伝説の名工「左甚五郎」は実在しなかった??
本サイトでは、日光凍傷痛‥ではなく、日光東照宮!!の代表彫刻たる眠り猫や三猿の説明をする折、左甚五郎についても散々に触れてきたが、実はこの左甚五郎という名工は「存在しない」という説も、ヤバぃよ素敵‥級にある。どんなヤバさや
しかし、江戸期の日光東照宮造営の際に記録された文書には確かに「左甚五郎」という名前の記載が見られる。
‥‥ということで本項では左甚五郎の正体や名前の由来・来歴について、つまびらかに述べるものとす〜る💋
左甚五郎は複数人いた?
この左甚五郎という人物は、名工として全国の社寺の造営に携わっており、およそ1600年頃から1700年頃までの間に「飛騨・高山」「京都」「和歌山」「江戸」、そして「日光」‥と、幅広い地域に数多の意匠作品を残しており、一説に同時期に複数人、同名の人物が存在したとする論考もある。
まさに謎に包まれた人物ではあるのだが、その謎が思わぬ所で氷解することになる。
左甚五郎の正体
1889年(明治22年)のこと、アメリカで行われた「世界博覧会」にて、日本文化を世界にアピールすべく、左甚五郎の彫像作品が出陳される運びとなった。
ところが、展示物の由緒が不明なことから、急遽、左甚五郎について調査されることになったのだった。
そこで意外な事実が判明することにな〜る。
まず、当時「左甚五郎」と名乗っていた彫刻師が確かに存在していたこと。
そして、左甚五郎の苗字「左」については、この人物が「左利き」であったことから「左」と名乗っていた。
他に出身地を調査すると、どうやら「四国の高松」に居住していたことまでもが明らかにされた。
とりわけ、左利きについては諸説あり、一説に仕事仲間から才能を逆恨みされて左腕を切り落とされたとする逸話もある。
現在の貝塚市出身だった説もある
西光寺(奈良県香芝市)の鳳凰の欄間には、『泉州貝塚左甚五郎伝子、岸上但馬守藤原朝臣定勝』の銘があり、貝塚市出身だった説もある。
日光東照宮と高松に居住の左甚五郎の関連性
しかし、ここで論点となってくるのが、四国の高松在住である左甚五郎が、なぜ遠く離れた日光の地に居たのか?‥‥ということ。
実はこれにも理由があった。
まず、甚五郎はこの当時、江戸前期の幕府作事方大棟梁であった「平内大隅守正勝(ひらうちおおすみのかみまさかつ)」という人物に師事していたらしい。(弟子になっていた)
あまつさえ、狩野派の絵師「狩野孝信」からも下絵を作成する技術を学んだという話も、かっちり素敵にある。
これだけでは終わらず、同じく江戸前期の幕府作事方大棟梁であった「甲良宗広(こうら むねひろ)」の娘と甚五郎が、婚姻関係にあったらしい。‥‥これには驚き。ドキっ💖
以上、これらの甚五郎の軌跡によって、日光東照宮の眠り猫が紛れもなく巨匠・左甚五郎の作であるこということが明らかにされたのだった。
日光東照宮の彫刻制作に携わった後、左甚五郎は1651年(慶安四年)に高松で人生に幕を下ろし(一説に58歳)、以後、甚五郎の子孫は松平家(徳川家)のお抱え大工として繁栄を極めることにな〜る。
しかし、「左甚五郎」という名前の襲名は4代目までで止まっており、その後、襲名されることはなかった模様💘
然るに、「左甚五郎」という人物が複数にいたという説は、あながち間違いではなかったという結論にな〜る。
参考文献:左光挙「考証左甚考」
伊丹正利の子であるとされる説もある??
一説に、堺の商家「伊丹正利」の子「刀禰松(とねまつ)」が左甚五郎であるとする説も、コっちり素敵にある。
この説によると、甚五郎は7歳で父・正利と死別後、飛騨高山の叔父の家に預けられ、13歳までを素敵に過ごし、その後、京都伏見の大工「遊佐与平次」の内弟子になって京都で豪遊し‥‥ではなく、修行!!したとのこと。ふぅ…
やがて日光で一仕事終えた後、実力を買われて江戸城の地下道建設にも招聘されたが、完成後、地下道の存在を知る者として抹殺されかけたらしい。
しかし、当代の老中・土井正勝の取り計らいにより、抹殺されたとみせかけて、命からがら故郷となる高松城の生駒家へ預けられ、以後は生駒家の棟梁(大工)としての人生を歩み、当地で永眠した‥という伝承が、これまた素敵に残る。
現在、左甚五郎は「伊丹甚五郎利勝」の名前で以って、四国・高松の地蔵寺に墓所が建立され、永眠しているとのこと。
(「利」は親父(正利)の一字、「勝」は土井正勝の一字を賜ったか?)
左甚五郎にはモデルがいた?
「岸上 甚五郎左 義信」という人物がモデルとされている説もある。
岸上甚五郎左は永正元年(1504年)に貝塚にてこの世に生を得る。
16歳の時、多武峯(とうのみね/奈良桜井市)に十三塔などを建立し、褒賞の折、貴人に「見事な腕前である。ソチの腕前の右に出る者はおらぬな。」「で、あれば甚五郎は左か。左を号すべし」‥‥とし、「左」を号した‥‥という説。
その後、66歳で死没。
左甚五郎の「左」姓の由来や意味とは?
