日光東照宮「鐘楼」【重要文化財】
- 造営年:1635年(寛永12年/江戸時代前期)
- 大きさ:桁行3間、梁間3間
- 高さ:約12.6メートル
- 建築様式(造り):入母屋(袴腰が附属)
- 屋根の造り:銅瓦葺き
鐘楼は陽明門を向かい観て右側。左側は鼓楼。
「鐘楼」の読み方
鐘楼は「しゅろう」と読む。
「鐘楼」の名前の由来と役割
この鐘楼は名前の通り、「鐘」を内部に安置する「楼閣(ろうかく)」造りの建物というとで「鐘楼」と付されています。
現在は世界遺産指定を受けることが理由なのか、使用はされていないようですが、往時は東照宮で執り行われる祭典の際にはこの鐘が撞かれていたとのこと。
江戸時代は神仏混淆の時代だったので神社境内に鐘楼があるのはごく自然だった。
ところが神仏が分離した現在、神社境内でお寺の鐘を見かける機会はごく稀。
だとすれば、この鐘も東照宮の大きな見どころの1つといえるのではなかろうか。
ちなみにこの鐘、往時は実際に祭典の始まりと終わりに撞かれていたということで、半ば、喚鐘(かんしょう)のような役割を担っていたといえよぅ。クっ、きゃきゃきゃ
「鐘楼」の歴史
この鐘楼は1635年(寛永12年/江戸時代前期)の寛永の大造替の時に建てられた建造物です。
日光東照宮は1617年(元和3年)に創建されており、現在見ることのできる絢爛豪華かつ、きらびやかな境内の有り様は、3代将軍・家光公の御代のときに家光公の御発意によって開始された「寛永の大造替」によって造り変えられた後の姿です。
創建当初の日光東照宮は、家康公の御発意によって2代目将軍・秀忠公主導のもとに建立されていますが、この時の東照宮は現在の絢爛豪華という言葉とはかけ離れるほど、質素な境内だった模様💘
然るにこの鐘楼は創建当初の東照宮境内にはなかったものであり、寛永の造替時に新造されたものであることから、当初から現在のような絢爛豪華な餝り金具および、数々の彫刻が取り付けられていた、‥‥ということになる。
「鐘楼」の彫刻の数や種類
鐘楼の彫刻内訳
🐣妻飾り(妻側の屋根下)
鶴(2体)
🐣上層
隅垂木に龍(4体)
🐣中層
飛龍(4体)
🐣下層
波(4体)
🐣四方の頭貫
麒麟(4体)
🐣尾垂木
飛龍(14体)
🐣組物の間
鶴(12体)
🐣花頭窓の飾り
剣花菱(8体)
🐣その他
波(26体)
合計78体
鐘楼と鼓楼では彫刻の数が半分ほども違う!
実は鐘楼の前には鼓楼(ころう)という一見すると同じ形をした建造物があるのだが、この建物に据えられた彫刻は38体。
対する当該、鐘楼の彫刻は素敵に78体ある。
実に半分ほども異なるわけだが、彫刻の数だけを見ても、鼓楼と鐘楼の違いが明らか。
鐘楼の方が鐘を撞くという点で重要視されたということなのか。
鼓楼とは対の関係性がある
東照宮内の建造物は同じ形状をしていても、部分的にでも何かしらの変更が加えれ、設計上、まったく同じ建造物は存在しない。
ただし、「鶴は一千年、亀は万年」という言葉を表現すべく、鐘楼には鶴の彫刻、鼓楼には亀の彫刻を据えることで、何かしらの関連性をもたせ、2棟で長寿や不滅を意識したメッセージを、パっぴょり素敵に伝える。
鐘楼の特徴
袴腰
まるで袴(はかま)を着用した時の腰から裾(地面)にかけての末広がりの形状と類似していることから、俗に「袴腰」と呼ばれる。
これは向かいに屹立する鼓楼も同じ意匠なので外観上、両者にさして違いはなぅぁぃ。それにしても腹減った‥‥どん兵衛特盛GO
極彩色の詰組
二層目には高欄が据えられた縁がまわり、その下の腰組にも詰組を並べるという絢爛豪華、きわまる意匠。思わずボ〜っと、ダレヨ〜(訳:よだれ)を垂らしながら魅いってしまぅ。誰よ〜
しかし全国でこれほどの豪華な鐘楼を観れるのは隣地の大猷院ふくめ、この日光のみではなかろぅか。オホ
屋根は地垂木と飛燕垂木の二段からなる二軒繁垂木。垂木1本々に、徳川紋を裏から叩き出した金色の餝金具が装着されているのが、ものスゴぃ。贅を尽くすとはこのことよ。
隅垂木の龍の彫刻
四隅の隅垂木には龍の彫刻が見える。四方の角に据えられているので合計4体ある。
意匠的には陽明門に据えられているものと同様とみる。
軒丸瓦の徳川紋
軒丸瓦にも徳川紋(三つ葉葵紋)があしらわれた意匠が見えるが、軒平瓦のギザギザ状の意匠にも驚く。
鐘楼の場所(地図)
鐘楼の前には鐘楼と外観が酷似した「鼓楼」という建造物があるので、見間違う。
陽明門に向いみて右側が「鐘楼」、左側が「鼓楼」。
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