日光東照宮 三猿【重要文化財】
製作年
不明
推定:1636年(元和3年/江戸時代前期)
再建年(大修理)
1952年(昭和27年)3月
2017年(平成28年)3月
パネルの大きさ
横幅:142cm
高さ:44cm
作者
不明
推定:左 甚五郎(眠り猫と同じ作者)
「三猿」の読み方
「さんざる」「さんえん」
日光東照宮・三猿の歴史
三猿の正確な製作年は不明ですが、神厩舎の竣工(創建)と時を同じくするのであれば、1636年(元和3年/江戸時代前期)には完成していたものと考えることができます。
以来、約10年おきに修理が行われていますが、2017年(平成29年)の修理ように8面すべてが対象となる大規模な修理は1952年(昭和27年)以来、約65年ぶりになるとのことです。
この三猿の彫刻は、経年による老朽化や極彩色が剥げ落ちてきたことに伴い、2016年(平成28年)6月から修理(修善)に出されていたことから、三猿の修理期間中は「本物の三猿を精密に模して製作されたレプリカ(贋作)」が神厩舎に据えられていました。
そして2017年3月30日、晴れて修理を終え、見事に本物の三猿が神厩舎に取り付けられ、31日から一般公開されています。
したがって現在では、創建当初を彷彿とさせる「光り輝く極彩色の三猿」を観ることができます。
修復後に三猿の顔が変わった!?
この新しい三猿がお披露目されてから、主にネット上で、「猿の顔が以前と全然違う」ということが話題となりました。
これまでも三猿は頻繁に修理・塗り直しが行われており、確かにその度に顔つきはやや変わっているのですが、それらと比較しても今回の三猿は、目がかなり大きくなっています。
⬆️塗り直された修理後の三猿のレリーフ。2017年3月30日より神厩舎(しんきゅうしゃ)に再び戻された直後の写真
元祖三猿の顔はもはや知るすべがないので、現存する過去の修理の記録を元に塗り直しが行われるため、どの段階の猿の顔に近づけるのかは、難しい問題です。
ただ、今回に関しては、「過去のものを再現するという意味では明らかに問題がある」という声もあり、専門家の中には、次回の修理の機会に元に戻すべきだとする意見も出ています。
日光東照宮・三猿の修復前&修復後の画像一覧
日光東照宮の三猿の過去の修復歴
東照宮はこれまで幾度も修理を繰り返してきており、常に新しい状態を維持しています。
この三猿も明治時代以降、次の年代に修理が実施されおり、都度、塗り直しが実施されてい申す。
- 1900年
- 1923年
- 1951年
- 1973年
なお、東照宮の修理は日光の2社1寺がつくる職人集団・「日光社寺文化財保存会」が中心になって行ってい申す。
三猿とは?
ご存知でしょうかか?
日光東照宮には5173個もの彫刻がありますが、中でも、もっとも有名なのが「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三猿」の彫刻です。
向かって左から「耳を手で塞いでいる猿」「口を手で塞いでいる猿」「目に手を当てている猿」です。
これらの「3匹の猿」は「三猿」と呼ばれ、通称・「見猿(見ざる)、聞か猿(聞かざる)、言わ猿(言わざる)」と言われる世界的に有名な猿くんたちになります。
三猿の彫刻の場所
日光東照宮には「神馬(しんめ)」と言う神様に仕える馬がいます。
その神馬が休む「神厩舎(しんきゅうしゃ)」と呼ばれる馬小屋の屋根の下に、三猿の彫刻は彫られています。
日光東照宮の「神厩舎」の場所は、五重塔近くの表門を入って、左手スグになります。
日光東照宮・神厩舎についての詳細は当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。
関連記事:日光東照宮・神厩舎(三猿)【重要文化財】
えぇっ?!日光東照宮の神厩舎には「まだ7つも猿の彫刻があった」?!
実は日光東照宮の神厩舎には、上述でご紹介した「三猿」以外にもまだ猿の彫刻があるのです。
勘違いをされる方が多いのですが「三猿」とは「8つの猿の彫刻」の内の1つの彫刻になります。
つまり「合計で8つある猿の彫刻のパネル」の中の「見ざる(見猿)・聞かざる(聞か猿)・言わざる(言わ猿)」のパネルが「三猿」になります。
これら日光東照宮の8つの猿の彫刻は、家康公が深く信仰した中国の道教の思想を参照し、猿の一生を通しての人間としての正しい生き方を示していると言われています。
残り7つの猿の彫刻の場所はドコ?
