【幻の伝説の寺社】日光山「四本龍寺」の場所や歴史・奇譚が招いた名前の由来を‥‥知りたぉ?

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【幻の伝説の寺社】日光山「四本龍寺」

創建年

  • 766年(天平神護2年/奈良時代)※四本龍寺の創建年(当初は紫雲立寺という名前)
  • 767年(神護景雲元年/奈良時代)※現在の日光二荒山神社の創建
本尊

  • 千手観音菩薩
脇尊

  • 不動明王
  • 五大尊
  • 勝道上人
  • 金剛童子
開創者

  • 勝道上人

日光山・四本龍寺の歴史

東照宮へ参拝に訪れて「日光山・四本龍寺」と聞き、輪王寺や二荒山神社・東照宮の境内を探しまわる方もいるようですが、四本龍寺は、かつてこの日光に存在したとされる「幻の寺院」となります。

四本龍寺の創建はなんと!奈良時代!!

四本龍寺は日光開山の祖と言われる勝道上人により、766年(天平神護2年/奈良時代)に当初、「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」という寺号(名前)で創建されたと伝えられています。

寺号が「四本龍寺」へと改称された詳しい年代は不詳とされていますが、創建から近い年代とみられています。

以来、奈良時代より平安時代にかけてこの四本龍寺は日光の中心的な要地として機能していたようです。




日光山・四本龍寺の名前の由来

766年(天平神護2年/奈良時代)のある朝、勝道上人は自らの草庵(住居)近くの礼拝石に座り、いつものように二荒山大神(霊峰・男体山)を礼拝していたとき、突如、紫の雲が立ち昇って大空に消え失せ、東北の空に吸い込まれたようです。

摩訶不思議な現象をまのあたりにした勝道上人は、雲が吸い込まれた東北へ向かいます。

すると、目の前に紫雲石を見つけ、石から「四本の紫色の煙」が立ち上ったそうな。

やがてその4本の煙が「龍の形」になって「二荒山(男体山)」の方へたなびくという「瑞祥(ずいしょう/良い事が起こる兆しの事)」を見ます。

これらの不思議な現象に霊験を見出した勝道は、この地が天を司る「青龍・朱雀・白虎・玄武」の「四つの宿星が守護する霊地」と悟り、紫の雲が立つ寺として「紫雲立寺」を創建します。

この後、星霜経ながら「紫雲立寺」は「四本龍寺(しほんりゅうじ)」へ改称しています。

紫雲立寺の場所はドコ?

おおむね文献にも東北や東の方角へ向かった‥‥と記されているのですが、厳密にいうと、現在の本堂(三仏堂)がある場所から約1km以上離れた、稲荷川(大谷川支流)付近、もしくは滝尾神社のあたりだったと推定されていまする。

「四本龍寺」の名前の由来とは?

「四本龍寺」の名前の由来についても詳しく書き記した資料が見当たらないのですが、「本の紫煙が龍の形になって二荒山(男体山)の方へたなびいた」、

そしてそれら4本の紫煙が示したのが神(青龍・朱雀・白虎・玄武)」だった‥‥など故事にまつわり、数字の「4(四)」もしくは、「龍の形」という言葉を由来とし、後世で「四本の紫煙が龍の形にたなびいた縁により創建された寺」として「四本龍寺」と命名されたものだと推察します。

四本龍寺の歴史(年表)

奈良時代

年号出来事
735年(天平7年)4月21日勝道、下野国芳賀郡に生を得る。(俗姓は若田)オぎゃ〜オぎゃ〜
762年(天平宝字6年)勝道、下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受ける。(僧侶になる)
765年(天平神護元年)僧侶の勝道、出流山満願寺(栃木市)を開創す。
766年(天平神護2年)僧侶の勝道、大谷川の川岸に小さな草庵を結ぶ(草葺きの小屋を建てる)。
勝道が毎朝、礼拝石に座って、霊峰・男体山の神を拝んでいると、突如、紫の雲が立ち昇って大空に消え失せ東北の空に吸い込まれる。東北の地へ向かった勝道は紫雲石を見つけ、霊験を見出した勝道はこの場所に紫の雲が立つ寺として「紫雲立寺」を創建する。紫雲立寺は後に四本龍寺へと改称する。
767年(神護景雲元年)4月上旬僧侶の勝道、男体山(2,486メートル)へ最初の登頂を試みるが失敗に終わる。
767年(神護景雲元年)勝道はこの頃、大谷川の北岸(現在地)に二荒山大神(御神体は男体山そのもの)を奉斎するために祠を築く。この祠こそが本宮神社(日光二荒山神社の別宮)の起源となりうるもの。
781年(天応元年)4月上旬僧侶の勝道、再び男体山への登頂を試みるが失敗に終わる。
782年(延暦元年)3月僧侶の勝道、3度目の正直で登頂を試みる。そしてついに男体山登頂が成功す。その後、山頂にて37日間、男体山の神霊を礼拝す。このとき男体山山頂に奥宮を創建す。
男体山山頂に滞在した勝道は、この男体山を「補陀洛山(ふだらくさん/観音菩薩の降臨するとされる伝説の山)」に例えて「二荒山(ふたらさん)」と名付けている。
「二荒」を音読みすると「ニコウ=日光」とも呼ぶことから星霜経ながら訛りが生じ、これがやがて「日光」の地名の起こりにつながったという。
784年(延暦3年)僧侶の勝道、中禅寺湖の湖畔に「神宮寺(現在の中禅寺/輪王寺別院)」を創建し、千手観音を奉安す。
なお、この神宮寺は冬季の男体山遥拝所として建てられたという説がある。




