【日光山輪王寺「三仏堂(本堂)】歴史(名前の由来)とは?見どころは星祈願と限定御朱印!

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日光山輪王寺「三仏堂」【重要文化財】

⬆️写真は平成の大修理時のもの

⬆️現在(大修理後)の三仏堂

⬆️南西方向より素敵に撮影💋

創建年

  • 寺伝では848年(嘉祥元年)
    ※829年〜33年(天長6年〜10年)という説もある。
再建年

  • 1645年(正保2年)
  • 1954年(昭和29年)から1936年(昭和36年)

※平成19年(2007)8月より2020年(平成19年)まで平成の大修理を実施。

建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 一重もこし付
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行(横幅):33.8m
  • 梁間(縦幅):21.2m
  • 高さ:26m
材質

  • ケヤキ
重要文化財指定年月日

  • 1917年(大正6年)4月5日
発願者

  • 伝・勝道上人(創建)
  • 伝・円仁(中興)
  • 徳川家光(江戸幕府3代目将軍)
  • 明治天皇




日光山 輪王寺「三仏堂」の読み方

にっこうさん りんのうじ さんぶつどう

三仏堂の大きさ

外柱の端から端まで約34メートルもあり、日光最大の建造物です。東日本では最も大きな木造の建物でもありまする。

三仏堂の役割

この三仏堂は日光山輪王寺の本堂にあたるお堂です。日光山輪王寺の中心となるお堂でもありまする。

三仏堂内では輪王寺における様々な大法要が執り行われています。

「日光山」とは?

日光山とは、輪王寺の山号です。

ただ、ほかにもこの輪王寺を含めた二荒山神社や東照宮を含めた日光寺社群が軒を連ねる一帯を「日光山内」とも呼びます。(住所地では”日光市山内”と表記される)

ほかに栃木県北西部の男体山(2,486m)、女峰山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を中心とした山岳地帯の総称も「日光山」と呼びまする。

輪王寺の山号に日光山があてがわれた理由は、明治初年の神仏分離令の影響によるものです。

「輪王寺」とは?

輪王寺とは15の寺院(支院)の総称が輪王寺です。

かつては四本龍寺から始まり、後に嵯峨天皇から「満願寺(まんがんじ)」の名前を与えられ、改称しています。

全盛期には109もの支院を連ねるほどの大伽藍を擁した大寺院であったと伝えられています。

「輪王」とは?

輪王の意味を辞書で調べると次のような事柄が記載されてい‥‥‥申す。

「転輪王(りんてんのう)」「転輪聖王」の略。連声で「りんのう」ともいう。

「輪王」とは 仏語。
身に三十二相を備え、武力によらず正義によって、感得した輪宝を回転させて四方の世界を治めるという理想の帝王の意。
輪宝の種類により金輪王・銀輪王・銅輪王・鉄輪王の四王が立てられる。

日光山 輪王寺「三仏堂」の歴史(年表)

三仏堂は現在の輪王寺の本堂にあたる建物ですが、輪王寺の前身は勝道上人(しょうどうしょうにん)が建てた「四本龍寺(しほんりゅうじ)/紫雲立寺(しうんりゅうじ)」とされ申す。

その四本龍寺は天平神護2年(766年)に創建されていますが、当初は現在の本堂(三仏堂)がある場所から約1kmほど離れた、稲荷川(大谷川支流)付近もしくは滝尾神社付近だっとされてい‥‥‥申す。

三仏堂の創建年

この三仏堂の創建年は古いのですが、現在に至るまで確証となる資料が現存しておらず、不詳とされてい‥‥‥申す。グホっ

寺伝によれば848年(嘉祥元年)に関東巡礼中の円仁(慈覚大師)が立ち寄り、その折、三仏堂、常行堂法華堂を創建したとされてい‥‥‥申す。グヘっ

創建された場所も現在地ではなく、現在の滝尾神社付近だと伝えられてい‥‥‥申す。ガハっ

円仁が来山したことにより、それまで山岳信仰ならびに修験道の聖地とされていた日光にも、にわかに天台宗が広まりをみせます。

そして、この頃から輪王寺は天台宗に属する寺院として日光山の信仰の中核を担い、この三仏堂はその中心的な役割を担う堂舎としての歩みをみせまする。

鎌倉時代

三仏堂は創建以来、移建が繰り返されたが、創建当初は稲荷川河畔の滝尾神社(たきのおじんじゃ)近くに建っていたらしい。

ところが仁治年間(1240年から1242年/鎌倉時代)に鎌倉幕府3代目将軍「源実朝(みなもとの さねとも)」によって、現在の東照宮が建つ地に移築されてい‥‥‥申す。グハっ

