日光山・輪王寺「護法天堂」【重要文化財】

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日光山・輪王寺「護法天堂」【重要文化財】

創建年

  • 1600年頃
再建年

  • 1615年から1672年頃(江戸前期)
建築様式(造り)

  • 寄棟造
  • 一重
  • 背面張出し付
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行五間:約10m
  • 梁間三間:約6m
  • 向拝部分一間:約2m
重要文化財指定年月日

  • 1973年6月2日
御本尊

  • 毘沙門天
  • 大黒天
  • 弁才天(弁財天)
発願者

  • 南光坊天海大僧正




日光山・輪王寺「護法天堂」の読み方

護法天堂は「ごほうてんどう」と読みます。

日光山・輪王寺「護法天堂」の見どころ・歴史・由来

この日光山の「輪王寺」は栃木県日光市にある寺院群で世界遺産に登録されています。

その中でも「護法天堂」は、現存する輪王寺の境内の建造物の中では最古と云われております。

護法天堂には、元来、大黒天・毘沙門天・弁財天の3天が奉安されお祀りされていましたが、現在は「大護摩堂」へ遷されて七福神として奉斎されてい‥‥‥申す。グハっ

護法天堂は、これら3天の神仏がお祀りされていた経緯もあり、もとは「内権現堂(ごんげんどう)」と呼称されていたようです。

この事実からも往時の日光山内における信仰も、仏と神が同一とみなされていたことが理解できます。

日光山輪王寺は、奈良時代に勝道上人が日光山を開山して建立された歴史を有し、平安時代には真言密教の祖「大師・空海」や天台宗の高僧「円仁(えんにん)」も訪れています。

その際、「円仁」によって三仏堂などが建てられましたので天台宗のお寺として歴史を歩んで行くことになってい‥‥‥申す。アぎゃ

なお、輪王寺における日光山信仰の由来は、日光連山の「男体山(ないたいさん)」「女峰山(にょほうさん)」「太朗山(たろうさん)」の3山が3つの仏様に例えられています。

つまり、「3仏」と称されて本堂(三仏堂)に祀られている「千手観音」「阿弥陀如来」「馬頭観音」が上述の3仏様になりまする。

日光山縁起に登場する神々一覧
日光三山日光三社権現日光三所権現日光三所権現本地仏(三仏)日光三神
女峰山(※母)滝尾権現女体権現阿弥陀如来田心姫命(母神)
二荒山(男体山)(※父)新宮権現男体権現千手観音大巳貴命(父神)
太郎山(※子)本宮権現(太郎権現)太郎大明神馬頭観音味耜高彦根命(子神)

※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられています。

輪王寺を襲った「明治の業火」

実は、この日光山輪王寺は、明治時代初頭となる1871年(明治4年)5月13日、原因は定かではありませんが、輪王寺全体を無残に焼き尽くすほどの大火災に見舞われていまする。

この大火災は、新しくとって変わった明治政府による「神仏分離令」が発令された直後のことでした。

この大火災によって、輪王寺の木造の社屋・約700坪が焼失し、輪王寺・大本坊(住職が住むお堂)も跡形もなく焼失しています。

しかし、これだけの規模の大火災でも、この護法天堂ほか、西側にあった黒門、北側に鎮座していた光明院稲荷などは、火の粉一つ降りかからずに、奇跡的に難を逃れています。

つまり、こういった経緯もあって、輪王寺の境内で現存する最古の建造物ということでする。….”でする”?