残り7つの彫刻がある場所は、「見ざる(見猿)・聞かざる(聞か猿)・言わざる(言わ猿)」と同じく「神厩舎」にあります。
「神厩舎」の他の壁面にも三猿の彫刻が据えられている分かるハズです。
そしてこの壁面に、上述した「8つの猿」の彫刻があり、8つの猿それぞれに意味や秘密が隠されています。
神厩舎の左側面には何がある?
気になってくるのは神厩舎の左側面ですが、残念無念なことに左側面には三猿はありません。
代わりに緑色を基調とした、花柄や渦巻き模様が金色で描かれた板がハメ込まれています。
⬆️神厩舎の左側面。まばゆいばかりの緑色と金色の板が見えるだろか。
日光東照宮の三猿に込められた意味や秘密とは?
これら三猿を含めた8つのパネルは、猿が題材となっているのは共通して同じなのですが、それぞれがまったく同じポージング(形)をとっていません。
また、三猿のパネルはこの8つあるパネルの中の左から2つ目に飾られているのですが、なぜ2つ目なのでしょうか?
これらの謎に気付いたあなたは、なかなか鋭い洞察力を持った方です。
入口付近にそびえる五重塔の彫刻、陽明門の彫刻、本殿の拝殿前の門の彫刻にしろ、東照宮内の彫刻は意図して配置されたものがほとんどです。
だとすればこの三猿を含めた8つのパネルにも製作者が何かしらのメッセージを伝えるために意図して配置したと考えることができ申す。
実は現在ではこの謎を紐解く方法が解明されており、下記のように順番に見ていくことでその謎が解けるようになっています。
ピヨ🐣三猿の見方
8つの猿のパネルは正面を向かい見て、左から順番に見るようになっています。
以下では、各パネルに隠された秘密を打ち明かすとともに、さらに分かりやすくするために「左端から①番→右側面の右端⑧番」までの番号を振っています。
三猿の画像(写真)と照合しながらご覧になってみてください。
①「親猿のような子思いの猿になれ!」【赤子の時期】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
子猿は母猿を心の拠り所として、親猿を下から熱い眼差しで見つめる。
一方の母猿は我が子の未来が心配で仕方ない。そこで我が子の未来を例えわずかでも覗き見ようとしている。
母猿の目線の先には、バラ色で実り豊かな”ビワの実”と、瑞雲ともいえるべき、赤色に”たなびく雲”があり、これらを以って子猿の未来が明るいことを示す。
【ピヨ🐣コメント】
母猿をジぃ〜っと見つめる子猿の姿を以って、これまで荒波の人生を歩んできた母の姿の姿をよく見て、よく学べ!‥‥ということを訴えかけているのか?
②「善悪の正しき判断ができる人物になれ!」【幼少の時期】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
『見ざる(不見)、言わざる(不言)、聞かざる(不聞)』‥‥の!有名な”三猿”のパネル(彫刻)がコレ👍
小さい頃は何にでも興味が湧くが、悪事を見たり、悪事を言ったり、悪事を聞いたりせず、良い事だけを受け入れて、素直な心で育ってほしいという意味が込められたパネル。
幼少期に良いものを身につけておくと、今後の永き人生において悪いものに出会しても善悪の正しい判断(行動)が、ぴっちり素敵にできることを悟らせる。
③「若いうちに多いに悩め!」【青年の時期】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
座っているが立ちそうで、なかなか立つことができない猿の姿が表現される。
間近で見ないと分かりづらいのだが、猿の表情には精一杯の寂しさが表現されており、これは孤独に耐えつつも、これからの人生(将来)ついて思案している様子に思える。
もし、立ち上がることができた時には精神的にも肉体的にも大きくなって、親元を離れ、自立(独り立ち)できることを暗示させる。
④「青年よ!大志を抱け!」【青年の時期を表現】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
二匹の猿は方向は違えど、空を見上げ観る様子が表現されてい‥申す。ひょ
右上に見える青い雲は「青雲の志」を表現。
「青雲」とは、澄み切った空を意味する言葉であり、高所、地位や学徳の高いことの例えでもある。
然るに「青雲の志」とは、将来、立派な人物になろうとする大きな志を抱けということ。
このパネルは青年期の過ごし方や行動規範などを暗示させる、ポっピゃリ素敵な彫刻ともいえる。
【ピヨ🐣コメント】
このパネルの表現を家康公の御遺訓に例えると「上を見な、身の程を知れ」が妥当とされる。
⑤「良き仲間を得よ」【大人の時期を表現】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
右側の猿は大樹の根っこ、左側の猿は岩の上で下を向き、その下を向く猿の背中に生意気にも腕を乗せ、正面をジロっと見つめ続ける猿が見える。生意気?
