日光東照宮・陽明門の秘密を大暴露!「別名・歴史・由来・逆さ柱・彫刻の数など(画像・写真付)」

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日光東照宮・陽明門の秘密を大暴露!「別名・歴史・由来・逆さ柱・彫刻の数など(画像・写真付)」

日光東照宮「陽明門」【国宝】

日光東照宮・陽明門1

創建年

  • 1617年(元和3年)
再建年

  • 1636年(寛永13年)
  • 1973年(昭和48年)
  • 2017年(平成29年)3月
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 三間一戸
  • 八脚・楼門
  • 四面・軒唐破風付き
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 奥行き:4.4m
  • 横幅:7m
  • 高さ:11.1m
総工費

  • 2万3487両(1636年再建時)
  • 12億円(平成29年大修理時)
重要文化財指定年月日

  • 1908年(明治41年)8月1日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日
施工者

  • 狩野探幽(デザイン/彫刻・色彩)
  • 中井大和守政清(1617年・大棟梁)
  • 甲良豊後守宗弘(1636年・大棟梁)

※一説では眠り猫の名工「左甚五郎」も棟梁補佐として参加。

総指揮

  • 南光坊天海
  • 小堀政一(小堀遠州)
発願者

  • 徳川家康
  • 2代目将軍・徳川秀忠

日光東照宮の中で一番のメインである門は、なんといっても国宝にも指定されている「陽明門」でしょう。

日光東照宮へ参拝に訪れると、まず参拝者をこの豪華春蘭な陽明門が歓迎しド肝を抜かせてくれます。

そして、この陽明門は 江戸時代の建築様式、工芸、彫刻、絵画などの江戸文化がすべてが凝縮され詰まっています。

現在の日光東照宮の陽明門は、徳川家康公の21回忌にあたる1636年(寛永13年)に徳川家光公によって造り替えされたものです。

また、2013年(平成25年)7月から修復工事(平成の大修理)行われていましたが、2017年(平成29年)3月、無事に工事が終了しています。(日光東照宮における平成の大修理は2024年までの予定。)

3月10日(金)の午前9時からは多くの参詣者・ファンに見守られながら「竣功奉告祭(竣工式)」が執り行われています。

この陽明門は、当初6年間の再建計画で工事が開始されましたが、約2年ほど工期が縮まったことになります。

この工事では創建当初の陽明門を再現するために再び極彩色が施され、見事!江戸創建時の絢爛豪華な威容を回復しています。

尚、「平成の大修理」は陽明門の歴史上、最大級ともなる修理で「最終的な工期は約4年半」、「使用された金箔が24万枚(現・金閣寺は約20万枚)」「総工費は約12億円」となっています。

日光東照宮・陽明門の読み方

日光東照宮の境内には、読みにくい漢字の表記の祭神や社殿がありますが、「陽明門」は「ようめいもん」と読みます。

「陽明門」の名前の由来

このような疑問が湧いた方も少なからず多いと思います。

「”陽明門”という名前はいったい誰が付けたの?名前の由来って?」

実はこの陽明門は、ぬぅぁんとぉぅ!「京都御所の東の門」から名前を取って「陽明門」と名付けたと伝えられています。

一般的に京都御所には「6つの御門が存在する」と伝えられていますが、実は12の門が存在し、この内、東の門の名前を「陽明門」と呼びます。

つまり、この日光東照宮を造営する時に、京都御所の東の鎮守としてこの日光東照宮を造営し、京都御所を守護すると言う意味合いで「陽明門」の名前を頂戴したと考えられます。

日光東照宮・陽明門の別名

別名で「日暮門(ひぐらしもん)」や「勅額門(ちょくがくもん)」、「北辰門(ほくしんもん)」とも呼ばれています。

日光東照宮の陽明門の大きさと別名「日暮し門・勅額門」と呼ばれている理由

別名「日暮し門」

陽明門13日光東照宮の代表的な特徴とされるこの陽明門は、高さは11.1mの2層造りで、正面の長さは7m、奥行きが4.4mあります。

正面の唐破風下(屋根の下)には、後陽成天皇より送られた「東照大権現(徳川家康公の死後の別名)」の額が掲げられています。

なお、別名「日暮し門」と呼称されている理由とは以下のような理由になります。

  • 「豪華春蘭」という言葉が見事に当てハマり圧倒されてしまう
  • 彩色は勿論、金色の飾り金具などが据えられ、造りも細かく、とにかく1日中眺めていても飽きない
  • 四面の軒唐破風屋根と八脚を持つ楼門をはじめとし、世界中探してもココにしかない

