日光山・輪王寺「護法天堂」【重要文化財】
創建年
- 1600年頃
※輪王寺が行った調査によると1615年(元和)頃の造営らしい。
再建年
- 1615年から1672年頃(江戸前期)
令和二年10月01日〜令和七年12月28日(62ヶ月間)※現、工事
建築様式(造り)
- 寄棟造
- 一重
- 背面張出し付
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行五間:約10m
- 梁間三間:約6m
- 向拝部分一間:約2m
重要文化財指定年月日
- 1973年(昭和48年)6月2日
御本尊
- 毘沙門天
- 大黒天
- 弁才天(弁財天)
発願者
- 南光坊天海大僧正
日光山・輪王寺「護法天堂」の読み方
護法天堂は「ごほうてんどう」と読みます。
護法天堂の見どころ(歴史)など
この日光山の「輪王寺」は栃木県日光市にある寺院群で世界遺産に登録されています。
その中でも「護法天堂」は、現存する輪王寺の境内の建造物の中では最古と伝わる。
創建年は未詳とされるも、これまでの調査結果により1615年(元和元年)頃に建てれたものと推定される模様💘
護法天堂に奉斎される仏尊
護法天堂は元来、「内権現堂(ないごんげんどう)」と称し、内部では日光三所権現(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)が祀られていた。
ところが、明治になってから現在の「護法天堂」へと名称が改められ、”三点”を取ってしまった愕然具合ほどに、”三天”(毘沙門天、大黒天、弁財天)が奉祀されたのだった。
なお、毘沙門天、大黒天、弁財天の三天は現在、北側の大護摩堂へ遷されて七福神として奉斎されてい‥申す。あひゃ
護法天堂の旧称
護法天堂は、これら3天の神仏がお祀りされていた経緯もあり、もとは「内権現堂(ごんげんどう)」と呼称されていたようです。
この事実からも往時の日光山内における信仰も、神仏が同一とみなされていたことが理解できる。
日光山輪王寺は、奈良時代に勝道上人が日光山を開山して建立された歴史を有し、平安時代には真言密教の祖「大師・空海」や天台宗の高僧「円仁(えんにん)」も訪れています。
「円仁」は来山の折、三仏堂などを営み、以後は天台宗の寺院としての歴史を歩んで行くことになってい‥‥‥申す。あひょ
なお、輪王寺における日光山信仰では、日光連山の「男体山(ないたいさん)」「女峰山(にょほうさん)」「太朗山(たろうさん)」の3山を三仏に置き換えて信奉する。
この「三仏」とは、現在、本堂(三仏堂)にて奉祀される「千手観音」「阿弥陀如来」「馬頭観音」になる。
日光山縁起に登場する神々一覧 | ||||
日光三山 | 日光三社権現 | 日光三所権現 | 日光三所権現本地仏 (三仏) | 日光三神 |
女峰山(※母) | 滝尾権現 | 女体権現 | 阿弥陀如来 | 田心姫命(母神) |
二荒山(男体山)(※父) | 新宮権現 | 男体権現 | 千手観音 | 大巳貴命(父神) |
太郎山(※子) | 本宮権現(太郎権現) | 太郎大明神 | 馬頭観音 | 味耜高彦根命(子神) |
※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられた。
輪王寺を襲った「明治の業火」
実は、この日光山輪王寺は、明治時代初頭となる1871年(明治4年)5月13日、原因は定かではありませんが、輪王寺全体を無残に焼き尽くすほどの大火災に見舞われていまする。
この大火災は、新しくとって変わった明治政府による「神仏分離令」が発令された直後のことでした。
この大火災によって、輪王寺の木造の社屋・約700坪が焼失し、輪王寺・大本坊(住職が住むお堂)も跡形もなく焼失しています。
しかし、これだけの規模の大火災でも、この護法天堂ほか、西側にあった黒門、北側に鎮座していた光明院稲荷などは、火の粉一つ降りかからずに、奇跡的に難を逃れています。
つまり、こういった経緯もあって、輪王寺の境内で現存する最古の建造物ということでする。….”でする”?
