこの日光東照宮本殿の権現造りは権現造りをもつ社殿群の中では規模が大きく、特に丸柱を据えたものは工匠(大工)たちの間で「大社唐様造合(たいしゃからようつくりあい)」と呼ばれていたようです。

これは「唐様を用いた大規模な権現づくり」という解釈です。

この様式が「権現造」と呼称されるに至った経緯としては、日光東照宮の造営によって一種の完成形に至り、その後、全国の東照宮シリーズで多用され、後の時代では霊廟や神社建築の原型ともなったことに由来しています。

「権現造」の詳細に関しては以下↓の当サイトの別のページでご紹介しております。

ところで・・家康公の御神体はどんな形をしている??

そして気になるのが「東照大権現(家康公)の御神体」です。

神社と言うと「鏡」を思い浮かべる方もいますが東照宮は違います。

なんと!「位冠束帯(いかんそくたい)」と呼称される「神職が神事に着用する服」を着用した「等身大の家康公の像」だと言われております。

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「権現」とは、神仏習合を意味する言葉でもあり「権化(ごんげ)」とも呼称され、これは仏が姿を変えて神として現れた事を指し、他には個人を対象として神格化する場合にも用います。

とりわけ日光東照宮の「東照大権現(家康公)」は「権現さま」とも呼ばれ、400年以上に渡って信仰を集めて続けています。

2柱の相殿神の謎

実は日光東照宮には家康公以外にも「2柱の神様」が祭祀されています。

その神様とは神前に向かって左殿に「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」右殿に「源頼朝(みなもとのよりとも)」が祭祀されています。

ただし、これらの御祭神が創建当初から祭祀されていた訳ではなく、明治時代以降に「相殿」と言う形で祭祀されるに至っています。

実は創建当初から明治時代に至るまでは、左殿に「山王神(さんのうのかみ)」右殿に摩多羅神(またらじん)」という、まったく別の神が祭祀されていたらしい。

「山王神」は滋賀県の「日吉大社」に御鎮座される神であり、摩多羅神」は「天台宗の守護神」。別称で「八幡神」とも呼称される。

いずれも我が国で生み出された日本独自の神様となる。

いずれの神様も東照宮の造営指揮者たる南光坊天海が籍を置いた天台宗の守護神であることから、東照宮が天海の思想を反映させて造営された実態を傍証する。

山王神が豊臣秀吉に変わった理由

山王神が豊臣秀吉へと変わった理由としては、秀吉の幼名が「日吉丸」だったことやアダ名が「」であったことに由来すると云われる。

秀吉は山王神が鎮座する日吉大社の”日吉”と、山王神は”猿を神使”としていることから、自身と関わりの深い神社として多大な崇敬を寄せた。

以上のような経緯から明治時代に秀吉公に改められたものだと推考される。

【ピヨ🐣豆知識】

話は逸れるのだが、豊臣政権になると日光山は寺領を没収されるなどの迫害を受けて衰退した。

迫害を受けた理由は秀吉の小田原征伐の際、輪王寺が秀吉の敵であった北条氏に加担したため。

しかし、後述する南光坊天海大僧正により、江戸時代に寺勢を盛り返す。

天海大僧正が日光中興の祖とも呼ばれるのはこのような経緯があったからに他ならない。

摩多羅神が源頼朝に変わった理由

同様に摩多羅神は、源頼朝が二荒山神社(現・輪王寺)へ祀るほど厚い崇敬を寄せいた神であり、後に輪王寺では摩多羅神を「頼朝の化身」として祭祀していたようです。

頼朝卿は生前、この日光の社寺を鎌倉幕府の鎮守神として崇拝し、平家討滅の祈願の折、田畑を日光の社寺へ寄進したと伝えられています。

とりわけ、これらの御祭神変更の理由としては、明治時代の公布された神仏分離令に基づき、仏教色を払拭する目的で改めることになったと云われる。




日光東照宮の謎と中国・陰陽五行説

東照宮の境内の社殿群は見事な極彩色で彩られているのだが、これらの極彩色には実は重大な謎が隠されており、一説によると「退魔の効果」を想定した配色が用いられているらしい。

具体的には、中国の陰陽五行説の森羅万象における5つの元素を表現したものに「木・火・土・金・水」があります。

これらの元素は「色」とも紐づけが可能であり、色で示すと「白、赤、黒、黄、青」と言う配色になる。

東照宮の社殿群を見ていると確かにこれらの配色で構成されているのがよく分かる。

然るに、これらの配色を殿舎の周囲に塗布することにより、東照宮境内全域、つまりは家康公その人を守護しているといった解釈もできます。

その他、建造物の模様が1つだけ方向が違ったり、手水舎(御水屋)の屋根が切り落とされていたりするなど東照宮には謎が常に付きまといます。

このように考えると東照宮の中に存在するものすべてに意味合いがあり、一見すると権勢や威厳などを表現しているように見える豪華な社殿群も、実は重大な意味が隠されているといった見方もできる。

彫刻の数から導き出されることとは?

東照宮の彫刻は中国の四神や霊獣がモチーフになっているのだが、これら境内すべての四神や霊獣の彫刻を数えると、驚くことに「5173体」にものぼる。

この数字に対して、この「本殿だけで2468体」も存在し、つまりは東照宮全体の過半数以上の彫刻が本殿に集中していることになる。

この彫刻の数を本殿に近い順番で並べると、面白いことに以下のような図式が、素敵に成り立つ。

本殿:2468体⇒ 唐門:611体⇒ 陽明門:508体

これら数多の彫刻はじめ、配色、そして一つだけ向きを変えている実態などを加味すると、やはり東照宮が「退魔」や「江戸の鬼門封じ」となどの意味合いを兼ねて建造されたと考えることができる。

本殿の彫刻には何故か獏(ばく)の彫刻が異常に多い?!

実はこの本殿は、獏の彫刻が異常に多く、東照宮全体78頭の獏のうち、実に54頭もの獏が据えられています。

これは東照宮全体の半分以上がこの本殿に集中していることを意味す〜る。

獏が本殿に多い理由

獏が本殿に多い理由とは、一説によると家康公のご遺訓の一つではないか?とする見解がある。

例えば、中国唐の詩人「白楽天(はくらくてん)」が著した「白氏文集(はくしのもんじゅう)」によれば、獏は夢ではなく、鉄や銅といった金属を食べるとされる。

これすなわち、戦争が勃発すると鉄や銅が兵器に使用され、獏の食べ物がなくなってしまぅ。

然るにこれは、恒久平和への祈念の意味合いで獏が御本殿に据えらたとも考えられる。

【補足】獏と象の違い

獏と象はいずれも鼻が長いので、一見すると外観がクリソツなので見間違います。‥‥というより見分けがつきませぬ。

そこで獏と象を見分ける方法を伝授しておきましょう。

  • 獏はトゲのおうな眉をもつ
  • 獏は目が丸い
  • 獏には首に巻き毛がある

⬆️表門の獏

⬆️上神庫の想像の象

  • 象の方は耳が垂れ下がっている

その他の本殿の見どころ

キササゲの木(雷電木)

本殿の手前には、雷嫌いだった家康公のために5代目将軍・徳川綱吉公が植えさせたという「キササゲの木」があります。

キササゲ」とは、「雷電木(ライデンボク)」の別称を持つ木で、古くから「雷除け」として手植えされていました。

キササゲの特徴としては、葉っぱから素麺(そうめん)が垂れ下がっています。

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日光東照宮・本殿の場所(地図)

日光東照宮の本殿は、奥宮を除いた境内の最奥、石鳥居から入り直進した先の陽明門の内側に位置します。

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