四本龍寺「観音堂」【世界文化遺産】

スポンサードリンク

四本龍寺「観音堂」【世界文化遺産】

創建年

  • 807年(大同2年)
再建年

  • 1685年(江戸中期)
建築造り

  • 寄棟造り(よせむねづくり/屋根が四方へ垂れ下がり雨水が四隅へ流れ落ちる造り)
  • 一重
屋根の造り

  • 銅瓦葺き
大きさ

  • 桁行三間(奥行):約8m
  • 梁間三間(横幅):約8m
御本尊

  • 千手観音像
重要文化財指定年月日

  • 1973年(昭和48年)6月2日
発願者

  • 橘利遠

「四本龍寺・観音堂」の由来・歴史

「観音堂」の創建は9世紀初め(807年/平安時代初期)と言われ、「下野国司・橘利遠(たちばなのとしとお)」が寄進しました。

下野国司とは、現代の例えで栃木県知事に相当する役職です。

橘利遠が寄進した理由は、橘利遠の求めに応じ、勝道上人が男体山にて祈雨を行い、これを成功させた謝礼として勝道上人が建てた紫雲立寺(四本龍寺)へ寄進したものです。

810年(弘仁元年)になると、時の天皇「嵯峨天皇(さがてんのう)」より、「満願寺(まんがんじ)」の寺号を賜ることになりまする。

江戸時代末期になると、「下野三十三観音巡り」が創設されることになり、その折、この観音堂は「下野三十三観音巡り・第3番札所」に登録されることになりまする。現在も変わらず篤い尊崇が寄せられています。

現在の観音堂は貞享元年(1684年)の大火で焼失後、1685年(貞享2年)に再建されたときのものです。

観音堂内にて奉斎される仏像

四本龍寺の御本尊は「千手観音」であり、この御本尊は観音堂に安置されています。

観音堂には御本尊の他、脇侍として「不動明王」「五大尊」及び「勝道上人」をお祀りしています。

※五大尊(=五大明王)/中央に「不動明王」/東に「降三世明王」/南に「軍荼利明王」/西に「大威徳明王」/北に「金剛夜叉明王」




見どころ

日光山内で唯一の白木造りの建造物

「観音堂」は、日光山内で唯一の彩色を用いない、質素な白木(素木)造りの建造物となっています。

別名で「金剛堂」と呼ばれる

1874年(明治7年)に「金剛童子」をおまつりした経緯から、別名で「金剛堂(こんごうどう)」とも呼称されています。

これについては堂舎を正面から見れば分かりますが、「金剛山」と書かれた扁額が飾られています。

四本龍寺の歴史(年表)

奈良時代

年号出来事
735年(天平7年)4月21日勝道、下野国芳賀郡に生を得る。(俗姓は若田)オぎゃ〜オぎゃ〜
762年(天平宝字6年)勝道、下野薬師寺の如意僧都に師事して沙弥戒・具足戒を受ける。(僧侶になる)
765年(天平神護元年)僧侶の勝道、出流山満願寺(栃木市)を開創す。
766年(天平神護2年)僧侶の勝道、大谷川の川岸に小さな草庵を結ぶ(草葺きの小屋を建てる)。
勝道が毎朝、礼拝石に座って、霊峰・男体山の神を拝んでいると、突如、紫の雲が立ち昇って大空に消え失せ東北の空に吸い込まれる。
東北の地へ向かった勝道は紫雲石を見つけ、霊験を見出した勝道はこの場所に紫の雲が立つ寺として「紫雲立寺」を創建する。
紫雲立寺は後に四本龍寺へと改称する。
767年(神護景雲元年)4月上旬僧侶の勝道、男体山(2,486メートル)へ最初の登頂を試みるが失敗に終わる。
767年(神護景雲元年)勝道はこの頃、大谷川の北岸(現在地)に二荒山大神(御神体は男体山そのもの)を奉斎するために祠を築く。
この祠こそが本宮神社(日光二荒山神社の別宮)の起源となりうるもの。
781年(天応元年)4月上旬僧侶の勝道、再び男体山への登頂を試みるが失敗に終わる。
782年(延暦元年)3月僧侶の勝道、3度目の正直で登頂を試みる。そしてついに男体山登頂が成功す。
その後、山頂にて37日間、男体山の神霊を礼拝す。このとき男体山山頂に奥宮を創建す。
男体山山頂に滞在した勝道は、この男体山を「補陀洛山(ふだらくさん/観音菩薩の降臨するとされる伝説の山)」に例えて「二荒山(ふたらさん)」と名付けている。
「二荒」を音読みすると「ニコウ=日光」とも呼ぶことから星霜経ながら訛りが生じ、これがやがて「日光」の地名の起こりにつながったという。
784年(延暦3年)僧侶の勝道、中禅寺湖の湖畔に「神宮寺(現在の中禅寺/輪王寺別院)」を創建し、千手観音を奉安す。
なお、この神宮寺は冬季の男体山遥拝所として建てられたという説がある。