注目すべきは「下を向いてる猿」だが、東照宮の見解によると、実は他にも崖から落下した仲間の猿がいて、その猿の安否を憂慮する様子が表現されているらしい。
然るにこれは落下した仲間を見て「明日は我が身か。留意しよぅ…」‥などと、挫折感を味わっている猿を仲間の猿達が励ましている様子になる。
【ピヨ🐣コメント】
私見では、「励ましてくれる良き仲間に恵まれるような人物になれ」‥という教訓のようにも思える。
⑥「物思いにふける猿」【大人の時期・恋♥に落ちた猿くん】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
東照宮内部には生命の脈動というものを、つぶさに感じさせてくれるような、実に生き生きとした様子を表現した彫刻が数多に散見されるが、この猿もその好例の一つといえる。
左側の猿は今にも動き出しそうなほど、何かの決断を迫られてソワソワと動きまわり、落ち着かない様子で表現される。
対して右側の猿は実に堂々としたオッさん座りの姿のポーズをとり、程よくビール腹の前で腕を交差させ、前方を見つめる。
然るにこれは何かを決断したことを暗示させる。
実はこのパネルは、このパネルだけを見ても秘在した回答が導き出せなくなってい‥‥申す。ひっ?(”秘”っ?)
隣のパネルと、そのさらに向こうのパネルを見ておくことによって意味が分かるようになってい‥申す。へっ?
‥ともあれ、先にこのパネルの意味を述べておくと、これら二匹の猿は実にピチピチとしまくった豊満な身体つきのメス猿を見つけた?‥のか、恋もしくは結婚に悩んでいる様子が表現されてい‥申す。ペロっ💋
⑦「ついに恋♥が成就して結婚しちゃった猿くんたち♥」【大人の時期・人生のパートナーを得る】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
このパネルでは左側の腕組みする猿と、その下半身には逆巻く荒波、右側の猿の頭上には瑞祥を示す赤雲と、背中(右端)には白バラが、シレっと素敵にあしらわれ〜る。
然るに左半分を以って順風満帆に思い通りには行かない人生を、まっちょり素敵に表し、右半分で以って、荒波を乗り越えた先には明るい未来が待っていることを悟らせる。
これは二人で協力すれば荒波続きの人生でも乗り越えられることを強く訴えかけたパネルであり、この二人はカップル(恋人同士)の猿を意味す〜る。
【ピヨ🐣コメント】
江戸時代では「バラ(薔薇)」を「長春」と呼び、瑞花の一種と認知されていた。
⑧「身ごもってお腹が大きくなった母猿」【大人の時期・結婚後、子供ができる】
🐣平成の大修理後の姿
🐣大修理前の姿
真っ赤な熱ぅ~ぃ💖恋を実らせ、やがて結婚に到った猿の夫婦。
このパネルにはお腹の大きな猿が見えるが、これは妊娠した母猿を意味す〜る。
これまでのパネルが示した教訓を遵守し、善悪の判断をキッチリ行い、荒波に揉まれても二人で協力して乗り越え、ついに平穏な家庭を築きあげ、ピっぴょり素敵な子宝にも恵まれたことを、モっピョリ素敵に悟らせ〜る。
そして気になるのはこの後どうなったのかだが、母猿は無事に子猿を産み、その子猿は‥ふたたび親猿のようになっていく。
えっ?なんでお前そんなこと知っとんのか?
それは今まで見てきたパネルが一旦、このパネルで終わり、ふたたび最初のパネル(①)に戻るから。
‥‥こホンっ!