平安時代

年号出来事
795年(延暦14年)勝道上人、以降に上野国講師に任命され、「上人」の称号を授与される。以後は上野国分寺に滞在す。
807年(大同2年)勝道上人、下野国司・橘利遠(たちばなのとしとお)より懇願により、にて祈雨を執り行う。その功あって「伝灯法師位」の僧位が授与される。
これ以後、干ばつが起こった際は日光山にて祈雨が執り行われるようになる。
また、祈雨成功の謝礼として橘利遠が四本龍寺に観音堂を寄進する(建立する)。
808年(大同3年)下野国司の橘利遠が朝命により本宮神社の社殿を創建す。山菅の橋(現在の神橋)を架橋する。
810年(弘仁元年)勝道上人が開創した創建した神宮寺ならびに四本龍寺に「満願寺」号を賜る。以後、寺号を「満願寺」へ改称す。満願寺は現在の輪王寺の前身寺院。
814年弘法大師空海が「二荒山碑文(勝道上人伝記)」を著する。
816年(弘仁7年)4月勝道上人、日光山に三社大権現(本社(新宮)・本宮神社・滝尾神社)を勧請(かんじょう/まねく)する。
前述の四本龍寺を含め、これら勝道が創建した社寺群が日光山繁栄の礎となる。これ以後、日光は神仏信仰の聖地として繁栄をきわめていく。
817年(弘仁8年)勝道上人四本龍寺の北にある岩窟にて83歳で死去。
848年(嘉祥元年)慈覚大師「円仁」が来山す。三仏堂(現在の輪王寺本堂)を創建したと伝わる。
1177年(治承元年)座主職争いで5年の間山内争乱、四本龍寺など焼ける。
1241年(仁治2年)源実朝(みなもとのさねとも)の菩提を弔うために日光山二十四世座主・弁覚法印が四本龍寺に三重塔を建立する。
1684年(貞享元年)観音堂が類焼により焼失す。
1874年(明治7年)再建された観音堂に金剛童子を祀る。以後は金剛堂とも呼ばれる。扁額も「金剛山」に置き換えられる。
1999年(平成11年)「日光の社寺」として世界文化遺産に登録される。

日光山・輪王寺「四本龍寺」の見どころ

上述のように四本龍寺は現在すでになく、名前と2棟の堂塔だけが辛うじて残っている状況があり、現在は日光山・輪王寺の一部としてヒッソリそりそりヒゲそり深ゾリ‥‥‥なほどヒッソリと佇んでいます。

四本龍寺境内には国の重要文化財に指定されている「三重塔」と栃木県指定文化財の「観音堂(かんのんどう)」が建っており、これが見どころとなっています。

ただ、姿形はないとはいえ、世界遺産「日光の社寺」の一翼を担う堂塔として、神橋の近くにヒッソリそりそりヒゲ‥‥‥もぅエエわぃ!

