【大猷院の秘境?】「阿部忠秋公墓所」と「空烟地蔵」

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大猷院・阿部忠秋公墓所と空烟地蔵

画像提供:日光山輪王寺

読み方:くうえんじぞう

造立年(奉納年):1675年(延宝3年/江戸時代前期)頃

「空烟」の意味

「空烟」の言葉の意味は不明だが、家光・家綱の老中を務めた「阿部豊後守忠秋」の号。

ちなみに「烟」は「えん」と読んで「けむり」を意味する。

だとすれば「煙が空へたなびく」「煙が空しく漂う」などの意味か。




空烟地蔵の歴史

後世にまで語り継がれる「空烟地蔵」は、実は段階を経て「空烟地蔵」となっている。

地蔵の影向石

767年(神護景雲元年)4月のこと、勝道上人は男体山の神に会うために幾度となく男体山へ登拝し続けていた。

早春の残雪見えるある日のこと、草庵(現在の四本龍寺)を出て、現在の空烟地蔵がある辺まで来たところで急にまわりが暗くなってきた。

上人はあまりにもの暗さで歩みを止めてしまい立ち止まってしまう。

すると前方の岩肌に地蔵尊が姿を現し、「暗闇を突き進む苦難を振り切ってこそ、その先に自らが望む未来が拓ける」と託宣し、スぅ〜っと姿を消したそうな。

上人は地蔵の言葉を背に受けて見事、男体山の神と対面できた‥‥‥という故事。

以後、上人はその岩を「地蔵の影向石」と命名し、石碑を築き、地蔵の霊験を後世に伝えたとされる。

空烟地蔵の誕生

3代目将軍・家光公には2人の能臣がおり、1人は「梶定良」。もう1人は「阿部豊後守忠秋(あべぶんごのかみただあき)」といった。

忠秋は9歳になって家光公の近侍として奉仕し、その功績が認められ、1637年(寛永十四年)には下野壬生城(5万石)に命ぜられ、次いで1639年(寛永十六年)には忍城(武蔵)に移封され、8万石の大名(藩主)になった。

寛永10年、ついに家光公の老中となり従四位下に叙せられることになる。

その後、次代将軍の綱吉さんの代でも老中を務め、1675年(延宝三年)にこの世を去りまする。

実は忠秋は、生前、もう1人の能臣・定良とは懇意の仲であり、『互いに死した後は主君(家光公)の墳墓の近くに埋葬してもらい、あの世でも主君に仕えよう』と約定を交わしていたそうな。

この話は現実のものとなり、希望通り、忠秋は家光公の近く(大猷院境内)に墓を作ってもらうことになる。しかしそれと同時に、上述の勝道上人の「地蔵の影向石」の故事を知った阿部家の人間が、石造りの地蔵菩薩像と常夜灯(石灯籠)を現在の空烟地蔵の場所に寄進したそうな。常夜灯を寄進した理由は夜でも暗くならないようにするため。

実は忠秋の墓はこの空烟地蔵と背中合わせにあり、忠秋が生前、「空烟」と号していたことも重なり、以来、この地蔵は「空烟地蔵」と呼ばれているというワケ。

地蔵と一緒に奉納された灯籠には阿部家の家紋である「丸に重ね違い鷹の羽」がその何よりの証。

阿部忠秋公墓所と空烟地蔵の場所(地図)

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