以上、これら8枚のパネルを以って幼少期の教育の大切さや、教育を間違えると荒波に飲まれる人生が待ち受けていることを表現する。
三猿のパネルを含めた8つのパネルには「猿の一生が表現されている」!
上記、8枚の猿が彫刻されたパネル見て理解したとは思われるが、これら8つのパネルを左から順番に見ていくことで、この世に生を得て、親に見守られながら育つも、やがて自らの力で独り立ちし、親になって自らの子供を産み育てるまでの半生」が表現されてい‥ます。ふぅ(耐)
これは人間の人生にも置き換えることで、人生の教訓を無言で悟らせるようなギミックだといえる。
8面の猿の彫刻の真意とは?
これら8面の猿のパネルに込められた秘密こそが先君・家康公が自らの子たち・末代に至るまで伝えたかった熱き思い(メッセージ)でだと汲み取ることができ申す。
自らが創設した江戸幕府における我が国の永続統治と、その成果物となる恒久的な安寧と、その安寧を築き上げる自らの子たちが君主(将軍)と呼べるに相応しい人格者に育ってくれるよぅ、そんな切なる願いが痛々しいほどに込められていると解釈でき‥‥申す。
人らしい生き様・人格者を表現すると共に恒久平和を訴えかけている
惰性で生きるのではなく、常に何かに興味をもち(周囲に目を配り)、常に押し寄せる人生の荒波に打ち勝っていけるように(諍い・戦争は政治的な最後の手段と心得る)仲間を作り、その仲間を思いやり、仲間に相談して紛争を回避する手段を講じる。(自らは魅力ある人格者として、強固な家臣団を作り上げる礎となる)
また、人としてこの世に生を得た後、人間らしい人生の歩み方をこの8枚のパネルを通じて見事に伝えてい‥‥申す。
そして、このパネルが訴えかける真意とは「このような生き方が出来る時代を常に築いて行けるように‥‥」という真意が秘在するとも、これまた素敵に推考され〜る。
ところで‥‥三猿を含めた8つの猿のパネルには合計何匹の猿くんがいる?
ちなみにパネルは8つだが、パネル1枚々々には猿が複数匹いのだが、
いったい神厩舎全体で何匹の猿がいるか想像がつくだろぅか?
‥‥実は、16匹 いる。
神厩舎に訪れた際は騙されたと思って、是非に数えてみてくれ給へ。
なぜ、三猿のパネルだけが有名なのか?
このような3匹の猿を引き合いに出した偶像信仰ならびに思想は、東照宮固有のものではなく、中国はじめ世界中でも散見される。
だけれども、日光東照宮の三猿は明治時代に財界著名人を通じて世界中に名前が知られるようになり、やがて洋の東西を問わず、世界屈指の三猿像の一つに位置付けらた。
また、それに拍車を掛けるように日光東照宮が世界遺産に登録されたことも三猿を世界的に有名にした要因ともいえる。
伊勢神宮には神厩舎があって神馬もいる!なぜ東照宮には三猿がある?
実は日本国民の総氏神とされる伊勢神宮の敷地内にも「神厩舎」が、これまた素敵にあるのだが、本物の馬(神馬)がいるにも関わらず、猿の影すらありんせん。
あまつさえ、一之宮クラスの著名神社が幾つか散見されるも、山王信仰の鎮守「日吉大社」を除いたそれらの大社(神社)には干支の縁起物以外の猿の像や、猿の絵馬すらありんせん。
然るに境内に猿の彫刻がある日光東照宮は、極めて異例だと言わざる(”言わ猿”…上手いっ!)をえない。
ところで‥‥「三猿」の意味や由来(起源)とは?
