日光山輪王寺・本坊表門(黒門)【重要文化財】
門の様式:薬医門(やくいもん)
建築様式(造り):総・黒漆塗、三間一戸(潜り戸付き)
屋根の造り:切妻造り、銅瓦葺き
「黒門」の名前の由来
この門は、かつて門の内側に存在した輪王宮の住居である本坊が建っており、その本坊を護る黒色の門でした。
それゆえ「黒門」と呼ばれており、こちらの名前の方で知られています。
本坊表門(黒門)の歴史
前述したようにこの黒門は輪王宮の住居である本坊の正門として造営されたものです。
この当時、輪王宮の本坊は「光明院」と呼ばれ、日光山の総本坊でした。まさに信仰の中心地だったワケです。
光明院には延べ床面積約2,600坪(8,700m2)もの大書院を擁する寺院でしたが、神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)の混乱の影響を受け、1871年(明治4年)5月13日に出火。この火災により伽藍の大半が焼亡しています。
明治4年の類焼をまぬがれた黒門
この「黒門」は境内北側にああったことが幸いしてか類焼をまぬがれ、同じく境内東端に建っていた「護法天堂」もともに類焼をまぬがれています。
つまり、この黒門と護法天堂は光明院の遺構ということになり、往時の光明院を偲ぶ建造物でもありまする。
光明院とは?
光明院はもともとは、鎌倉時代中頃、第24世座主の弁覚法印が創建した輪王寺の支院です。
江戸時代初頭、天海大僧正は日光山全体を円滑に総括するべく、山内の中心部に位置した光明院を再興し、ここに総本坊(総本部)を設置します。
総本坊を置いた後も、天海僧正の活躍は目覚ましく、後世に至っては「日光山中興の祖」とまで呼ばれる存在になってい‥‥‥申す。グヘっ
輪王寺宮門跡制度と新本坊
1647年(正保4年)のこと、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の第3皇子の守澄法親王宮(しゅちょうほうしんのうのみや)が、江戸上野にある東叡山寛永寺へ下向し、寛永寺に入ると、1654年(貞応3年)、東叡山(寛永寺)と日光山(輪王寺)の貫主に就任しています。
その時、この門は輪王宮の住居としての新たな本坊の表御門として機能することになっています。
輪王宮とは?
輪王宮とは1655年(明暦元年)に制定された輪王宮門跡制度により、選出された皇族が朝廷より「輪王寺」号を与えられ、日光山のトップとなって日光の社寺すべてを管理する制度です。
1656年(明暦2年)になると、輪王寺宮門跡が比叡山(延暦寺)、東叡山(寛永寺)、日光山(輪王寺)三山を総括管理する長官として改定されまする。
これにより、輪王寺宮は寺社勢力の中では、絶大な権勢を誇るようになりまする。
上野の寛永寺にも同様の門がある
ちなみにこれと似たような黒門は上野にある寛永寺にも建てられており、やはり本坊の御門として用いられています。(本坊は現在すでになく、跡地に東京国立博物館が建てられている)
本坊表門(黒門)の建築様式(造り)
この黒門の最後に修理が行われたのが、1877年(明治10年)と推定されており、このときの修理で分かった事実が、この門は建てられた当初から全体的に黒漆塗りが施されていたことが明らかにされています。
つまり、元来、格式ある邸宅の門であったことを物語る事実であり、日光山の中心地となる座主が暮らす本坊の御門であったことは明らかです。
門の彫刻
この黒門は全体的黒色をしているので、近づかないと分かりづらいのですが、次のような彫刻が施されています。
- 唐獅子、牡丹
雨落の内側の床面は四半石敷の意匠。両脇間は繰戸(くりど)を据えています。
柱部分にも肘壺金物(ひじつぼかなもの)で建て込んだ様子がうかがえるとともに、八双金具(はっそうかなぐ)と四葉金具(しようかなぐ)を煮黒味仕上げ(にぐろみ)にして飾り立て、閂金物(かんぬきかなもの)は唄金具(うたかなぐ)を用いています。
門柱上部の冠木(かぶき)には八双切込みの飾板を打ち、柱当たりに荘厳さを醸す金色の菊の紋章をつけています。
本坊表門(黒門)の場所(地図)
本坊表門(黒門)は表参道を東照宮の方へ向けて歩いた先の左側に面して建っています。
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