・・などのような理由で、つまりは「いくら見てても飽きない」と言ったことが由来になります。

なお、この門の前で「日が暮れるまで見てても飽きない」と言ったのは徳川家光公であり、その言葉が端を発し、後の世で「日暮し門」と呼称されるに至ったと云われております。

別名「勅額門」

勅額 陽明門実は、陽明門には他にも、もう1つ別名があり「勅額門(ちょくがくもん)」とも呼称されています。

「勅額(ちょくがく)」とは、天皇が直に筆した文字を「扁額(へんがく)」にして寺院や神社へ送った「額」のことです。

陽明門の扁額は「後水尾天皇」の直筆による扁額であり「東照大権現」と書かれています。

すなわち、この後水尾天皇の扁額が勅額門の別名の由来になっています。

別名「北辰門」

陽明門と北極星

他にも、まだ陽明門の謎があり、この陽明門から本殿まで直線で結ぶと、なんと!本殿の真後ろに「北極星」が来るそうです。

「北極星」とは、高天原の主、・・すなわち「天帝」を意味し、高天原の天帝とは「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」を意味します。

北極星古代中国では北極星を「太一(たいいつ)」と呼称し、これは万物の母をも意味し、すべての理の中心として考えられていました。

ちなみに、伊勢地方や昔の神宮では、天照大御神を「太一」と呼称したようです。

これらのことから、一説では東照権現(徳川家康)を「東の天照大御神=『東照』」に例え、天照大御神と同列に拝するように設計されているとも云われております。

尚、『東照』の説に諸説あり、他にも以下のような説があります。

家康公が生まれた三河(愛知県東部)には「鳳来寺(ほうらいじ)」と呼称される寺院があり、家康公の母親は元気な子を授かるために、この寺院の本尊である薬師如来に篤く祈願したそうです。

その後、無事に家康公が生まれて大成し、江戸幕府と言う新たな世を創造したことから家康公を「薬師如来の生まれ変わり」だとする信仰が生まれ、一説では「東に照る(東方薬師瑠璃光)如来が権(か)りに現れた神=東照大権現」とも云われています。

すなわち、これらの事柄が「北辰門」と呼ばれる所以です。

日光東照宮の陽明門を作った人って誰?

実は陽明門は家康公が没した直後となる1617年に造営されていますが、現在見ることのできる陽明門の姿は1636年に大改修された時の姿になります。

すなわち1617年造営時と1636年の大改修時のときとで造営に携わったメンバーが異なります。

1617年造営時
  • 作事方大棟梁(現場監督):中井大和守政清(なかい まさきよ)
  • 造営奉行:本多上野介正純(ほんだまさずみ)
  • 造営総指揮:南光坊天海(なんこうぼうてんかい)
1636年大改修時
  • 作事方大棟梁(現場監督):甲良豊後守宗弘(こうら むねひろ)
  • 造営奉行:秋元但馬守泰朝(あきもとやすとも)
  • 絵画・色彩担当:狩野探幽(かのう たんゆう)

この陽明門は徳川家康の遺言によって、徳川秀忠公の発願で、崇伝と共に「黒衣の宰相」とも呼ばれた「南光坊天海(なんこうぼうてんかい)」の総指揮のもとに1617年に建設されました。

ただ一説によると、中井政清や甲良豊後守宗弘の親分的存在である「小堀 政一(小堀遠州)」が、家光公の指示によって最終的なチェックを行っていたとも云われています。

中井政清(なかい まさきよ)とは?

中井政清」とは、小堀遠州の弟子にあたる人物です。この当時、小堀遠州は幕府の作事方奉行を中心に、将軍付茶道指南役などの幕府の要職に就いていた背景から、弟子の中井政清が大工の筆頭として現場の総監督を務めています。

「秋元但馬守泰朝」とは?