ちょぃと下掲のパネルをご覧くだせぇな。
これら3匹の猿くんたちはそれぞれ異なる像容で表現されており、それぞれのポージングには意味が隠されてい申す。
これらの猿くんたちは無言で人生の教訓を伝えているものであり、見る者は像を見てその真意を悟る必要があり申す。
左端の猿の意味
左端には両耳を両手で覆っている。
意味:「聞かざる(聞か猿)」
人生の教訓:『悪いことを何も聞くな』
解釈:自分にとって害となる悪口や、噂話は聞くな。聞いても聞き流せ。
聞くと災いに巻き込まれたり、気持ちが滅入って悪い方へ物事が動いていく。
中央の猿の意味
中央の猿は両手で口を塞いでいる。
意味:「言わざる(言わ猿)」
人生の教訓:『悪い事(悪口)は言うな』
解釈:他人にとって害となる悪口や、噂話は言うな。
言うと、いずれ逆に自分に災いが跳ね返ってくるであろぅ。。ふぉっふぉっふぉっ…..
右端の猿の意味
右端の猿は両手で目を隠している。
意味:「見ざる(言わ猿)」
人生の教訓:『悪いモノは見るな』
解釈:自分にとって不利益なモノは最初から見るな。見たことで災いが降り注ぐようにやってくる。
そもそも見なければ”言わ猿”の概念すら無くなる=言うことも無い。悪いモノ(他人の悪事や中傷するモノ)。
以上をもって三猿の意味とは「3匹の猿の仕草に秘められたメッセージを紐解いて、その内容(答え)を教訓として実践することで、自らの身を護る良き扶助となり、人生を全うできるだろう」と言うこと。
三猿の起源や詳細は下記ページを要チェック💘
えぇっ?!実は、三猿ではなく、4匹目の猿がいて「四猿(しざる)」だった?!!
日光東照宮の三猿は「三猿」として世界中に知られるも、実は元来4匹目の猿がいたらしく、中国では「4匹の猿」で一つの意味合いを成すセットだとする。
然るに今日の我が国にある三猿の思想の起源というものを、本当に中国に求めることができるのであれば、三猿なる思想は我が国特有の思想ともいえる。
中国の四猿が指し示すの意味や由来とは?
中国では4匹の猿を「四猿」と書いて「四猿(しざる)」もしくは「四猿(せざる)」と呼んでいます。
その意味とは、「せざる=しない(=浮気をしない)」と言うことです。
つまりこれは、「余りある欲は、災いをもたらす」と言った意味合いになります。
ちょぃと下掲の四猿の彫刻の画像をご覧くだせぇ。
いかがだろぅ?
どれが4匹目の猿かお分かりいただけたか?
そぅ!
一番右端の股間を両手で覆っている猿が「四猿」になる。
しかし、東照宮の神厩舎に嵌め込まれた8枚の猿のパネルには、ドコにも4匹目の猿など居やんせん。
なぜ日光東照宮には「四猿」が存在しないのか?
ピヨ🐣理由その1
日光東照宮は故人となった「徳川家康公」をお祀りするために建てられた。
つまり、見る者が失笑するような姿の四猿の像は「あまりにも品位にかけ、家康公が静かに眠る聖なる地に、ふさわしくなく無礼である」
‥などと考えられたことが原因であったとも、とめどなく素敵に考えられ〜る。
ピヨ🐣理由その2
日光東照宮は家康公が深く信仰した中国道教の思想が採り入れられ、その思想は境内の門や建物の彫刻などで表現された。
その道教の教えによれば、人の腹の中には「三尸(さんし)」と呼ばれる3匹の虫が棲んでいるとされる。
三尸とは、一年に6度ある「庚申の夜」になると蠕き(うごめき)はじめる虫のことであり、睡眠中の人の身体から抜け出し、その人物の悪事やこれまでの罪を洗いざらいすべて天帝にブチまける(告げ口する)らしい。
その三尸から報告を受けた天帝は、その罪の重さの度合いによって、当該人物の寿命を削り取るらしい。
然るに、この「三尸」の故事を鑑みた対抗策として、三尸に三猿の像を見せることによって、その三尸にも三猿の教え(不見、不聞、不言)を学ばせて、天帝に告げ口しないようにしてしまおぅということ。
天帝に報告をさせなければ、寿命が削り取られることもなく、
なお、道教は家康公が信仰したほか、天台宗の中枢に位置する天台教学の教理でもある。(天台宗は”道教の里”とも呼ばれる中国の”天台山”がルーツ)
この事実を加味すれば、天海僧正が師であり天台宗の開祖たる伝教大師(最澄)へのリスペクトの意味合いにて、三猿像を、きゃっぱり素敵に神厩舎へ据え付けたとも推考される。
ピヨ🐣理由その3
「四猿」と書いて「せざる」と読む一方で、「しざる」とも読むことができる。
これは「四」が「死」を連想させ、「死猿」となる縁起の悪さを危惧し、あえて3匹とした‥‥という説も、ショっぴょり素敵にある。
なぜ、三猿(8つの猿の彫刻)が神厩舎にあるのか?
