日光二荒山神社・本殿・拝殿【重要文化財】
本殿
創建年
- 不明
- 767年(神護景雲元年)
再建年
- 1619年(元和5年/江戸時代前期)
- 1645年(正保2年/江戸時代前期)
- 昭和29年〜昭和32年
- 平成25年6月1日〜2020年10月5日
建築様式(造り)
- 八棟造り(本殿)
- 正面千鳥破風付
- 軒唐破風付
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行五間
- 梁間五間
- 向拝部三間
御祭神
- 二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)
重要文化財指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
拝殿
創建年
- 不明
- 1619年
再建年
- 1645年(正保2年/江戸時代前期)
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行五間(奥行:約10m)
- 梁間四間(横幅:約8m)
重要文化財指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
読み方
本殿は「ほんでん」
拝殿は「はいでん」
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の歴史・由来
二荒山神社や御本社の草創された時期は現代に至っても定かではありません。
767年に勝道上人(しょうどうしょうにん)が、今の本宮神社の場所に男体山(なんたいさん)の神を祀る祠(ほこら)を立てたのが「日光三社」の始まりと伝わっています。
816年(弘仁7年)4月、勝道上人が日光山内に三社大権現(本社(新宮)・本宮神社・滝尾神社)を勧請(かんじょう/まねく)し、本宮神社から少し離れた場所に社殿を建てて「新宮」とし、二荒山の神を祀りまする。
そして、もともと自らの草庵としていた本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を奉斎しまする。
このとき新たに建てた現在の本社、元の本宮神社、そして滝尾神社は総称して「日光三社」と呼ばれる。
四本龍寺(現在の輪王寺)を含めた、これら勝道が創建した社寺群が日光山繁栄の礎となる。これ以後、日光は神仏信仰の聖地として繁栄をきわめていくことになりまする。
日光二荒山神社はこの本殿と大谷川をまたぐ神橋、そして中禅寺湖湖畔には中宮祠、男体山山頂の奥社などを含めると悠に3400haの社地を誇り、24件30棟が重要文化財指定を受けてい‥‥‥申す。グハっ
空海や円仁も来山して二荒山神社を改修した
確かな年数は判明していませんが、平安期には空海(弘法大師)や円仁(慈覚大師)がこの二荒山神社へ訪れ、滝尾神社や二荒山神社本社を改修したという伝承もあります。
なお、現在の本殿は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の発願により1619年(元和5年)に造営されたものであり、これは日光山内最古の歴史を有する建造物です。
檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキの屋根)を銅瓦葺(銅製の瓦)に葺き替えたり、色を塗り直したり、わずかに移動したりはしたものの、大規模な修理や改築をせずに現在に至っている貴重な建物です。
拝殿も1619年に建てられ、本殿を移築した後の1645年頃に再建されており、これが現在見ることのできる拝殿の姿となります。
男体山とは?