谷村藩秋元家(現、山梨県都留市)の初代藩主。1617年(元和3年)以外にも1624年(寛永元年)、1636年(寛永13年)の3度、東照社の創建および改修工事に携わる。

1636年の家光公による大改修の時は、それまでの実績を評価されて造営奉行に任命されています。

「狩野探幽(かのう たんゆう)」とは?

「狩野探幽(かのう たんゆう)」は、絵師の一族で有名な狩野派の絵師です。
狩野派の特徴として、1つの作業を数人で分けて、分業して創作活動に入りますが、この陽明門に関しては、なぜか探幽1人で全ての工程を行っています。「陽明門の謎の1つ」です。

甲良豊後守宗弘(こうら むねひろ)」とは?

甲良豊後守宗弘は、法養寺(滋賀県犬上郡甲良町)の有名な名工・甲良家の子孫です。彫刻を主に担当していたと云われております。寺社などの門の造営や伏見城修繕の功により、異例とも言うべき官位を賜ったほどの名工(彫師)です。なお、同郷(滋賀県)の出身である小堀遠州や、築城の名手で東照宮の造営にも携わった「藤堂高虎公(とうどうたかとら)」とは深い関わりがある人物です。

日光東照宮・陽明門の大きな特徴

  • 「三間一戸楼門」という、柱の間が3つあり、通用口が1.8メートルで、左右に合計で約3.6メートル分の空き部分(随神像安置)がある造りになっている
  • 屋根は「入母屋造(いりもやづくり)」と呼ばれる三角で尖った屋根と、曲線を持つ「唐破風(からはふ)」と呼ばれる豪華な屋根が正面・左右に据えられている
  • 「銅瓦葺き」と呼ばれる銅製の屋根瓦で葺かれている(当初は檜皮葺/ひわだぶき)
  • 未完成な柱がある(左手2番目の柱は『魔除けの逆さ柱』と呼ばれ、グリ紋の向きが逆さま)
  • 508体の彫刻で埋め尽くされている
  • 龍馬(りゅうば)の彫刻は陽明門でしか見ることができない
  • 人物の彫刻もこの陽明門と唐門のみしか存在しない
  • 陽明門には何故か唐獅子の彫刻が多い
  • 別名で「日暮し門」と呼称されている
  • 一辺・約10cmの金箔が15万枚(現24万枚)も使用されている

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日光東照宮・陽明門の彫刻について

この陽明門は508体の彫刻で埋め尽くされおり、そのうち人物の彫刻は156体あります。

これらの彫刻は、狩野探幽の作品に数多く登場することから、上述したように陽明門のデザインに関しての総指揮は、狩野探幽が単独で一任されていたと言えます。

ちなみにもっとも彫刻が多いのが御本殿になります。

御本殿の彫刻の数:2468体
御本殿のみ:1439体
御本殿前の拝殿のみ:940体
御本殿・石の間のみ:89体

御本殿の次に多いのが唐門(からもん)の611体になります。唐門の彫刻は特に細かく、角柱に刻まれた約7㎝×約9㎝ほどの唐花の彫刻が400ほどあります。

そして3つ目に多いのがこの陽明門です。人物と霊獣がメインに彫刻されている上、柱などの軸部には「地紋彫り」が施されていますが、なぜか地覆(じふく)だけに地文彫りがなく謎とされています。

えぇっ?!人物の彫刻は陽明門と唐門にしかない??

日光東照宮には、以下のような彫刻が存在します。

「霊獣、花鳥、植物、動物、地紋」そして「人物」。

これらの彫刻は境内の殿舎に、何らかの意味があって据えられていると考えられています。

特に人物の彫刻に関しては、この陽明門と唐門にしか存在せず、また、唐獅子の彫刻は陽明門に集中しています。

陽明門の彫刻から汲み取ることができる「家康公の真意」

上述したようにこの陽明門には人物彫刻が156体あります。これらの人物彫刻が据えられている理由は家康公の真意がここに表現されていると考えられています。

これは家康公が敬愛していた「中国の道徳を表す思想が表現されている」と云われています。

日光東照宮・陽明門の「中国の故事を表現した有名人物像 彫刻の場所」

⬆️タップ(クリックで拡大できます)

