【日光東照宮(薬師堂)「鳴き龍」】由来(伝説)や意味と歴史を‥‥知ろっかなぁ〜

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日光東照宮には「眠り猫」や「想像の象」と同じぐらい見逃せない場所があります。

それこそが天井に”鳴き龍”と称される龍画が描かれている「薬師堂(本地堂)」です。

日光東照宮・薬師堂(本地堂)および天井画「鳴き龍」【重要文化財】

日光東照宮 「鳴き龍(薬師堂)」の由来・意味・伝説・歴史⬆鳴き龍

⬆薬師堂(本地堂)

創建年

1636年(寛永13年/江戸前期)

再建年

1963年(昭和38年)〜1968年(昭和43年)
2013年(平成25年)※修繕

御本尊

薬師如来像

建築様式

一重入母屋造

屋根の造り

銅瓦葺

大きさ

桁行七間(奥行:約14m)
梁間五間(横幅:約10m)
向拝三間(前面庇:約6m)

造営者

左甚五郎(棟梁)※推定

天井画「鳴き龍」の鏡天井の作者

左甚五郎(棟梁)※推定

行事

正・5・9月8日 薬師堂法楽

薬師堂の読み方

薬師堂は「やくしどう」と読みます。

この薬師堂は「本地堂」の別名を持ち「ほんちどう」と読みます。




「薬師堂」の名前の由来

薬師堂の名前の由来になっているのは、堂内にて奉斎される「薬師瑠璃光如来」にちなむものです。

日光東照宮を造営した天海大僧正は、天台宗の率いた高僧であり、その天台宗の中核的な教理の1つに「山王神道説」という概念があり申す。

山王神道とは、山岳信仰、神道、天台宗が習合した言わば神仏を習合させて崇拝する神道です。それゆえ、山王権現は釈迦の垂迹した姿であるとされています。

※注釈※垂迹とは?垂迹とは「本地垂迹」のこと。本地垂迹とは、八百万の神々は、実は様々(八百万)の仏が化身とした姿とされ、その神仏が融合した姿を「権現(ごんげん)」と呼び習わした信仰。

天海僧正は山王神道説をさらに独自に訳して「山王一実神道」という教理を生み出し、山王権現は大日如来(仏の最上格)であり、天照大御神(神の最上格)であると説いたのです。

これに倣い、家康公の御霊を天照大御神に比定される東照大権現として、神号を用いています。

さらに天海僧正は、東照大権現は、薬師如来の垂迹した姿であるとし、その由緒を記した「東照大権現縁起」を編纂してい‥‥申す。

この東照大権現縁起によれば、家康公の両親は薬師信仰の敬虔な信者であり、峰の薬師と呼ばれた「三河の鳳来寺」に祈願して誕生した、薬師如来の生まれ変わりだと説いています。

また、東照大権現は天から照らす天照大御神に対し、東から照る「東方薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」と説いています。

つまりこの薬師堂では東照権現であり、薬師瑠璃光如来でもある家康公を本尊として祀っていることになりまする。

これがまず、薬師堂の由来でゴザる。

「本地堂」の名前の由来

「本地堂(ほんちどう)」の名前の由来のもとになっているのが、「本地仏」の「本地」です。

仏や菩薩(ぼさつ)が神の姿で表現されること「垂迹身(すいじやくしん)」と言います。つまり、仏式の仏や菩薩が、神道の神さまに変化するということです。神さまなので姿は見えなくなりまする。

「本地」とは、その垂迹身として現れる前の仏や菩薩の時の姿を意味しまする。

これを上述、徳川家康公に例えた場合、家康公=東照大権現とした場合、東照大権現の本地仏は「薬師如来(正式名を”薬師瑠璃光如来”という)」になり申す。

それゆえ、本地堂とは神道式の神社である東照宮が用いる建物名となり申す。

「本地堂」「薬師堂」の歴史・由来

薬師堂(本地堂)は、寛永の大造替の時に建てられた日光東照宮の中でも最大規模の建物で、その大きさに加え、「総漆塗極彩色」豊かで華麗な外観が特徴的です。

そして、この「薬師堂(本地堂)」は、重要文化財の指定を受けています。

薬師堂は神社である日光東照宮内にあるのですが、神仏分離令によって、お寺である輪王寺と日光東照宮が切り離されてしまいます。

このため薬師堂は輪王寺の所管になってしまったため、現在は東照宮の境内にありながら、寺院としての扱いになっています。

本地堂は、1961年(昭和36年)に焼損しており、現在見ることのできる姿は1963年(昭和38年)〜1968年(昭和43年)に再建されたものです。

「薬師堂の鳴き龍」とは?