「男体山」とは、中禅寺湖の北にそびえ立つ、標高2486mの火山のことで、古くから山神が宿る神聖な御山として篤い崇敬が寄せられています。
782年(延暦元年)3月、男体山の登頂に成功した勝道は、男体山山頂に37日間も籠って修行をしているのですが、この男体山を神聖な御山として「補陀洛山(ふだらくさん/観音菩薩の降臨するとされる伝説の山)」に例えて「二荒山(ふたらさん)」とも名付けています。
「二荒」を音読みすると「ニコウ=日光」とも呼ぶことから星霜経ながら訛りが生じ、これがやがて「日光」の地名の起こりにつながったと云われる。
「本殿」の建築様式(造り)
「八棟造り」の「八棟」とは「8つの棟がある」という意味ではなく、「棟」が多く屋根の形が複雑だという意味合いになります。
真上から八棟造りの殿舎の屋根を見ると屋根の頂上の横木(棟)が「工の字型」になっていることが伺えます。
ちなみに同じ八棟造りの社殿として有名なのが京都北区の「北野天満宮」です。
八棟造りは現在の日光東照宮で見ることのできる「権現造りの原型」とも云われています。
↑北野天満宮を真上から見た図。屋根の棟が工の字型になっている。
八棟造りの特徴としては、本殿は左右に妻側が向けられた「入母屋造り」で、正面の屋根には三角の「千鳥破風」、その軒下には緩やかな曲線の「唐破風」が据えられており、複雑さがありながら、実に完美とも言える造りになっています。
↑本殿(奥)の殿舎は入母屋造り。正面の屋根は千鳥破風。千鳥破風の下には唐破風が見える。
軒下の組物は極彩色で彩られ、彫刻も施されています。
屋根には、千木や置き千木もなく坊主状態の造りになっています。
足元部分の腰組(こしぐみ)上部には高欄(こうらん)付きの縁を回し、高欄の主柱には擬宝珠が据えられています。
本殿の内部の様子
本殿と拝殿の間には切妻造りの小屋のような建造物「渡殿」が設けられおり、渡廊の役割を担い、本殿・拝殿を連絡しています。
建物の外部には全体的にベンガラ漆塗り、長押や彫刻には彩色がが施され、柱頭や垂木には飾り金具が装着されています。
内部は幣殿(へいでん)には塗装が施されていますが、外陣より奥は塗装を用いない、素木のままです。
平面は一般的な神社と一線を画し、内陣・内々陣を外陣が取り囲むなど、さながら堂舎を彷彿とさせる造りをしていまする。まさに神仏混淆の時代に造営されたことを物語る建造物であり、創建当初からの建築様式をそのまま踏襲している証拠になるものです。
明治の神仏分離令以後の二荒山神社
明治初頭に神仏分離令が発令されますが、それまでは本殿の東側(現在の社務所の場所)に輪王寺の三仏堂が建っていたのです。
また輪王寺の僧侶たちが内々陣のご神前にて読経(お経をあげる)していたことも明らかにされています。
本殿の保存修理
二荒山神社の本殿は平成26年7月7日〜平成32年3月31日の予定で修理が進められていましが、2020年10月5日に完成を迎えています。
画像引用先:https://www.asahi.com/
前回の根本修理から50年以上が経過し、組物の垂下がりや、外部塗装の剥落が顕著となったため、屋根廻りおよび組物までの解体、漆と彩色の塗り直し、木部腐朽箇所の補修、餝りり金具の再生などの半解体修理が実施されました。
屋根の小羽板(根に葺(ふ)く薄い板)には、椹(さわら)材が使用されています。サワラはヒノキより耐久性は劣るのですが、水に強く、古くから風呂桶など、各種の桶に用いられています。
また、今回の修理によって明治時代に屋根の葺き替えが行われていた事実が明らかになっています。
「拝殿」の建築様式(造り)
拝殿は本殿のような豪華な屋根ではな入母屋造りの屋根となっており、妻側の軒下の懸魚(けぎょ)の朱色と黒色のコントラストが映えます。
拝殿は丹塗りの朱色を貴重とした色彩など、殿舎の造りが総体的に輪王寺の堂舎の造りと類似していることに気づきます。
正面の「桟唐戸(さんからと)の扉」も輪王寺の堂舎に見ることのできる造りであり、これらは現代においても神仏習合が成っている日光山特有の独特の風合いを醸した(かもした)造りとも言えます。
なお、この拝殿は参拝者も自由に立ち入ることができ、祈祷も執り行うことができます。
祈祷の申し込みは、拝殿の向かって右脇に位置する「祈祷受付所」で申し込むことができます。
このように本殿は拝殿と併せて「御本社(ごほんしゃ)」と呼称され、滝尾神社、本宮神社と共に「日光三社」とも呼称されています。
また日光二荒山神社の拝殿は寺院で言う所の外陣や礼堂(らいどう)に相当し、靴を脱いで昇殿してお祈りすることができます。