上層部・高欄の彫刻「子供の彫刻」

2015y09m11d_205848688陽明門の上層高欄には「唐子の知恵遊び」と呼ばれる彫刻が彫られており、竹馬、じゃんけん、鬼ごっこなど様々な子供の遊びがタイトルとなった彫刻陽明門の上層の高欄(こうらん=手すり)には「唐子の知恵遊び」と呼ばれる以下のような彫刻が彫られています。

遊び

「竹馬」「じゃんけん」「鬼ごっこ」「雪だるま作り」

意地悪

「喧嘩(けんか)」「イジメている子供とイジメられている子供」

道徳

「司馬の瓶割り」

 

これらの彫刻は様々な子供の遊びがタイトルとなった彫刻になります。また、これらの彫刻に中には、子供同士が喧嘩をしていていたり、イジメをしている彫刻もあります。

「司馬の瓶割り」とは、中国史上最高の政治家とも謳われる司馬公の子供時代のことを表現したものです。

司馬公は代々受け継がれてきた貴重な水瓶に落ちた友達を救うために、親に激ギレされるのを知りながらその水瓶を割りました。これは命の尊さを表現した彫刻です。

これらの子供の彫刻が表現しているところは「平和」を意味し、つまりは「子供たちが安心して遊べるような理想の社会を築き、子供たちに正しい教えを伝え、子々孫々維持していくように」との家康公のご遺訓と受け取ることができます。

出組(組物)の下「22人の聖賢を用いて中国においての道徳を表現した彫刻」

上述の子供の彫刻の少し下にある詰め組(つめぐみ/=組物)の間にも多数の人物の彫刻が存在します。(上記、写真参照)

これらの人物の彫刻は、かつて中国の歴史上に存在した22人の著名人と伝えられ、戦乱の多かった中国を安寧(平和)に導いた人物(聖賢)とされています。

陽明門12

日光東照宮 陽明門の22の彫刻の内訳

  • 正面7つ
  • 背面に7つ
  • 西側の側面4つ
  • 東側の側面に4つ

「正面」の7つの彫刻

正面・7つの彫刻のうちの4つは「琴棋書画(きんきしょが)」を理想的と示したものです。

「琴棋書画」とは?

中国では理想とされる君主をイメージするにあたって以下の4つの見識が、まず基本的に備わっている人物が理想とされたようです。

  • 「琴」
  • 「囲碁」
  • 「書(書道)」
  • 「絵画」

この琴棋書画は理想とされる人物の「知恵」や「文学の才」や「考え方」を示していると云われております。

琴棋書画 陽明門陽明門05

 

残りの3つは以下のような人物像になります。

周公聴訴

周公聴訴」とは「しゅうこうちょうそ」と読みます。古代中国を代表する優秀な政治家です。

この彫刻では古代中国の故事の1つを表現しています。周公旦が髪を洗いながら訴えを起こした人物の内容に耳を傾けたと云われる故事を表現しています。

  • 周公旦
  • 自らの考えを訴える「民」

これらの意味するところは、中国で理想的とされる人物(=確たる人格者)を、彫刻として示したものであるとされています。

⬆️周公

⬆️周公に訴える民

「背面」の7つの彫刻

背面(北側)にある彫刻はすべて中国に伝わる以下のような「仙人の彫刻」です。

  • 鯉にまたがっている琴高(きんこう)仙人

四睡図

  • 竜にまたがっている黄仁覧(おうじんらん
  • 鶴にまたがっている王子喬(おうしきょう)
  • 鳳凰(朱雀)にまたがっている梅福(ばいふく)仙人

 

なお、「竜」「鶴」「鳳凰(朱雀)」はいずれも日光東照宮を守る「霊獣」として崇められているものです。

そして、霊獣に乗った仙人たちを、ボ~っとしながら空を見上げ眺めている3人の人物の彫刻があります。

この3人の人物についての由来は謎とされています。

「西側」北から4つの彫刻

  • 三聖吸酸図(孔子、釈迦、老子)
  • 西王母と東方朔
  • 虎渓三笑図
  • 商山四皓(東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生)

三聖吸酸図

また背面の中央部分にも日光東照宮の霊獣と呼ばれている彫刻が彫られていて、上から順に以下のようになります。

  • 麒麟(きりん)
  • 龍馬
竜馬とは?