江戸時代

1617年(元和3年)

1617年(元和3年)、日光東照社(現在の日光東照宮)造営のみぎり、現在の日光二荒山神社社務所あたりの場所へ再び移築されてい‥‥‥申す。ゴホっ

1647年(正保4年)

1647年(正保4年)を迎えると徳川家光公の発願により、日光東照社の境内が大改修される運びとなり、後の世で言う「寛永の大造替」が施工されまする。(寛永13年に完工)

寺伝によればこの折、大雪で倒壊した本堂も再建されることとなり、現在見られるような間口33m、奥行22m、高さ26mもの巨大な建造物として改造されてい‥‥申す。あひぃ

なお、この当時の輪王寺の寺号は「満願寺」でした。

〜1650年まで

輪王寺が現在のような大伽藍を要する大寺院になったのは1650年頃といわれる。

輪王寺が大伽藍を要する寺院になったもっともな出来事として、1650年頃から1655年頃にかけて、都から皇族が下向し、輪王(住職)として入寺したことが挙げられる。

このように輪王寺は江戸幕府や朝廷庇護のもと、三仏堂を中心に規模が拡大していき、過去最大級ともいえるほどに寺観が整っていく。

1653年(承応2年)

1653年には寛永の大造替の立役者である3代将軍「徳川家光」の御霊を奉安するため、その霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が造営されまする。(現在、大猷院は輪王寺の所管)

1655年(明暦元年)

輪王寺はこれまで嵯峨天皇(平安時代)から下賜された「満願寺」でしたが、後水尾上皇の院宣(いんぜん/天皇が発したのと同じ効力をもつ文書・命令)により新たに「輪王寺」の寺号が下賜され、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺する運びとなった。

皇族が住職になることで強大な権力を持つ寺院が誕生した

以来、輪王寺の住職は法親王(親王宣下を受けた出家した皇族男子)が入寺する形式が慣習となり、代々宮家より下向して就任することとなった。

ゆえに輪王寺の住職は「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称され、これは親子による世襲制はなく、宮家の適任者が入寺した。

「門跡」とは?

輪王寺の住職は「門跡(もんぜき)」とも呼ばれ、他に江戸(東京)の寛永寺にも門跡が置かれたため、これらを合わせ、さらに天台座主(天台宗のトップ)をも兼務したため「三山管領宮」とも呼ばれてい‥‥申した。あひぃ

輪王寺宮は、日光輪王寺と江戸上野の輪王寺、寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住職も兼務していたことから、仏教界においては比叡山、日光、上野の寺院をすべて総括していたこともあり、絶大な権力と発言力をもった。

話は少し逸れるが、神奈川県江の島も江戸時代、権力闘争の渦中にあったが、門跡寺院の仁和寺の傘下に列することで仁和寺門跡の権威を背に受けた岩本院が、最終的には江の島を支配する結果となっている。

明治時代

1869年(明治2年)

戊辰戦争終結後、その処理の一環として、明治新政府の命令により、輪王寺の称号を没収される。以後は旧称の「満願寺」に戻されることになった。

1871年(明治4年)

明治新政府による神仏分離令が明治初年に発令されると、輪王寺の大伽藍は解体され集約されることになった。

この時、本堂(三仏堂)は仏教色が色濃いとされ破却処分が下ったらしいが、木戸孝允ら諸臣の協力を仰ぎ、なんとか解体だけ免れ、江戸建築のままの三仏堂の姿で現在地に移築される運びとなってい‥‥ます。(耐)フェイント

この当時、輪王寺は幕府や朝廷の庇護が無くなったこともあって財政難に陥り、解体して運ぶだけが精一杯だったらしいが、そんな状況を嘆いた明治天皇の温情によって何とか再建が叶ったと伝わる。

1883年(明治15年)

栃木県が介在する形で新政府との交渉の末、「輪王寺」を正式な寺号にする許可が下る。

昭和時代

1954年(昭和29年)から1961年(昭和36年)

1954年(昭和29年)から1961年(昭和36年)に大改修が営まれ、国内では希少な類例となる天台密教形式の仏堂が世に姿を現した。

間口33.8メートル、奥行21.2メートル、屋根は銅瓦葺き、堂は総朱塗、柱は漆塗り、ケヤキ材を極めて素敵に用い、日光山内では最大、東日本では最大の木造建築物となる。