この薬師堂にはヒノキ板が34枚もはめ込まれた鏡天井がありますが、さらに狩野派の「狩野永真安信(かのう えいしん やすのぶ)」によって描かれた、縦6m、横15mの巨大な龍の水墨画風の絵が描かれています。

この龍こそが「薬師堂の鳴き龍」と呼ばれている龍の絵です。

 鏡天井(かがみてんじょう)とは?

枠縁を設けずに、スギやヒノキなどの板を、鏡のように平らに敷き詰めて仕上げた天井。

 狩野永真安信(かのう えいしん やすのぶ)とは?

江戸時代の狩野派の絵師。画家として異色の才を放つ狩野派の中でも駄作が多く、特に才能が劣るとして後世まで語り継がれている人物です。

しかし、薬師堂の「鳴き龍」を見る限りでは、それが単なる風説であることが容易に理解できるでしょう。

天井に龍が描かれる理由とは?

龍の天井画は、日光東照宮(輪王寺)の薬師堂以外にも、日本中の仏教寺院にあります。

有名どころとしては、京都の建仁寺、東福寺、妙心寺、天龍寺高野山南院(波切不動尊)などが挙げられます。

お堂の天井に龍が描かれる理由としては、以下のようなことがあると言われています。

  • 龍神は水を司る神なので、寺を火災から守るという意味が込められている。
  • 龍は雨を降らせる力があるとされることから、「法の雨(のりのあめ)」を降らせると言われているため。
 法の雨とは?

仏教の教え(法)がすべての衆生(しゅじょう)を救うということを、万物を潤す恵の雨に例えた言葉。
「法の雨を降らせる」とは、仏教の教えを広め、衆生を救うという意味。




薬師堂の「鳴き龍」が別名で「鈴鳴龍」と呼称される理由とは?【音声・動画付き】

薬師堂の龍の絵は、龍の顔の下で拍子を打つとカーンと音が鳴ったあと音が共鳴し、鈴を転がしているような龍の鳴き声に聞こえるため、「鳴き龍」または「鈴鳴龍」と呼ばれているそうです。

拍子を鳴らす場所が龍の顔から離れてしまうと、音が共鳴せず、全く鳴かない場合もあります。

薬師堂の龍の絵が「鳴き龍」・「鈴鳴龍」と呼称されるに至った歴史

薬師堂の龍の絵が「鳴く」ということは、1905年(明治38年)ごろ、初めて東照宮内部を一般公開することになった時に、偶然に発見されたものとされています。

当時、掃除をしていた職員の方が、天井に住みついた鳩(はと)を追い出すために手を叩いたところ、まるで龍が鳴いているように音が反響する現象を発見し、瞬く間にその噂が広まったのだそうです。

以降、まるで龍が鳴いているようにも聞こえることから「鳴き龍」という名前が付けられて、伝播していったと推察されています。

なお、薬師堂は1961年(昭和36年)に当時の輪王寺の職員の方の失火による火災によって焼失してしまったため、現在の建物は再建された物です。
この時、狩野永真安信によって描かれた龍も焼けてしまったため、現在の鳴き龍は日本画の巨匠・堅山南風(かたやま なんぷう)によって復元されたものです。

鳴き龍が反響によって鳴く理由

このように手を叩くと音が反響して天井の龍が鳴いたように聞こえる理由は、天井の中央部(龍の顔の部分)が屋根の方向へ向けて6センチほど反り上がっているためです。

天井が高いので、肉眼では真っ平らな天井に見えるのですが、実は、四隅から中央部にかけて天井板がわずかに湾曲しているため、小ホールのような環境ができ、音が天井と床との間で反響しやすくなっていたのです。