竜馬」とは「りゅうば」と読み、「竜」と似ていますが、単なる竜ではなく「蹄(ひずめ)」があることから「馬」でもある創造上の霊獣です。龍である証拠に「鱗」で身体が覆われています。

陽明門を縦に見て中央から上の方にあります。

なお、陽明門を縦に見て上部はすべて「龍」が彫られており、下部は「息」が彫られています。

陽明門08なお、龍馬はこの陽明門のみで見ることのできる彫刻です。

「息」とは?

息とは普段から身体が勝手に行っている・・あ、いやいやいや・・こホんっ!

ここでの「息」とは「そく」や「いき」と読みます。

息は陽明門を縦に見て、中央から下の部分の龍です。

よく見てみてください。顔だけが飛び出しています。

「息」も竜と似ていますが、単なる「竜」でなく『御宮並脇堂社結構書』という日光東照宮に関して記された書物に出てくる架空の動物(霊獣)のことです。陽明門10

「東面」北から4つの彫刻

  • 虎に乗っている鄭思遠
  • 四睡図(禅の境地の考え)と虎

豊干(ぶかん)とその弟子である「寒山(かんざん)」、「拾得(じっとく)」の3人が虎と一緒に眠っている様子を表現しています。虎を服従させて一緒に安心して眠れるほど飼いならす。ここには「禅(ぜん)の境地」が表現されています。

  • 福禄寿と寿老人と鹿(玄鹿)
  • 麒麟に乗る張良

陽明門000

門内部の天井にも注~目っ!!

陽明門の門内部の天井には狩野探幽作の「昇り龍」と「降龍」が描かれています。いずれも国宝指定を受けている天井絵です。

これらの龍は別名を持っており、昇り龍は別名で「八方睨みの龍」降龍は別名で「四方睨みの龍」と呼称されています。

⬆️昇龍画

⬆️降龍画

日光東照宮・陽明門の歴史と年表

徳川家康公は1616年(元和2年)にこの世を去りましたが、この世を去る前、自らの一周忌に自らを日光山に小さな堂を建てて祀るようにとの遺言を残しています。その直後、家康公は久能山(現・久能山東照宮)に埋葬されますが、翌年、この遺言に従って嫡男であり2代目将軍であった「秀忠公」が家康公の霊廟となる「日光東照社」を造営し翌年4月に竣工、すぐさま家康公の御遺体を久能山から日光へ移しています。

秀忠公が創建した日光東照社は現在の日光東照宮の6分の1程度の大きさだったようで、陽明門はごく普通の寺社に見られるような「楼門」だったと記録されています。

屋根も現在のような「銅葺き」ではなく「檜皮葺き」で葺かれ、さらに柱も現在みられるような「胡粉塗り(ごふんぬり)」で「グリ紋入りの逆さ柱」などではなく、ケヤキの素木をそのまま用いて「唐木色付け」を施しただけの質素な柱だったようです。

すなわち陽明門も現在のような極彩色が施された絢爛豪華な門などではなく、かつては極めて質素な楼門であったことがうかがえます。

この後、檜皮葺から→銅葺きへと葺き替えられたのは、1654年(承応3年)のことです。

やがて秀忠公もこの世を去りますが、あとを継いだ家光は家康公を心から敬愛し、懐に忍ばせた守り袋の中には「二世権現、二世将軍(3代目でありながら家康公の子・2代目であるの意。敬愛の度合いを示したもの。)」と書いた紙を折りたたんで入れていた逸話が残されているほどです。

家光公が家康公を心から敬愛した理由は、弟・忠長との将軍の座をかけての世継ぎ争いで、家康公が自らを選んでくれたことが大きく関与していると考えられます。

上述のように陽明門には家康公が好んだとされる中国の儒教の思想が取り入れられ、同様にこの陽明門も家康公を守護する門として、中国の禅宗様(唐様)で造営されています。その典型例が門に敷き詰められるようにして配された「詰め組」と呼ばれる「出組(組物)」です。