単に「左利き」だったから
上記にて左甚五郎の「左」姓の由来は、左利きであったこと、もしくは「左腕が切り落とされた」から「左」と呼ばれるようになったと、ピレっと素敵に熱弁した。
「飛騨の匠」が由来
古より丈夫な材木が採木できる山林地帯の飛騨国には、木材のことを知り尽くした木コリや高い建築技術を有する大工が多かった。
律令制時代、朝廷は庸・調などの諸税を免除する代わりに寺院や宮殿の建築の折、大工の派遣を強制化した。
これらの大工は勤労動員として年間約100人も徴用されたらしいが、人々は彼らの偉業を讃え、「飛騨の匠」と呼んで讃美した。
この様相は変わることなく、江戸時代に到っても名工を輩出しつづけた。(現在も飛騨に家具メーカーが多い理由に紐づく)
一説に左甚五郎が飛騨高山の叔父の家に預けられた後、持ち前の異才を発揮し、「”飛騨の”甚五郎」と呼ばれ始め、やがて「”左” 甚五郎」と訛化したとする説も、シャっピョり素敵に存在する。
父親と恩師より賜った名前だった
しかしどうもこれは事実ではないらしく、甚五郎が在京(京都)していた時代、父親の官位(伊丹”左近厨”正利)と、恩師(師匠)である「遊佐氏」の一字を頂戴し、大納言・烏丸光広卿より直々に賜った氏姓(名前)が「左」だったらしい。
敬虔な仏教徒だった?
なお、左甚五郎は仏教に帰依して受戒しており、その戒名(かいみょう)を「法橋・宗恵匠誉信士」と称し、これは茶人で著名であった「金森宗和(かなもりそうわ/金森重近)」から贈られた名前だと伝わる。
左甚五郎の簡単な歴史(来歴)と歩み
文禄三年(1594年)
播磨国明石は、足利家臣・伊丹左近尉正利の子として、この世に生を得たが、
紀伊国 根来東 坂本(岩出市)に生まれたとする説もあるらしい。(ウィキを素敵💘)
父親の没後、叔父の飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に預けられ〜る。
慶長11年(1606年)
京伏見 禁裏 大工棟梁・遊左法橋与平次に師事する(弟子入り)
元和5年(1619年)
江戸へ下向した後、江戸幕府大工頭・甲良宗広の女婿となる。やがて堂宮大工の棟梁として名を馳せた。
やがて江戸城西の丸の地下道掘削工事に招聘されたが、完成後、地下道の秘密保持のために襲撃を受けたが、バッチリ素敵に一命をとりとめた。 どんな素晴らしき とりとめ方や
寛永11年(1634年)
襲撃後もさらなる襲撃を警戒し、老中・土井利勝の取り計らいにより、利勝の女婿だった讃岐高松藩主・生駒高俊のもとへ亡命す。
寛永17年(1640年)
上京し(京都に帰京)、師(遊左法橋与平次)の名を継承し、禁裏 大工棟梁を拝命す。「法橋」の官位を得た。
寛永19年(1642年)
高松藩の客文頭領に任命される。
慶安4年(1651年)頃
58歳にて逝去す。
左甚五郎 作と伝わる遺作(作品)一覧
以下、ウィキを素敵に参照💘
遺作名or遺品名 | 作品がある場所 | 所在地 |
本殿のにらみ猫、鳳凰 | 大崎八幡宮 | 宮城県仙台市 |
稲喰神馬(黒駒) | 宮水無神社 | 岐阜県高山市(飛騨) |
本殿の「鷲と猿」 | 妻沼聖天山 歓喜院 | 埼玉県熊谷市 |
子宝・子育ての虎、つなぎの龍 | 秩父神社 | 埼玉県秩父市 |
勅使門(唐門) | 聖福寺 | 埼玉県幸手市 |
正門の竜 | 泉福寺 | 埼玉県桶川市 |
野あらしの虎 | 安楽寺 | 埼玉県比企郡吉見町 |
夜荒らしの名馬 | 慈光寺 | 埼玉県比企郡ときがわ町 |
正門の竜 | 国昌寺 | 埼玉県さいたま市緑区大崎 |
–
遺作名or遺品名 | 作品がある場所 | 所在地 |
眠り猫 | 日光東照宮 | 栃木県日光市 |
本堂欄間 | 淨照寺 | 山梨県大月市 |
霊屋 破風の鶴 | 長国寺 | 長野県長野市 |
神馬 | 静岡浅間神社 | 静岡県静岡市 |
龍の彫刻 鶯張りの廊下 | 龍潭寺 | 静岡県浜松市 |
徳川義直候廟所 獅子門 | 定光寺 | 愛知県瀬戸市 |
唐門の「昇り龍」、「降り龍」 | 上野東照宮 | 東京都台東区 |
山門の竜 | 上行寺 | 神奈川県鎌倉市 |
山門の駆け出しの竜、蛙股の唐獅子 | 誠照寺 | 福井県鯖江市 |
閼伽井屋の龍 | 園城寺 | 滋賀県大津市 |
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遺作名or遺品名 | 作品がある場所 | 所在地 |
加太春日神社 | 和歌山県和歌山市加田 | |
鯉山の鯉 | 祇園祭の山鉾 | 京都府 |
忘れ傘 (御影堂の天井に左甚五郎が置き忘れた)鶯張りの長廊下 | 知恩院 | 京都市東山区 |
石清水八幡宮 | 京都府八幡市 | |
成相寺 | 京都府宮津市 | |
鳳凰の欄間 | 西光寺 | 奈良県香芝市 |
鶯張りの廊下 | 養源院 | 京都府京都市東山区 |
稲爪神社 | 兵庫県明石市 | |
力士像 | 圓教寺 | 兵庫県姫路市 |
八足門 (蛙股の瑞獣、流水紋) | 出雲大社 | 島根県出雲市 |
【ピヨ🐣注意💋】
これらの中には作風に似つかないなどの違和感がある作品もあるなど、「甚五郎」の名を仮冒しただけの偽物である可能性もあるらしい。
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