輪王寺・大本坊は「光明院」とも呼ばれた

この総本坊は江戸時代初頭に天海大僧正が再興した建造物であり、当時は「光明院」と呼ばれていまする。

天海大僧正は江戸時代、日光山全体を円滑に総括するべく、総本坊(総本部)を設置しており、その総本坊として目を付けたのが山内の中心部に位置した光明院でした。

総本坊を置いた後も、天海僧正の活躍は目覚ましく、後世に至っては「日光山中興の祖」とまで呼ばれる存在になってい‥‥‥申す。グヘっ

光明院はもともとは、鎌倉時代中頃、第24世座主の弁覚法印が創建した輪王寺の支院です。

光明院は現存していませんが、往時の光明院の名残を伝える建造物として、大護摩堂手前の「黒門(本坊表門)」がありまする。

黒門は境内北側にあった護法天堂とともに焼失を免れた貴重な建造物として扱われてい‥‥‥申す。グハっ ….あ、”グハっ” 2回目か

光明院を襲った火災

光明院は延べ床面積:約2,600坪(8,700m2)を有する大書院だったと伝えられてい‥‥‥申す。オゲっ

しかし前述したように1871年(明治4年)5月13日、火元不明の突然の火災により、社屋・約700坪が焼失するという悲惨な結果に至ってい‥‥‥申す。ガハっ




日光山・輪王寺「護法天堂」の役割

この護法天堂と三仏堂は、願い事を成就させるための役割の担った堂舎でもあります。

三仏堂は鎮守国家を例とした「国家レベルの祈祷を行う場所」とされています。

一方、この護法天堂は「個人のお願いを成就させる場所」とされています。

このため、護摩焚きを行い祈祷をしてくれます。

輪王寺はこれまで嵯峨天皇(平安時代)から下賜された「満願寺」としての独自の歩みを見せていましたが、1655年(明暦元年)に後水尾上皇の院宣(いんぜん/天皇が発したのと同じ効力をもつ文書・命令)により新たに「輪王寺」の寺号が下賜されてい‥‥‥アカン、ネタ切れ。中止 オホ ‥‥まする。

この院宣により、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺します。

住職となった皇族は単に住職とは呼ばず、「門跡」とも呼称し、この輪王寺に関しては「輪王寺宮門跡」などと呼ばれていたのです。

門跡となった皇族には「内権現堂」という専用の礼拝所が与えられ、この「内権現堂」こそが、護法天堂の前身とされる建造物です。

護法天堂の建築様式(造り)

護法天堂は他の堂塔に比べると絢爛豪華という言葉にはほど遠く、質素で簡素な外観をしてい‥‥‥まする。(フェイント)

正面扉は輪王寺境内の堂舎で見られるような桟唐戸の扉ではなく、観音開きの普通の板をあてがった扉が取り付けられてい‥‥‥申す。クっココココココ…. 王騎将軍?

その正面の蟇股の装飾も極めて簡素な牡丹の彫刻が一輪見え、組物に関しても定番の三斗組みは見られず、禅宗様を示す渦状の拳をあしらった実肘木を通すのみです。

垂木組みも、まばら割りが用いられるなど、輪王寺境内のほかの堂宇に見られる二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)が見えません。

輪王寺境内の御堂でありながら、極端すぎるほどの簡素さに思わず、その理由を知りたくなってきます。

護法天堂の場所(地図)

日光山・輪王寺「三仏堂(本堂)」の裏側スグ。

おわりに・・

ひっそりと佇んでいる「護法天堂」は日光山の信仰の名残であり、国の重要文化財に指定されています。

江戸時代には徳川家康を祀る「日光東照宮」徳川家光の霊廟の「大猷院」が建立されます。

明治時代以降には、この日光山全体が「二社一寺」となり統合されていきます。

また、輪王寺の広い境内には多数の「堂塔」が点在しており、「三仏堂(本堂)のある山内地区」から「中禅寺(輪王寺の一部)がある奥日光地区」まであります。

このように輪王寺の見どころは日光山全体に広がっており、とても1日で見られるものではありません。

話は少し逸れますが、輪王寺を含めた日光山では11月上旬から紅葉が山々を彩り、とても美しくなります。

毎年、この紅葉の時期になると沢山の観光客が訪れ、モミジ狩りに心を和ませています。

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