家光公は陽明門を造営するに際して金に糸目はつけなかったことから、日本全国から選りすぐりの大工たちがおよそ454万人も集められたと伝えられています。中でも江戸時代最大の絵師一族と謳われた、幕府御用絵師の狩野派の代表格「狩野探幽」が自らの一族全員を率いてデザインを一手に引き受けています。

その探幽と合力して大工を担当したのが、江戸城本丸の造営も手がけた江戸幕府作事方・大棟梁「甲良豊後守宗広(こうらむねひろ)」です。

陽明門は今日に至るまで「世に2つとない門」とまで云われますが、まさにそれはこのような日本全国から最高の腕を持つ名工たちの共演によって造営されたからに他なりません。

1616年(元和2年)

徳川家康公がこの世を去る。久能山に埋葬される。

1617年(元和3年)

南光坊天海総指揮のもと、日光東照宮の造営が開始される。なお、創建当初は”東照宮”ではなく”東照社”だった。(日光東照社)

1623年(元和9年)

第2代目将軍「徳川秀忠」公の次男(嫡男)徳川家光が第3代目将軍に就任する。

1632年(寛永9年)

秀忠公がこの世を去る。

1636年(寛永13年)

家康公21回目の御神忌を記念して日光東照宮の大改修工事が開始される。のちに「寛永の大造替」と呼ばれたこの大改修によって現在見ることができるような絢爛豪華な世に2つとない門が誕生する。

1645年(寛永21年)

東照社、宮号を宣下される。この宣下によって初めて「日光東照宮」となる。

1651年(慶安4年)

家光公、この世を去る。

1653年(承応2年)

家光公の霊廟となる日光山・輪王寺「大猷院(たいゆういん)」の造営が開始される。

1654年〜1657年(承応年間)

檜皮葺き→銅葺きへ屋根の葺き替え。

1749年(寛延2年)〜1753年(宝暦3年)

側面大羽目の絵「唐油彩色の牡丹唐草」→東側「唐油彩色の錦花鳥」/西側「巣籠鶴(作者:狩野祐清」へ変更される。

1812年(文化9年)〜1814年(文化11年)

東照宮別当寺「大楽院」からの出火により銅庫が炎上す。銅庫内に収められていた陽明門の勅額も焼失。この勅額は1814年に新造される。

1871年(明治4年)

神仏分離令により「権現」の使用が禁止される。このため創建当初の陽明門から飾られていた「東照権現」の勅額が下され、現在の上神庫へ移される。

1881年(明治14年)

当時の東照社宮司の松平氏が新たに明治天皇の勅額を賜りたい旨の願いを宮内省へ上申す。結果、明治天皇から「従来の勅額を掲げられよ」との命を受け、上神庫から陽明門に戻される。

1908年(明治41年)

1908年(明治41年)8月1日、陽明門含む建造物26棟が、特別保護建造物(現在の重要文化財)の指定を受ける。

1912年(明治45年)〜1916年(大正5年)

陽明門の全面的な大改修が実施される。

1917年(大正7年)

日光社寺共同事務所が制作した狛犬像が陽明門両脇に安置される。以前の狛犬像は幣殿に移される。

1944年(昭和19年)

1929年(昭和4年)に国宝保存法が制定されたことにより、新たに陽明門を含めた東照宮全般の建物が国宝指定を受ける。

1951年(昭和26年)

1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定されたことにより、新たに国宝基準が変更される。翌年、その国宝基準を満たすことから以下の建造物が国宝指定を新たに受け現在に至る。

  • 御本社(本殿・石の間・拝殿)・正面唐門・背面唐門・東西透塀・東西回廊)

※以上、8棟。

1974年(昭和49年)

1974年(昭和49年)の改修工事の時に「牡丹図」の下から「鶴錦花鳥図」という絵図が発見され、歴史的な快挙が報告される。

1977年(昭和52年)

1977年(昭和52年)6月27日、附属として旧天井板2枚が追加指定される。(現在は【国宝】指定)

 

2013年(平成25年)7月

2013年(平成25年)7月から修復工事「平成の大修理」行われていましたが、2017年(平成29年)3月

2017年(平成29年)3月

平成の大修理により家光公による再建当初を彷彿させる絢爛豪華な陽明門に戻る。

えぇっ?!陽明門は龍穴に造られていた??