輪王寺・大本坊は「光明院」とも呼ばれた
この総本坊は江戸時代初頭に天海大僧正が再興した建造物であり、当時は「光明院」と呼ばれた。
天海大僧正は江戸時代、日光山全体を円滑に総括するべく、総本坊(総本部)を設置し、その場所として目を付けたのが山内の中心部に位置した光明院だった。
総本坊を置いた後も天海僧正の活躍は目覚ましく、後世では「日光山 中興の祖」と賞賛されるに到る。
光明院は鎌倉時代中頃、第24世座主の弁覚法印が営んだ輪王寺の支院だったが現存せず、現・大護摩堂手前の「黒門(本坊表門)」が往時の光明院の繁栄を偲ばせる。
黒門は境内北側にあった護法天堂とともに焼失を免れた貴重な建造物であり、輪王寺境内の数ある建造物の中では貴重とされる。
光明院を襲った火災
光明院は延べ床面積:約2,600坪(8,700m2)を有する大書院だったと伝えられるも、1871年(明治4年)5月13日の火元不明の火災により、約700坪が大火に飲まれる凄惨な回禄を記録した。
護法天堂の役割
護法天堂と三仏堂は祈願を成就させるための役割の担っていたが、使用される目的が大きく異なった。
三仏堂は鎮守国家を目的とした国家レベルの大祈祷を行う場所とされ、対して護法天堂は個人の祈願を成就させる場所と位置付けられていた。
内部では護摩壇が築かれ、護摩焚き祈祷をしてくれ〜る。
護法天堂の前身
輪王寺はこれまで嵯峨天皇(平安時代)から下賜された「満願寺」としての独自の歩みを見せていたが、1655年(明暦元年)に後水尾上皇の院宣(いんぜん/天皇が発したのと同じ効力をもつ文書・命令)により新たに「輪王寺」の寺号が下賜された。
この院宣により後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺したが、住職となった皇族は単に住職とは呼ばず「門跡」と呼称し、輪王寺に到っては「輪王寺宮門跡」などと敬称されたのだった。
門跡となった皇族には「内権現堂」という専用の礼拝所が与えられ、この「内権現堂」こそが、護法天堂の前身とされる建造物とな〜る。
護法天堂の建築様式(造り)
桁行:五間
梁間:三間
建築構造:寄棟造、一重、向拝一間、背面張出し附属、亜鉛鉄板瓦棒葺の下に栩葺(とちぶき/栗材)検出。
栩葺とは?
栩葺(とちぶき)とは屋根を木板で葺きあげること。使用される板材は厚さ12〜31ミリメートルくらいまで。木材の種類はヒノキ、スギ、サワラなどが多いが、護法天堂には栗材(クリ)が素敵に使用されている模様💘
とりわけ、トチノキは”暴れ(割れor反り など)”が出やすいので使用されないことが多い。
舟肘木(ふなひじき)
護法天堂は他の堂塔に比べると絢爛豪華という言葉にはほど遠く、質素で簡素な外観をしているのが特徴的なのだが、その特徴を表す一つに「舟肘木」がある。
舟肘木は我が国特有の肘木の使い方であり、斗組を用いず、直に桁(垂木を支える横材)を受ける。
🐣舟肘木を用いた国宝or重文指定の建造物一覧
指定建造物名 | 指定区分 | 所在地 | 創建年 |
石山寺 蓮如堂 | 重文 | 滋賀県 | 1602年 |
大宝寺 本堂 | 国宝 | 愛媛県 | 1185〜1274年 |
円教寺 奥院 護法堂 拝殿 | 重文 | 兵庫県 | 1588年 |
常称寺 本堂 | 重文 | 広島県 | 1467〜1572年 |
観音寺 観音堂 | 重文 | 山形県 | 1467〜1572年 |
大斗肘木
禅宗様を示す渦状の拳をあしらった肘木を方斗(ほうと/大斗)で受ける斗栱(ときょう)を用いる。
正面扉は輪王寺境内の堂舎で見られるような桟唐戸の扉ではなく、観音開きのごく普通の木板をあてがった扉が据えられる。
その正面の蟇股の装飾も極めて簡素な牡丹の彫刻が一輪、垂木組みは、まばら割りを用いる。
護法天堂内部の様子
以下、掲出の写真(画像)は輪王寺現地掲出の看板より
内部図面
護法天堂の内部は下掲写真などが示すように三部屋に区切られる。(仏像が奉安される仏間(内々陣)を含めると四部屋)
🐣内陣
内陣奥に見える三つの扉奥に三尊が安置され〜る。
🐣東側の脇間
内部も色彩を設けず、荘厳さを醸すような餝金具や組み物、屋根も見られず。
いたって質素かつ、シンプル。
🐣西側の脇間
これらの東西の脇間では何が行われていたのかは判然としない。
付き人の待機場所であったり、そもそもこの堂は脇間から参入する仕来りがあったのか‥などなど色々と考えが浮かぶ。
護法天堂の場所(地図)
日光山・輪王寺「三仏堂(本堂)」の裏側スグ。
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