平安時代

年号出来事
795年(延暦14年)勝道上人、以降に上野国講師に任命され、「上人」の称号を授与される。
以後は上野国分寺に滞在す。
807年(大同2年)勝道上人、下野国司・橘利遠(たちばなのとしとお)より懇願により、にて祈雨を執り行う。その功あって「伝灯法師位」の僧位が授与される。
これ以後、干ばつが起こった際は日光山にて祈雨が執り行われるようになる。
また、祈雨成功の謝礼として橘利遠が四本龍寺に観音堂を寄進する(建立する)。
808年(大同3年)下野国司の橘利遠が朝命により本宮神社の社殿を創建す。
山菅の橋(現在の神橋)を架橋する。
810年(弘仁元年)勝道上人が開創した創建した神宮寺ならびに四本龍寺に「満願寺」号を賜る。
以後、寺号を「満願寺」へ改称す。満願寺は現在の輪王寺の前身寺院。
814年弘法大師空海が「二荒山碑文(勝道上人伝記)」を著する。
816年(弘仁7年)4月勝道上人、日光山に三社大権現(本社(新宮)・本宮神社・滝尾神社)を勧請(かんじょう/まねく)する。
前述の四本龍寺を含め、これら勝道が創建した社寺群が日光山繁栄の礎となる。
これ以後、日光は神仏信仰の聖地として繁栄をきわめていく。
817年(弘仁8年)勝道上人四本龍寺の北にある岩窟にて83歳で死去。
848年(嘉祥元年)慈覚大師「円仁」が来山す。三仏堂(現在の輪王寺本堂)を創建したと伝わる。
1177年(治承元年)座主職争いで5年の間山内争乱、四本龍寺など焼ける。
1241年(仁治2年)源実朝(みなもとのさねとも)の菩提を弔うために日光山二十四世座主・弁覚法印が四本龍寺に三重塔を建立する。
1684年(貞享元年)観音堂が類焼により焼失す。
1874年(明治7年)再建された観音堂に金剛童子を祀る。以後は金剛堂とも呼ばれる。
扁額も「金剛山」に置き換えられる。
1999年(平成11年)「日光の社寺」として世界文化遺産に登録される。

見どころ

不動明王の石像

  • 像高:1.9メートル

三重塔のを向かい見て左脇には不動明王の石像が置かれていますが、これは冬峰修行の最後の行場「星宿」の遺跡と呼ばれていまする。

日光市の説明によれば、この不動明王立像は日光修験の本尊に相当し、高さ約1.9m。

風食のため見づらいのだが、体躯に「明暦三年丁酉二月吉日」の刻字がかすかに見える。

石造りの鳥居

不動明王の石像の前にはミニ石鳥居も建てられていますが、これも日光修験の遺跡とのこと。

結界は縦約3m、横約1.6mありまする。

これは冬峰修行の最後の行場である「星宿」の遺跡とされ、古峰ヶ原から入峰した行者たちが納めの護摩修行を行った場所とされています。




珍っしぅぃ!「石造の護摩壇」

日光市の調べによれば、日光には近世代の日光修験の遺跡として石造採燈護摩壇が3基、現存すると発表していまする。

元来、採燈護摩は常設しておくものではなく、必要に応じて結界・作壇して修法するものです。

しかし、修験関係の寺院で、近世代の常設壇が存在するのは全国的にも例がないとのこと。

上記、不動明王を本尊に据え、その正面に安置し、手前に長方形の二重の石枠を設けて中央に円形の炉を置く。

手前内枠の正面に石の鳥居を建てて、四隅に結界柱を建て石造採燈護摩壇としている。

⬆️上掲写真は日光市上鉢石で見られる石造採燈護摩壇。これと類似したものが日光にあと1基ある。

四本龍寺「観音堂」の場所(地図)

関連記事一覧

スポンサードリンク -Sponsored Link-



当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。