以上、現在見ることのできる三仏堂は、1645年(正保2年)に江戸幕府3代目将軍の徳川家光公によって再建された時の姿になりまする。(※2020年(平成32年)に改修)

現在の三仏堂が建つ場所は、ちょうど日光山内の玄関口に位置するため、日光山内巡りの始まりの場所でもある。




三仏堂の建築様式と内部構造

延暦寺の根本中堂に倣った建築様式がうかがえます。台密特有の仏堂形式の造りになっています。

例えば、以下のような台密の寺院によく見られる特徴的な外陣、内陣が設けられています

外陣

外陣部分は畳敷きで須弥壇が置かれ、須弥壇と外陣の高さは均等になるように造られています。

内陣

一方で内陣は外陣とは打って変わり、外陣より1段上がった壇上に設けられ、さらに石畳が敷かれています。

「三仏堂」と呼ばれる理由とは?「三仏堂」の名前の由来

三仏堂と呼ばれる理由は、以下の3体の仏様=三仏を奉安することが名前の由来となってい‥‥‥申す。ガハっ

  • 千手観音
  • 阿弥陀如来
  • 馬頭観音

「三仏堂」と呼ばれる理由と由来※堂内は写真撮影禁止。(写真はお借りしたものです。)

明治時代以前の日光の社寺は神と仏の信仰が一体化した場所でした。

日光山内では、主に鎌倉時代を境に神仏混淆の思想が進化し、「権現(ごんげん)」と言う信仰が生まれてい‥‥‥申す。ガハっ

権現とは、神様が地上に降臨した姿こそが、仏(仏像)であるという信仰のことを言い、三仏堂内に安置される3躯(体)の仏像がまさにその権現です。

日光山縁起に登場する神々一覧
日光三山日光三社権現日光三所権現日光三所権現本地仏(三仏)日光三神
女峰山(※母)滝尾権現女体権現阿弥陀如来田心姫命(母神)
二荒山(男体山)(※父)新宮権現男体権現千手観音大巳貴命(父神)
太郎山(※子)本宮権現(太郎権現)太郎大明神馬頭観音味耜高彦根命(子神)

※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられています。

千手観音(正面右側に鎮座)

  • 高さ:703.6cm(本尊のみ335.4cm)
  • 本地仏:男体山
  • 権現:新宮権現
  • 祭神:大己貴命

阿弥陀如来(正面中央に鎮座)

  • 高さ:756.3cm(本尊306.3cm)
  • 本地仏:女峰山
  • 権現:滝尾権現
  • 祭神:田心姫命(たごりひめのみこと)

馬頭観音(正面左側に鎮座)

  • 高さ:744.7cm(本尊301.3cm)
  • 本地仏:太郎山
  • 権現:本宮権現
  • 祭神:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)

馬頭観音像は美術院国宝修理所(京都市)にて2014年11月下旬から2015年11月17日まで解体修理されています。

この修理では頭部の大きな穴ボコの修復や、体躯の金メッキコーティングが施されています。




その他の堂内の安置仏像

伝教大師(でんきょうだいし=最澄)の尊像 ※天台宗開基

慈恵大師(じえだいし=良源」の尊像 ※延暦寺中興の祖

慈眼大師(じげんだいし=天海大僧正)の尊像 ※史上最後の大師号を持つ偉人

日光山輪王寺(三仏堂)の見どころ

 金剛桜

この三仏堂の魅力は建物の中だけではありません。三仏堂を入口の方へ正面に出てみてください。

出入り口のすぐ脇には、推定500年という樹齢を経た「金剛桜(こんごうざくら)」が春先には咲き誇ります。

出入り口のすぐ脇には、推定、500年という樹齢を経た「金剛桜(こんごうざくら)」が春先には咲き誇ります。

金剛桜の見頃と開花状況(2021年の実績)

  • 開花日:2021年4月11日
  • 満開(見頃):2021年4月20日
平年の見頃(開花状況)
  • 開花:4月20日ころ
  • 満開:4月28日前後

金剛桜は天然記念物!

