日光山輪王寺「慈眼堂(拝殿&廟塔)」【重要文化財】

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日光輪王寺「慈眼堂(拝殿&宝塔)」【重要文化財】

創建年:1649年(江戸前期)

大きさ:桁行五間、梁間三間、一重、向拝一間、

屋根の造り:銅瓦葺、入母屋像、前後千鳥破風付、唐破風像

重文指定年月日:1944年9月5日

「慈眼堂」の読み方

「慈眼堂(じげんどう)」

「慈眼堂」の名前の由来

日光山中興の祖として知られる、慈眼大師(じげんだいし/南光坊天海)大僧正の御霊を奉斎する廟所(墓所)であることから、「慈眼堂」の名前が付されています。

「慈眼堂」の歴史

天海僧正は1643年(寛永20年)10月2日に上野の東叡山(とうえいざん)にて逝去し、その5年後となる1648年に朝廷より「慈眼大師」の謚号を追贈されています。

そして、1649年に当人の遺言によって日光山内の大猷院の隣地となる大黒山(現在地)の五輪塔の地中に埋葬されています。

この慈眼堂は慈眼大師(じげんだいし)の御霊を奉安する宝塔の前に建つ、拝殿となる建物ですが、厳密には五輪王を含めた境内すべてが慈眼堂です。

天海僧正の御霊屋はこの慈眼堂の奥に建つ宝塔(廟塔)なりまする。




慈眼堂拝殿の行事(法要)

長講会(じょうごえ)

この慈眼堂拝殿では、毎年10月2日に慈眼大師(天海僧正)の命日法要が執り行われまする。

当日は一山の僧侶が総出仕する形で慈眼堂拝殿に参集し、盛大に法要が厳修されまする。

天海僧正は生前、経典について論じる問答を好んだことから、「法華八講」という論議がおこなわれ天海僧正の偉大な遺徳をしのびまする。

往時はこの論議が長く続くことが多々あり、それゆえ「長講会」とまで呼ばれるようになっていまする。

御斎食(おさいじき)

長講会の最中は天海僧正の好物だった「納豆汁」が「御斎食(おさいじき)」としてお供えされまする。

天海僧正は108歳という長寿を保たれたことから、御斎食をお供えすることにより、霊験新たなかな長寿の利益をいただこうということです。

い‥‥‥申す。ガハっ

天海大僧正とはどんな人物?

天海大僧正は初代将軍家康公の懐刀として黒衣の宰相として恐れられる一方で、1613年(慶長18年)に満願寺(往時の輪王寺の寺号)の第53世貫主(かんす/代表)となり、天台宗の頂点にもたっています。

1654年(承応/じょうおう3年)には、現在の輪王寺本堂(三仏堂)が建つの場所に光明院を移築し、当院を日光山の総本坊とし、復興に導いていまする。

慈眼堂の境内建造物など一覧

  • 拝殿
  • 墓所(廟舎)
  • 天海蔵(てんかいぞう)※文庫
  • 阿弥陀堂
  • 鐘楼

これらの建造物すべての総称が「慈眼堂」になりまする。

拝殿

慈眼堂というとこの拝殿を思い浮かべる方が多いのも事実。

拝殿は東照宮の奥社拝殿のように前後に扉が据え付けられており、霊廟を見ながら礼拝することができまする。

輪王寺の堂舎に見られる朱色を基調とし、飾り金具などの装飾は黒漆塗りがほどこされ、東照宮や大猷院と比較すれば彩色は控えめにされています。




五輪塔(廟塔)

天海大僧正の御霊が奉斎される場所です。墓石となる巨大石を積み上げた「五輪塔」が立ち、塔の下(地中)に天海大僧正の遺灰が埋葬されています。

そして、塔の周りを等身大の六部天像が配されており、天海大僧正を守護していまする。

日光山輪王寺とは?

日光山輪王寺は本堂となる三仏堂、大猷院、慈眼堂などのお堂を中心とし、15の支院で構成されており、それらすべての堂舎を含めて「輪王寺」と呼称します。

往時は「満願寺」という名前の寺院でしたが、皇族である輪王宮が入山し、座主(住職)に就任するようになると、「輪王寺」の寺号を朝廷から下賜され、以後、輪王寺と改称してい‥‥‥申す。ゲハっ

日光輪王寺「慈眼堂・拝殿」の場所(地図)

二荒山神社西側には大猷院霊廟の建築群がある。その南側には常行堂と法華堂、そこから長い石段を上った先には中興の祖・天海を祀る慈眼堂がある。

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