‥こホンっ!え〜っ、往時の姿を偲ばせてい‥‥‥申す。ガハっ

日光山・四本龍寺「観音堂」【県指定文化財】

日光山・四本龍寺「観音堂」【県指定文化財】

創建年

  • 800年頃
再建年

  • 1685年(江戸中期)
建築造り

  • 寄棟造り(よせむねづくり/屋根が四方へ垂れ下がり雨水が四隅へ流れ落ちる造り)
  • 一重
屋根の造り

  • 銅瓦葺き
大きさ

  • 桁行三間(奥行):約8m
  • 梁間三間(横幅):約8m
御本尊

  • 千手観音像
重要文化財指定年月日

  • 1973年(昭和48年)6月2日
発願者

  • 橘利遠

「四本龍寺・観音堂」の由来・歴史

「観音堂」の創建は9世紀初め(800年頃/平安時代初期)と言われ、「下野国司・橘利遠(たちばなのとしとお)/現代の例えで栃木県知事)」が寄進しました。

810年(弘仁元年)になると、時の天皇「嵯峨天皇(さがてんのう)」より、「満願寺(まんがんじ)」の寺号を賜ることになりまする。

輪王寺の観音堂は、現在でも「下野三十三観音巡り・第3番札所」として変わらず尊崇が寄せられています。

「観音堂」は、日光山内で唯一の白木(素木)造りの建造物となっています。

江戸時代初頭に焼失していますが、1685年(貞享2年)に再建されています。

上述のとおり、四本龍寺の御本尊は「千手観音」であり、この御本尊は観音堂に安置されています。

観音堂には御本尊の他、脇侍として「不動明王」「五大尊」及び「勝道上人」をお祀りしています。

※五大尊(=五大明王)/中央に「不動明王」/東に「降三世明王」/南に「軍荼利明王」/西に「大威徳明王」/北に「金剛夜叉明王」

尚、1874年(明治7年)に「金剛童子」をおまつりした経緯から、別名で「金剛堂(こんごうどう)」とも呼称されています。

これについては堂舎を正面から見れば分かりますが、「金剛山」と書かれた扁額が飾られています。




日光山・四本龍寺「三重塔」【重要文化財】

創建年

  • 1241年(仁治2年)年
再建年

  • 1690年(江戸中期)
  • 1713年(江戸中期)
建築様式

  • 三手組・二重垂木造り
屋根造り

  • 栩葺(とちぶき)
大きさ

  • 高さ:18m
  • 桁行(奥行):約6m
  • 梁間(横幅):約6m
重要文化財指定年月日

  • 1973年6月2日

「四本龍寺・三重塔」の由来・歴史

四本龍寺「三重塔」は、もともと は1241年(仁治2年)に、現在の東照宮の境内に源実朝の菩提を弔うために建立されたものです。

室町時代に焼失していますが、「1634年~1636年/寛永11年~13年」に行われた「日光大造営」 の際に現在地に移築されています。

その後「貞享の延焼(1684年)」で再び焼失、元の原型を復原する形で1690年(元禄3年)に再建されています。

星霜経て、1713年(正徳3年)にも再建されていますが、現在見られる塔はこのときの再建による姿でゴンす。

2003年から2007年にはの大修理が行われており、創建当時の鮮やかな朱色に生まれ変わり、屋根も当時の「栩葺(とちぶき)」に葺き替えられています。

三重塔の詳細については下記ページにて詳しく述べてい‥‥‥申す。ガギャっ

日光二荒山神社・別宮「本宮神社(旧・二荒山神社 本宮)」

四本龍寺のすぐ下、距離にして200メートルほど下には、日光二荒山神社の別宮(べつぐう/わけのみや)があります。

勝道上人は男体山に宿る神霊である「二荒山大神」を祀るために、自らの草庵ちかくに祠(ほこら)を建立しており、これが今日に見る日光二荒山神社の起源と云われまする。

この祠こそが「本宮神社」であり、すなわち往時の日光二荒山神社の本宮になります。(それゆえ、現在地に建つ本社は新宮とも呼ばれる)

一見するとこの様相はまるで1つの境内に神社と寺院が並立しているかのように見られ、勝道上人が創建した頃の神仏習合時代の名残りが垣間見えます。

以下では併せて日光二荒山神社の別宮をご紹介しておきましょう。

「本宮神社(旧・二荒山神社 本宮)」

建築様式

  • 入母屋造
  • 三間社流造
屋根の造り

  • 銅瓦葺
塗装

  • ベンガラ塗(前方向拝のみ極彩色)
大きさ

  • 拝殿:約6メートル
  • 本殿:約6メートル

この本宮神社はかつては祠でしたが、現在は日光二荒山神社を構成する1社として存在しています。

人目に付かない場所でヒッソリと佇んでいるにも関わらず、本殿の他、立派な拝殿が手前に備わり、日光二荒山神社の起源という位置付けの神社としての風格を漂わせます。

現在の日光二荒山神社は本宮神社の西方約1キロの場所に建っていますが、これは洪水により氾濫が多かった大谷川からの災害避けのために現在の場所へ移築されています。

特徴的なのが本殿の後方に何故か「観音開きの扉」が設けられていますが、これは男体山(なんたいさん)を遥拝(ようはい)するために設けられたものであり、かつて霊峰を崇拝していた名残りが濃く感じ取れる部分です。

東照宮や大猷院に見られる絢爛豪華な華やかさからはかけ離れたものがありますが、東照宮へ参拝された際は是非!四本龍寺および旧・日光二荒山神社 本宮へも立ち寄ってみてください

四本龍寺の場所(地図)

四本龍寺は栃木県日光市にあり、二荒山神社本宮の北側「日光幼稚園」近くに位置しています。※↓地図参照

⬆輪王寺・四本龍寺の場所と地図
営業時間(開門・閉門時間)

8:00〜17:00(4月から10月)
8:00〜16:00(11月から3月)
※入場(拝観)は30分前まで
URL: http://www.rinnoji.or.jp/keidai/sihonryuji/sihonryuji.html

日光駅(JR・東武)から四本龍寺へのアクセス(行き方)

JR日光駅・東武日光駅から東武バス「中禅寺温泉・湯元温泉行き」か「世界遺産バス」へ乗車
↓(バス所要時間:約5分/バス運賃:200円)
「神橋バス停」下車

二荒山神社本宮・北側を目指す/徒歩5分

四本龍寺

もしくは、世界遺産バスへ乗車して「勝道上人像前バス停」で下車スグ。

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