日光東照宮「銅神庫」【重要文化財】|奥社(奥宮)

スポンサードリンク

「奥社」とは?

「奥社」とは別名「奥宮」とも呼ばれ、神社境内にて本社より奥にある神社のことを言いまする。

日光二荒山神社を例に持ち出せば、ふもと(山裾)にある神社(本社)に対して山頂にある「太郎山神社・滝尾神社・二荒山神社」を奥社もしくは奥宮と呼んでいまする。

お寺では「奥の院」などと呼ばれたりしますが、そのお寺で功績のあった人物や創建した人物や開基となる方が祀られたりしまする。

奥の院は基本、本殿から離れた場所に建てられている場合多く、このような「奥」が付されたりします。

中には奥社に入れるのは関係者や縁故の者だけという社寺もありまする。

これを日光東照宮に例えた場合、奥社(奥宮)にて永眠される徳川家康公とは江戸幕府を創建し、誰もが夢見た日本を100年以上続いた太平の世に創り変えた偉大なお方です。

日光東照宮はその家康公の御発意によって創建されたことから、家康公がお寺でいうところの開基にあたりまする。

奥社で奉斎されるのは偉大な功績を残した人物というのは、これに見事に当てハマりまする。

奥社は歴代将軍以外何人たりとも進入禁止だった神聖な場所

奥社(奥宮)は家康公が眠るとされる日光東照宮でもっとも神聖な場所とされている。

ここは元来、歴代徳川将軍しか立ち入ることが許されなかった場所でもあり、江戸時代であれば我々一般庶民は、けっして立ち入ることすら叶わなかった空想上の聖地と相成ります〜る。オギャ

しかし1965年(昭和40年)に執り行われた「日光東照宮・三百五十年式年大祭」を記念して、特別に一般公開され今日に至っている。

奥社(奥宮)は意外に広く、以下のような建造物があるのでゴザる。

日光東照宮・奥社(奥宮)の建造物・一覧

以下ではこの中でも銅神庫をご紹介しましょう。

日光東照宮「銅神庫」【重要文化財】

  • 創建年:1654年(承応3年)
  • 建築様式:寄棟造
重要文化財登録指定年月日

1908年(明治41年)8月1日




日光東照宮「奥社銅神庫」の歴史・由来

銅神庫は銅鳥居の脇に建っている建物です。

ここにはかつて家康公の南蛮製の甲冑や刀剣などのご愛用の品々や、位記(いき=天皇から授けられた官位を証明する書状)や太政官符(律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書)、宣命(天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書)などの書物など、最重要とされる宝物が収められていました。

そんなことからかつては「宝蔵(ほうぞう)」と呼ばれていました。

現在、これらの品々のほとんどは日光東照宮宝物館などへ移されています。

天台宗を信仰した天海大僧正が設計に携わっただけに、台密の建物によく見かける金色の密教法具の輪宝(りんぽう)が見えます。

清浄な空間を保つために輪宝で邪気を防いでいるのでしょう。上野東照宮の本殿でも同様の輪宝が据えられてい‥‥‥申す。ギャホぇ

輪宝は「転法輪」とも呼ばれる

転法輪、すなわち法輪とは、「仏の教え」のことを意味し、車輪がクルクルと回るように仏法が世にあまねく広まる様を表する。

 

江戸期に建てられたものとは思えないほど綺麗な外観をしていますが、これは江戸時代には将軍およびその一部の関係者しか立ち入りが許されなかったという背景が浮かび上がります。

現在は修学旅行生をはじめ、多くの外国人も訪れるなど、何かとこの銅神庫の前は混雑し、ガヤガヤと賑々しい雰囲気があります。

しかし、江戸期のこの場所は静寂に包まれ、小鳥のさえずりやセミの鳴き声だけがコダマするような、大自然の伊吹に包まれたような場所だったのでしょう。

建築様式(造り)

この銅神庫にも奥社拝殿に見られるような黒漆塗りがほどこされた銅板が建物全体に用いられており、さらに飾り金具が据えられた意匠が見える。

銅板を加工した連子窓なども、そうそうに見られるものではないだろぅ。オホっ

たかが倉庫といえど、将軍の物を収納しておく倉庫ともなれば、こぅも造りが重厚になるのかと、あらためて実感できる場所です。

見どころ

石造り狛犬像

看板の内容

松平右左衛門大夫正綱・秋元但馬守康朝よりの寄進。両者は家康公の遺臣であり寛永期造替の際に造営奉行を務めたことから特別に奉納を許された。

松平正綱とは?

松平正綱は東照宮の参道を整備する一環で杉を2万4000本を植林し、東照宮の維持管理と景観の改善化に務めた人物。

現在、松平正綱が植樹した杉は生長を果たし、「日光杉並木」として【史跡名勝天然記念物】【文化庁歴史の道百選】【特別史跡・特別天然記念物】など諸々の指定を受ける日光を代表する観光スポットにまでなってい‥‥‥申す。ギャヘっ

秋元康朝とは?

秋元康朝は上野・総社藩主(現在の群馬県前橋市元総社町)次いで、甲斐国・谷村藩の城代(現在の山梨県都留市付近)を務めた人物。

3代将軍・家光公の御発意による日光東照宮の寛永の大造替(1634年(寛永13年)〜1636年(寛永15年))の際には総奉行を務め功名を立てた。 

大坂城の堀埋め立て工事はじめ、自身の藩下、総社町の建設設計や新田開発、用水路の開削事業、検地など、土木建築で名を馳せた。




日光東照宮「奥社銅神庫」の場所

日光東照宮の奥宮(奥社)の拝殿前の通路脇にヒッソリそりそり髭剃りなほどにヒッソリと佇んでいる倉庫です。

坂下門からの207段の石段を昇った先でまず、参拝者を出迎えてくれる奥社(奥宮)の表玄関ともなる鳥居をくぐった右脇にあるでゴンす。

関連記事一覧

スポンサードリンク -Sponsored Link-


当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。