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の御祭神「二荒山大神」
二荒山神社のご祭神は、「二荒山大神(ふたらやまのおおかみ)」と総称される親子の3神です。
この3神は、それぞれ日光連山を形成する「男体山」・「女峰山」・「太郎山」に宿る神とされ、これらの山々は古くから信仰の対象となってきました。
ちなみにこの3つ山は親子の山とも云われ、「男体山が父親」・「女峰山が母親」・「太郎山が子供」として古来よりの信仰があります。
鎌倉時代になると新宮権現(しんぐうごんげん/男体山の神)、滝尾権現(たきのおごんげん/女峰山の神)、本宮権現(ほんぐうごんげん/太郎山の神)が修験道の信仰対象となり、日光三社権現とも呼ばれまする。
しかし1871年の神仏分離令によって新宮が二荒山神社になりまする。
「権現」とは、「神は”如来”や”菩薩”が、人々を救うために姿を変えて現れたもの=権化(ごんげ)」だとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」なる思想のことです。
つまり、神様の本当の姿である「如来や菩薩」が「本地仏」として上記の3つの山にそれぞれ「千手観音(父親)」「阿弥陀如来(母親)」「馬頭観音(子供)」があてられています。
この日光二荒山神社の付近に位置する日光山輪王寺には、これらの仏(如来・菩薩)が祀られています。
ただし、現在の3神は、「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「田心姫命(たごりひめのみこと)」、「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」に置き換えられています。
御祭神が置き換えられた理由としては、明治時代初頭に発令された明治政府による施策である「神仏分離令」に基づくものだと考えられます。
また、上記の3神ともに親子の間柄にあり、大己貴命の嫁は田心姫命であり、その子神が味耜高彦根命になります。
日光山縁起に登場する神々一覧 | ||||
日光三山 | 日光三社権現 | 日光三所権現 | 日光三所権現本地仏(三仏) | 日光三神 |
女峰山(※母) | 滝尾権現 | 女体権現 | 阿弥陀如来 | 田心姫命 (母神) |
二荒山(※父) (男体山) | 新宮権現 (二荒山神社) | 男体権現 | 千手観音 | 大巳貴命 (父神) |
太郎山(※子) | 本宮権現 (太郎権現) | 太郎大明神 | 馬頭観音 | 味耜高彦根命(子神) |
※滝尾権現、新宮権現、本宮権現は、明治初年の神仏分離により、滝尾神社、日光二荒山神社、本宮神社へと置き換えられています。
すなわち、これら3神を上記にならった例で示すと「大己貴命=父親」「田心姫命=母親」「味耜高彦根命=子供」と言う形になります。
このように日光山は勝道上人が開創した奈良時代から既に神道と仏教が混在した神仏混淆の聖地であり、神仏が分離された明治時代を経ても尚も至るところにその名残が残されているのです。
日光二荒山神社の別宮・摂末社一覧
構成 | 場所 | 社号 | 社名 | 境内末社 |
本社 | 日光山内(日光市内) | 本社(新宮) | 二荒山神社 | 朋友神社 |
大国殿 | ||||
日枝神社 | ||||
別宮 | 滝尾神社 | 稲荷神社 | ||
本宮神社 | ||||
摂社 | 若子神社 | |||
中宮 | 中禅寺湖畔 | 中宮祠 | 二荒山神社 | 稲荷神社 |
奥宮 | 男体山山頂 | 奥社 | 二荒山神社 | |
滝尾神社 | ||||
太郎山神社 |
このほかに奥宮に7社の末社がありまする。
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の場所(地図)
日光二荒山神社・本殿は神苑の入口を向かい見て右脇に位置します。
本殿からもっとも近い参拝場所がある!
一般的に本殿からもっとも近い参拝場所は「拝殿」だとされていますが、一般参拝者を例にとれば、実際のところもっとも近い場所となるのは「拝殿と本殿の間」です。
この日光二荒山神社には幸いにも拝殿の裏側へ回り込むこと可能であり、その場所となるのがちょうどこの化け灯籠の奥になります。
実際に化け灯籠の奥に行けば「本殿にもっとも近い場所です」と書かれた案内が出ています。
本殿に近い場所で参拝してみたい場合は、この化け灯籠の見学と併せて神苑へ立ち寄ってみてください。
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