ちなみにこのような現象を「フラッターエコー(定在波)現象」と呼ぶそうですが、このような現象が起こる条件は主に次のとおりです。

  • 床と天井に硬質の木板を使用している(音がよく反響する)
  • 天井の中央部が凹んでいる(音が拡散しにくく、より長い時間聞こえる)

フラッターエコーとは、いわゆる音響障害のことであり、薬師堂の鳴き龍の声が顔の部分でしかよく聞こえない理由は、天井の中央部分(龍の顔の部分)がわずかに凹んでいるためです。

1961年(昭和36年)に再建されるまでは、1636年の創建時の建物がそのまま現存していたことになりますので、約400年の時を経る過程で、湿気や乾燥の影響によって、天井板が自然に湾曲していたったものだと推察されています。

ただし、別の説では、この本地堂を設計して造営したとされる眠り猫で有名な名工「左甚五郎」が、設計の際、わざと音が反響するように意図的に造ったとも考えられています。

しかしながら現在に至っては火事で焼失してしまい真相は闇の中と言わざるをえません。

現在でも1961年に焼失した時とまったく同じ音が聞こえますが、これは理由があって、なんとぉぅ!1961年の再建時に以前の薬師堂を忠実に再現したことから、天井板も以前のまま音が反響するようにわざわざ6㎝中央部へ向けて湾曲を付けたからなんだそうです。
(建築専門用語では、天井板などに湾曲をつける技法もしくは付くことを”起くり(むくり)”と呼称するようです)

画像引用先:https://blogs.yahoo.co.jp/kuhiko5107279/

再建時には、生研(東京大学生産技術研究所)の教授やそのチームによる、鳴き龍の声(音)や薬師堂の形に関する研究が行われました。

まず、研究チームでは、焼失前の唯一の「龍の鳴き声」の音源である、1954年(昭和29年)のNHKが録音したテープの音の分析が行われ、再建後も以前の鳴き龍を復元できる可能性があるという結論に達しました。

そこで、薬師堂の「鳴き龍」があった内陣の4分の1スケールの模型を製作し、むくりの大きさや拍子木を打つ位置の違いによる音の質や長さの変化を確認するため、幾度もテストしたとのことです。

この後、完成した鏡天井に「堅山南風 画伯」が前代の鳴き龍を模写するように描き、1968年(昭和43年)に無事、再建が完了し、今日に至るというワケです。

以上のことから、かなり入魂して再建された堂舎であることが分かりますね。




日光東照宮・鳴き龍(薬師堂)の場所(地図)

陽明門を向かい見て左脇の最奥、鼓楼と陽明門の回廊の間を進んだ先に位置します。

薬師堂(本地堂)の正面には「鳴き龍」と大きく看板が出ています。

日光東照宮の境内になぜ仏式の「薬師堂(本地堂)」がある?

日光東照宮の境内地図をご覧になれば理解が進みますが、神社であるにも関わらず、例えば、この薬師堂(本地堂)以外にも経蔵(輪蔵)のようなお堂が建っています。

この理由は、日光山の全権はその別当寺である天海僧正が率いた日光山輪王寺が統べていたことから、日光東照宮は輪王寺の管理下に置かれていたのです。

また、江戸時代は神仏混淆の時代であり、分かりやすく言えば、仏壇に神が祀られていたり、神棚に仏が祀られているような状況でした。

それゆえ、神社である東照宮の境内には、この薬師堂(本地堂)のような薬師如来を奉斎したり、経蔵のような仏式の経典(お経が書かれた本)を収納する建物も現存しています。

薬師堂に関しては現在、輪王寺の所管になっていますが、日光東照宮の境内にあるということで初めて日光に訪れた観光客でも理解しやすいようにあえて「日光東照宮」をタイトルに含めています。

経蔵に関しては所有権が判然とせず、東照宮境内にある建造物ということで「日光東照宮・経蔵(輪蔵)」という表記(タイトル)にしています。

薬師堂の鳴き龍を見たあとは、「鈴鳴龍守」を授かる!

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