この日光東照宮は、南光坊天海の総指揮のもとに造営されていますが、天海が徳川幕府の陰陽師としての側面も持ち併せていたことはあまり知られていません。

天海は東照宮の造営にさしあたり、「龍脈の力」がもっとも強い場所を選んで造営の設計をしています。

なお、ここで言う「龍脈」とは「山間」や「地脈」のことを指し、すなわち後世で言うところの「風水」の意味合いがあります。

そして、陽明門が建っている場所は、龍脈からの「気」がもっとも多く集まる「龍穴」と言われており、つまりは龍穴の真上に陽明門が建っていることになります。


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日光東照宮・陽明門の「逆さ柱」とは?

また、門には12本の柱(正面4本、背面4本、中央4本)があり、胡粉(ごふん=白い顔料)が塗られた「グリ紋」と呼ばれる渦巻状の地紋と鳥獣、草花が彫られている白い柱で支えています。

背面にある左手2番目の柱は『魔除けの逆さ柱』と呼ばれ、グリ紋の向きが逆さま (2) 背面にある左手2番目の柱は『魔除けの逆さ柱』と呼ばれ、グリ紋の向きが逆さま (3)この中の背面にある左手2番目の柱は『魔除けの逆さ柱』と呼ばれ、グリ紋の向きが逆さまになっています。

これには以下のような言い伝えがあります。

「完成された建物はいずれかは崩壊する。逆に未完成であれば永遠に崩壊することはない」

つまり、わざと未完成と言う形にして、一種の「魔除けの役割り」を演出していると言ったことになります。

実は、江戸時代の大工たちにまつわる由来で、こんな話があります。

江戸時代の大工たちは家を建てて完成したら、必ず最後に屋根瓦を3枚だけ取って持ち帰るそうです。

こうしておくことで、不完全さが生まれ、つまりは「永遠に倒壊することはない」と言った、一種の「魔除け」や「願掛け」になるそうです。

尚、陽明門の逆さ柱が有名になりすぎて、あまり知られていませんが、このような逆柱は、ぬっぁんとぉぅ!境内にあと2本も存在し、御本殿と拝殿にそれぞれ1本ずつの合計で3本あります。

ご興味のある方は是非!御本殿と拝殿へも参拝してみてください。

陽明門の随身像と狛犬

神社に行くと、社殿の中に随身像を左右で2体見かけることがあります。日光東照宮にも随身像が安置されており、この陽明門で見ることができます。

随身とは、平安時代の武装した格好の人形になります。

通常は「左大臣」と「右大臣」と呼称されます。

陽明門の随身像・右大臣⬆️右大臣の随身像の画像(写真)

陽明門の随身像・左大臣⬆️左大臣の随身像の画像(..動きそう。リアルすぎ)

随身像は、お寺の仁王像と同じ役割りを持っており、神に仕えて神を守護する者と言うことになります。

ほとんど例外がない限りは、「左大臣の方が年若い武者」、「右大臣の方がオっちゃん」になり、右大臣の方が位が高くなります。これは古来、左(向かって右側)が上座だったことから位を示すものでもあります。

雛人形もこれに倣い男雛が向かって右、女雛が向かってに配されています。 東照宮に関しても同様に右大臣がオっちゃん、左大臣が若武者です。

若武者の随身像は、何だか少し痩せコケた顔をしており、疲れた表情をしています。きっと、右のオっちゃんにコキ使われているのでしょう。

ただ、東照宮は家康公の陵墓と言うこともあって、随身像1つをとっても意味合いがあると思われます。

一説では、2つの随身像には、明智光秀の「明智家の家紋(桔梗紋/ききょうもん)」が施されていると言われており、明智光秀を模した像なのでは?・・などとも考えられています。

陽明門の随身像に関しては謎が多く、まだまだ解明されていない部分が数多く残っています。

陽明門の裏側には狛犬像!

