日光山輪王寺「糸割符灯籠(いとわっぷとうろう)」
- 奉納者:糸割符の有志一同
由緒
この灯籠は元来、糸割符(いとわっぷ)と呼ばれた組合のメンバー一同が初代将軍・家康公ならびに3代目将軍・家光公に対し、感謝の意を込めて奉納したもの。
もともとこの灯籠は輪王寺本堂(三仏堂)のそばに建てられていたようだが、身分がはばかられて現在地へ移設された。
輪王寺は代々、輪王宮(皇族)が座主に就任する寺院だったことから、このような配慮が生じたのであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ…..
糸割符とは?
糸割符とは、江戸時代における生糸の輸入制度のこと。主に中国産糸を対象とした制度。
1604年(慶長9年)、それまでポルトガルが日本との交易で取引していた輸入生糸を、ポルトガル主体で選んだ特定の商人とではなく、幕府が選んだ特定の商人にのみと取引させるように制定した制度。
1631年(寛永8年)には中国、ついで1641年(寛永18年)にはオランダにも適用された。
この当時の日本は銀に代表される鉱物資源の採掘量が豊富にあり、逆に流通量の乏しかった生糸を輸入に頼っていた。
そこで生糸と銀とを取引する交易が盛んになるワケだが、まぁこれも1700年前後になると国産生糸が台頭し、生糸を輸入することはほぼなくなる。
この時、幕府の選定した商人というのが「糸割符」。
当初は堺、長崎、京都の三ヶ所だけに置かれたが、1631年から江戸、大坂が加えられ、5ヶ所になっている。
幕府はなぜ、特定の商人に限定したのか?
このように特定の商人にのみ許可を与えるような真似をすると下手をすれば暴動や混乱がおきかねない。しかし大事にいたっていないところを見ると、大方、まわりの商人たちは納得していたことになる。
じつはこの商人たちはかつて朱印船で海外との交易を行っていた商人たちであり、幕府がオランダとの国交向上を図り、海外渡航禁止令を出したため、朱印船で貿易を生業としていた商人たちは甚大な被害をこうむった。
そこで幕府はその代わりの処置として、かつて朱印船を繰り出して海外との交易をしていた商人たちを抜粋し、商人たちに配慮したことになる。
しかし幕府の狙いはそれだけなく、海外との接触に際し、商人組合を間に入れることにより、幕府の仕事を減少させるとともに、何か問題が起きれば商人組合に責任を転嫁して処分を下せば済むので、海外との国交は守れると考えたのかもしれない。
いっぽうの商人組合もそれを知った上でアウトソーシングという形式で仕事を請け負っていたのであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ….
糸割符灯籠の特徴や見どころ(刻銘)
⬆️「想像の像」と全く同じ構図の像。製作者は不明だが下絵の原型は狩野探幽と思われる。
⬆️家康公が敬愛した中国の「舜帝」の儒学的な思想が描かれている。この構図は陽明門や本殿にも見られる。
糸割符灯籠の場所(地図)
輪王寺の大護摩堂の前、手前には相輪塔がありまする。
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