この金剛桜、なんと!国の「天然記念物」にも指定されているほどの大変、貴重なサクラとなります。

日光山・輪王寺へ参拝へ来られた際には、じっくりと見学してみてください。

毛虫が、あなたの鼻の上に「ポトっ」と落っこちてくるかもしれませんがね。・・フフフ。

関連記事:【輪王寺名物!三仏堂脇の「金剛桜」】名前の由来や開花状況(見頃&満開日)|【天然記念物】

三仏堂の御朱印

三仏堂ではオリジナルの御朱印を授与されています。種類は2種類で、他に期間限定で三仏堂落慶を記念した金文字の御朱印を授与されています。

三仏堂の御朱印

 

  • お布施(値段):300円
下野三十三観音霊場3番「四本龍寺」の御朱印

日光 二荒山神社 御朱印 四本龍寺

四本龍寺の御朱印は下野三十三観音霊場めぐりされている方のみが授与できる御朱印になります。専用の御朱印長がありますが無ければ相談してみてください。

  • お布施(値段):300円
三仏堂の御朱印の授与場所

三仏堂の拝観は堂内を順路通りに進んで背面の出口から出るのだが、その背面に授与所スペースが設けられてい‥申す。

⬆️背面の出口を最近の鼻毛の飛び出し具合ほど素敵に飛び出すと右脇に授与所がパンツちら見えのごとくにチラ見え〜る💋

入口入ってすぐに拝観券を渡す受付があり、この受付では「鬼門除札」と輪王寺限定の強力なご利益を持つとされる「厄災除け札」を授与されています。

⬆️三仏堂の拝観受付(正面間口の右端扉に素敵な女性の係員が素敵に立つ💋)

受付から奥へ進んで、折り返してきた堂の中心あたりに、御本尊たる「三仏」が安置されてい申す。あひょ(最近”あひょ”多い)




星祈願

一人ひとりに、「星祈願の短冊」に、「名前」と「願い」を書き、「三仏堂の大護摩所」にお供えします。日光山では古来、北斗七星に願いを託すと必ず成就すると言い伝えられています。南斗乱れる時、北斗現る…by.北斗の拳

日光で「北斗七星」と聞けば「家康公」を必然的に想起する。

ご存知かも知れないが、家康公は死後、北極星となって天から地上世界を守護する東照権現となられた。

つまり、日光において北斗七星へ祈るということは、東照権現(家康公)にお祈り(お願い)することにもなる。

星祈願の仕方

各々、星祈願の短冊に「名前」と「願い」を書く。書けたら三仏堂の大護摩所にお供えする。

短冊は僧侶によって御祈願され、そのあと浄焼される。

  • 星祈願の短冊の料金:無料(拝観料に含まれます。)
輪王寺の「星祈願」については下記ページにてご確認ください。

鉄多宝塔(滝尾鉄塔)【重要文化財】

あまり知られていないが、三仏堂内では、元来、滝尾神社境内にあった諸国から参詣する六十六部聖たちが経典を投げ入れて供養したとされる、鉄多宝塔が安置される。

  • 造立年:1470年(室町時代)

鉄多宝塔(滝尾鉄塔)重要文化財画像は栃木県文化振興課より




三仏堂の場所(地図)

日光東照宮境内入口となる「石鳥居」前の参道(表参道)を直進すると、輪王寺境内へ入る黒門がみえてきます。

この黒門の奥に見えているクソでかいお堂が三仏堂です。

輪王寺境内の観光スポット一覧

手前に拝観受付があって拝観料金を納めてから入堂します。

三仏堂の入場料金

三仏堂のみの単独拝観券です。

  • 個人:大人400円、小中学生200円
  • 団体(35名以上):大人360円、小中学生180円

他にも券種があるので、詳細については下記ページを要チェックや💘

拝観券売コーナー前の宝物館&逍遥園をお忘れなく!

輪王寺三仏堂の拝観券は堂の前に設けられている券売コーナーで素敵に買い求めることができるのだが、当該券売コーナーの前には宝物館とその庭園となる逍遥園(しょうようえん)がある。

宝物館も無論のこと、輪王寺を知る上では大きな見どころの一つともなるのだが、忘れてはいけないのが、当該宝物館の庭園となる醤油かけすぎた‥‥ではなく、逍遥園!!という池泉回遊式の庭園となる。

この庭園は近江の大名or茶人の小堀遠州が作庭し、明治天皇もご観覧された名庭園であり、日光山内最大ともいえる紅葉のスポットでもある💋(紅葉シーズンになるとライトアップされる)

三仏堂へ昇堂した際は忘れずにな💘

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