  • 造立年:(大正7年)
  • 発願者:日光社寺共同事務所

表側ばかりが注目される陽明門ですが、随身像の裏側には家康公の霊廟を守護するために毎度おなじみの狛犬が置かれています。

しかしさすが!東照宮の狛犬もさすがに豪華で高級感ただよう狛犬像です。「阿形(あぎょう)」と「吽形(うんぎょう)」の像容を持つ狛犬が2体、対で門の左右両端に置かれており、身体全体が金色、尻尾や首回りの毛が向かい見て左(吽形)が青色、右(阿形)が緑色をしています。

この狛犬像は日光社寺共同事務所が発願したもので大宝神社(滋賀県栗東市)の狛犬像を模して造立されています。

陽明門・東西回廊【国宝】

陽明門・東西回廊【国宝】

創建年

  • 1636年(寛永12年)
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 総・漆塗り
その他・付属

  • 燭台(オランダ製):12基
  • 蟇股(かえるまた):30個
屋根の造り

  • 銅瓦葺
延長(長さ)

  • 54間:約224m
重要文化財指定年月日

  • 1908年(明治41)8月1日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日

陽明門の左右には、比翼型に広がる回廊があります。

この回廊は「コの字型」に御本殿を取り囲む形で造営されています。

この回廊は、彫刻で埋め尽くされており、胴羽目板に「花鳥」「動物」が彫られ、腰羽目板には「水鳥」、「打ち寄せる波」、欄間(らんま)には「空に浮かぶ雲」が「1枚板の透かし彫りの技法」を用いて彫られています。

大きさマチマチですが、最大で横幅:約2m、縦幅:約1mもの透かし彫りが1枚の板に彫られています。

これらはよく見ると「天と地と水」を表現したものが彫られているのが分かります

透かし彫りの技法とは、並みの職人技程度では、できる芸当ではなく、一枚の板をくり抜いて絵図面をもとに形をくり抜いていく彫り方です。

つまり、絶対に間違うことができない究極の職人技とも言えます。

これらの下絵(デザイン)は「狩野探幽」が担当し、彫ったのは別の者であると云われております。(左甚五郎やその他大勢の大工とも)

総朱漆塗りの東回廊は「御本殿の石の間」に連接しており、距離にして約20mほどあります。

神職の方々はこの廊下を通って本殿の御神前へお供え物を供進することから「御供廊下」とも呼ばれています。

尚、この東西回廊も陽明門同様に門を構成する一部として、1951年(昭和26年)6月9日に国宝指定を受けています。

陽明門の模型

陽明門は世界的にも有名なこともあり、なんと!陽明門を忠実に再現した模型までもが販売されています。

おそらく日光東照宮に参拝される方であれば、陽明門にご興味のある方がほとんどだと思われますので、間近で手元においておきたい方であれば是非、参照してみてください。

「西の日光・西の陽明門」

上記、模型のほか、なんと!この陽明門の実物大の模型が存在すると聞けば驚かれますでしょうか?

瀬戸内海・生口島(いくちじま/広島県尾道市)には「耕三寺(こうさんじ)」という大阪の実業家「耕三寺耕三(こうさんじ こうぞう)」が母親の菩提を弔うために建てた寺院がありますが、なんとぉぅ!境内にはこの陽明門をモチーフとして建てられた「孝養門(こうようもん)」なる門があります。

写真を見れば分かりますが、この陽明門にソックリです。近年ではこの話を知った人々が訪れるようになり、「西の日光」「西の陽明門」と呼ばれるようにまでなっています。

⬆️耕三寺・「孝養門」

ちなみにこの耕三寺の本堂は「平等院鳳凰堂」がモチーフとなっています。

⬆️耕三寺・「本堂」

ご興味があれば一度、訪れてみてください。

終わりに・・

このように日光東照宮の建物や彫刻には、深い意味や由来を持ったものが多数存在し、参拝に訪れた観光客を飽きさせることがありません。

これらの日光東照宮内の数々の建造物は、まさに意匠作品とも呼べます。

これぞ日光東照宮、独自の文化であり、なかなか味わうことのできない魅力の1つとも言えます。ウフ

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