中国の陰陽五行説・五行相克に由来?
実はあまり知られていませんが、日本には「陰陽五行説」と言う思想があります。
陰陽五行説とは?
「陰陽五行説」とは、中国の春秋戦国時代に成立した思想のことです。
陰陽五行説の教学によれば、天地の万物は「木、火、土、金、水」の五要素から成り立ち、それぞれの要素が作用し合うことにより生じるとされる思想です。
日本へ伝来した陰陽五行説は朝廷にもたらされ、陰陽師を通じ、「陰陽道」として天災や厄災を退けたり、回避する手段として用いられた占術でもありまする。
この陰陽五行説には「五行相剋(ごぎょうそうこく)」という考え方があり、これによれば次のように解される。
- 「馬」は「火」
- 「猿」は「水」
上図を見ることで理解が進むが、馬は「火」なので、その火を消すことのできる「水」は「火」に勝つ存在となる。
陰陽五行説を通じてこの事柄を述べると「馬に降りかかる火の粉(厄災・病気)は、猿が水の力で振り払うことができる」=「馬にとっての猿とは厄災や病気から守ってくれる瑞獣」だと位置づけられる‥‥てことぉ〜💋
‥‥です。
厩猿信仰に由来したもの?
昔の我が国の農家では、馬は牛と並んで農業を営む上では欠かせない労働力だった。
馬は叔母や娘が飼い慣らし、名前まで与えられ、まるで家族の一員のようにして大切に扱われていた。
しかし、馬は動物なので人間とは身体の構造が異なり、身体に異常をきたしても治癒できなかったりすることが多く、馬がいなくなると、たちまち農業が立ち行かなくなる。
農家が農業ができなくなるということは自分たちの糧を失うことに相当し、死をも意味する。
このような恐怖心から農家を中心とした「厩猿信仰(うまやざる・まやざる)」なる信仰が、これまた素敵に生じた。
特に東北地方には農家が多かったせいか、この信仰が根強く浸透し、猿のことを「招福猿」などと呼び慣わし、馬小屋(厩)で猿と馬を一緒に飼う風習が生まれた。
岡山県を代表例とした西日本では、牛の飼育が盛んであったことも重なり、猿の頭蓋骨を「牛神様」と呼び慣わし、これを祭壇に祀ったり、厩の柱に吊るして崇拝する信仰も、やっぱり素敵にあった。
厩猿信仰とは?
厩猿信仰(うまやざる)では、まず、馬の守り神とした猿を「厩神(うまやがみ)」として崇拝し、厩の柱上に神棚などの祭場を設け、猿の頭蓋骨、もしくは猿の手足をご神体として祀りたてる。
ボンビー農家(訳:貧しい農家)では、猿の画像(絵)や猿を描いた絵馬などを厩の柱上や厩入口の頭貫などに貼り、これを霊符として扱い、馬の魔除けとしていたらしい。
しかし実際のところ、個人が生きている猿を飼うというのは世話や管理を想像して見ただけでも容易ではなく、そこで猿を連れてお祓いをする祈祷師までもが、これまた素敵に出現した。
また、四季折々で馬の健康長寿を祈念し、厩の周りで猿を舞わせる風習までも生まれてい‥申す。あひょ
この風習は江戸時代中期になると大道芸の猿まわしとして庶民層の間で大流行した。(猿まわし芸の起源とされる)
国学者の柳田邦男は「この祈祷師が行なった猿を連れたお祓いこそが、猿回しの起源である」という見解を示すも、信ぴょう性や根拠に欠けるものがあり、現在でも想像の域を出ない”俗説”とされる。
山王信仰の猿は安産の神として崇拝対象とされ、これが厩猿信仰と結びついたのか「馬の多産・軽い分娩で済む安産」の守り神としても崇められるようになる。
地域によっては馬頭観音を厩内に築いた祭壇に祀る農家もあり、他例では馬が何らかの理由で死を遂げたみぎり、その場所に馬頭観音像を建てて供養する風習もあったらしい。
ちなみにこのような猿回しの起源とされるのが、下記のような鎌倉時代に編纂された鎌倉幕府側の記録文書・「吾妻鏡(あずまかがみ)」の1245年(寛元三年)4月21日条にある。
『左馬頭の足利義氏の猿が将軍の御前で舞い、観覧する人々を驚かせた』
以上のような記録が残されている事実を以って、鎌倉時代にはすでに猿回しが行われていた事実を如実に物語る。
厩猿信仰はいつから日本に定着した?
