日光東照宮「蓮灯籠(オランダ製の燭台)」【重要文化財】
- 奉納年:1640年(寛永17年)
- 様式:スタンド型灯籠
- 高さ:約3.6メートル
- 奉納者:東インド会社オランダ商館(オランダ国)
オランダから2回目に奉納された灯籠
蓮灯籠
この灯籠の外観をご覧になれば分かるように、モロに洋風の燭台に見えまする。‥‥‥というより燭台そのもの。
実はオランダから江戸幕府(家光公あて)へは、この蓮灯籠を含め、合計3基贈られていますが、この蓮灯籠はポルトガル船の来航禁止令を出した翌年となる1640年(寛永17年)にオランダ国から贈られたもの。
案内板(立て看板)の内容
オランダ国からの奉納。
蓮燈籠は廻廊の胴羽目下の燭台と共に寛永十七年(1640)に奉納された。
平成12年(2000)には日蘭交流400年を記念してアムステルダム国立美術館にて開催された特別展覧会に出品されている。
蓮灯籠の特徴
イルカをイメージして造成された蝋燭台。
蓮灯籠がオランダから献納された理由
日本は1639年(寛永16年)の鎖国成立以後、中国、朝鮮そしてオランダを除くすべての諸外国との国交を断ち、西欧では唯一、オランダに限定しておよそ200年間も貿易を行っている。
西欧が日本と交易をしたがった理由は日本で採掘される豊富な銀。この当時、日本で採掘される銀の量は実に世界の3分の一もの量を誇っていたとされる。
しかし、1600年(慶長5年)、オランダ商船「リーフデ号」が九州豊後に漂着したのを機とし、オランダと日本の国交が開ける。
これにより、当時スペインとポルトガルのみだった交易対象国にオランダが名前を連ねることになる。
オランダ国は西欧では勢力を伸ばしつつあった背景もあり、次第にオランダとスペイン、ポルトガルとの間に摩擦が生じる結果を生む。
その代表例が1609年に幕府に提出されたイギリスとの連名による文書。その内容はスペインとポルトガルは表向きはキリスト教布教を豪語しているが、水面下で日本を侵略するための調査を行っているというもの。
この当時のオランダに残された文書として、次のようなものがある。
「日本人は誇り高い。日本との貿易は会社(東インド会社)にとって最重要であり、だからこそ我々は卑小であるという姿勢を保ちつづけなければならない。日本人の目を我々の卑小な外観にそむけさせることが肝要」
こうしてオランダは1635年(寛政12年)を迎えるまでに幕府の要人となる老中・酒井忠世はじめ、松平信綱などにオランダ製の望遠鏡をはじめとした実用品の数々、さらにオウムをはじめとしたペット類、洋式ベッドなどの珍品の数々を贈呈する。
この結果が功を奏し、1635年(寛政12年)に幕府は日本人の海外渡航禁止令を出して朱印船を封じ、ついで1639年(寛永16年)になるとポルトガル船の来航禁止令を発令し、これにより事実上、オランダは日本の貿易独占に成功することになる。
日本にオランダ灯籠がはじめて献納された年
オランダ国がはじめて家光公へ灯籠を贈ったのが、朱印船貿易停止の翌年(1636年/寛永13年)のこと。
2回目の献納はポルトガル船来航禁止令の翌年(1640年/寛永17年)。
オランダ国はさらに追い打ちをかけるかのように日本への献納をエスカレートさせた。
1639年(寛永16年)、オランダから家光公宛てにオランダ灯籠が家光公に贈られる。家光公は大喜びし、捕縛中だったノイツ(ノイツ事件)を釈放している。
家光公にとって家康公を奉斎する日光東照宮の存在は重要なものであり、それを知った上でオランダ(東インド会社)はオランダ灯籠を贈ったのである。
蓮灯籠の場所(地図)
陽明門に続く22段の石段下、鐘楼脇にあるのが蓮灯籠。