平安末期に成立した「石山寺縁起絵巻」に描かれる猿が馬と共に厩に繋がれた様子が描かれている絵図は有名だが、この絵図が真実とするならば、平安末期にはすでに厩猿信仰が広まっていたことにな〜る。
画像引用先:東京国立博物館
また、同様の年代に編纂された「春日権現験記絵」や「一遍上人行状絵巻」「厩馬図屏風」などにも厩猿が見られる。
これらの図絵の中には、厩の中に「猿木」と書かれているものも見受けられるのだが、これこそが馬小屋で猿を繋いでいた事実を傍証する。
平安時代末期(1180年前後)に後白河法皇により編纂された歌謡集・「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には、次のような一文が、シッパリ素敵に見られる。
『御厩(みまや)の隅なる飼猿は 絆はなれて さぞ遊ぶ』
‥‥まさに平安時代の厩の様子を詠み語ったものとみれる。
とりわけ、このような厩猿信仰の起源は未詳とされるも、「天竺から猿が飛んできて厩の御祓いをする」といった説もあるように、その起源は中国やインドにまで遡(さかのぼ)るものといわれ〜る。
えぇっ?!三猿は「日光東照宮の鬼門封じ」のために神厩舎に据えられた?!
日光東照宮造営のプロデューサー(総指揮)としては、まずは南光坊天海(なんこうぼう てんかい)」大僧正の名前が、ピっぴゃり素敵に挙がる。
天海僧正は陰陽師としての側面も併せ持っていたため、家康公が静かに永眠できように、はたまた家康公の遺徳を後世に伝えるべく、日光東照宮に様々な施策を施した。
その施策の一つとなるものが、この「三猿」だといわれるが、そもそもなぜ神厩舎に三猿の彫刻があるのか?
別に神厩舎でなくとも、据え付ける殿舎の候補はある。
実は折よく神厩舎の場所が日光東照宮の裏鬼門にあたり、その裏鬼門を封じる目的で三猿を据え付けたとする見解も、やっぱり素敵にある。
🐣「鬼門」とは?
「鬼門」とは「北東の方角」、つまり「艮(うしとら/丑と寅の間)」を指します。
🐣「裏鬼門」とは?
裏鬼門とは「裏」なので鬼門とは真逆の方角という意味になり、これは北東の反対の南西の方角「未申(坤)/ひつじさる」を意味します。
なお、天海僧正は天台宗に僧籍をおいた僧侶であり、その天台宗には「山王信仰」なるものが教学の中心にあって、猿を「真猿(まさる)」もしくは「神猿(まさる)」などと呼びなわらし、神として崇めていたことも理由に挙げられる。
真猿・神猿(まさる)は「魔去る」に通じる
山王信仰では「真猿・神猿(まさる)」は「魔去る」「勝る」に通じるとし、古くから猿は大変、縁起の良い瑞獣だと信仰されてい‥申す。あっ
この神厩舎に猿が用いられたのも神馬を護る存在であるのとともに、鬼門をも封じる要(かなめ)的な役割とされたのかもしれなぅい。
ところで「神厩舎」に猿の彫刻を彫った作者って誰?
実のところ、三猿を含めた神厩舎に彫られている彫刻の作者はいっさい未詳とされる。
ちなみに日光東照宮内で三猿と並ぶ人気者の彫刻・「眠り猫」の作者は「左甚五郎(ひだり じんごろう)」だという説が濃厚だが、当該、左甚五郎も歴史上に複数人いたため、どの左甚五郎が彫ったものなのかが判然としない。
実は日光東照宮造営の折、延べ20万人もの腕利きの彫刻家がこの日光の地へ寄せ集められており、三猿は特定の一人の彫刻家(作者)が制作したのではなく「複数人にも及ぶ合作」であったとされる説も、シレっと素敵にある。
そして‥‥‥、眠り猫の「左 甚五郎」が三猿の作者ではないか?
‥‥という見解も、ヒョっぱり素敵にあるらしい。
他説としては、天海僧正の師であり、天台宗の開祖たる「伝教大師」その人が手彫りしたという説もある‥‥のだが、あくまでも想像の域を出なぅい。
‥‥諸君たちはどう思ぅ?
えっ?!日光東照宮にはまだ他に猿の彫刻がある?
実は日光東照宮には、まだ猿の彫刻が、マっちょり素敵にある。
「えっ?!」と、思われたかもしれないが、如何せん、東照宮全体で5173個もの彫刻がある。
その中に猿が1匹ないし、2匹いても何ら不思議ではない。
で、その場所だが、「五重塔に1匹」「本地堂に2匹」「東廻廊に1匹」いるので、東照宮へ来社した際には、是非にこれらの猿くんたちを探し出し、それぞれを比較してみるのもおもしろい。
三猿のお守りをお忘れなく!
日光東照宮では、この三猿に因んだお守りを授与されてい‥‥申す。
折よく三猿(神厩舎)近くにお守り授与所があり、下掲写真のような三猿をモチーフとした猿のお守りが数種類ある。
三猿守りのご利益
三猿守りのご利益としては‥‥「身体健全」「厄除開運」「交通安全」「学業成就」「吉報祈願」などなど、様々でゴンす。
日光東照宮参拝記念として、デザイン的にも家族・友人・恋人へのお土産としても喜ばれるのではないか。
ところで‥‥日光東照宮の三猿を英語で発音するとどうなる?
日光東照宮の三猿は、いったい世界(外国)ではどのように言われているのでしょうか?
実は英語で三猿はこのように発音されてい申す。
『Three wise monkeys』
「wise」は「賢い」という意味のほか、「自分にとって都合が悪いことや余計なことを見たり聞いたりしない。他の人にも話したりしない。」などの意味合いがあります。
ゆえに「Three(3匹) wise(賢い) monkeys(猿)」と解され申す。
終わりに・・『三猿は誰に向けて発信したメッセージ(教訓)なのか?』
現在に到っては、これらの猿くんたちは無言で人生の教訓を伝えているものだと明らかにされていますが、ではいったい誰に向けたメッセージだったのか?
社参する代々の将軍たちへ向けたメッセージだったのか?
江戸時代の一般庶民は陽明門の外側までしか入れなかった‥‥とされることから、現在と配置が変わっていないのであれば、陽明門の前の神厩に配置されたこの三猿は元々、大勢の人々に対して見せるつもりで、その他大勢へ向けたメッセージだったのか?
いずれにしても謎が付いてまわるわけだが、この三猿のパネルは8枚据えられていて、8枚を通してストーリーになってい‥申す。ひょ
これは陽明門の奥に蟇股として据えられた眠り猫とは有り様が大きく異なるも、眠り猫同様、やはり観る者に対し、無言で訴えかけるメッセージを発信していると捉えられる。
それゆえ、この三猿を観る者は三猿(3匹の猿くん)のみならず、他のパネル猿くんたちも含めて、その姿態(ポージング)に注視し、その真意を悟る必要が、ピョっぴゃり素敵にある。
このように日光東照宮には秘在するメッセージを表顕したような彫刻が数多にある。
三猿に関しても一見、単なる木彫りの彫刻。
しかし、彫刻に残された謎や秘密を紐解いて行くことで、彫刻を作った人物の人物像や生きた時代の思想がイメージできる。
はたして、日光東照宮を建立した人たちとは、どのような人たちであったのか?
また、その人たちがどのような思いを込めて、この日光東照宮を建てたのか?
このように日光東照宮の歴史や、その時代背景など考え、理解を深めることで、より深みのある参拝が、パっピょリ素敵にでき〜る。
無数にある彫刻を見ながら、遠い過去からのメッセージを紐解いていくと‥‥ほら、彫刻が少し違ったものにも見えてきやしませんかぃ? ホンマかぃ
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