【これぞ伊達の粋🌬】日光東照宮「伊達政宗のポルトガル南蛮灯籠」

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日光東照宮「南蛮灯籠」

  • 奉納年:1617年(元和3年/江戸時代前期)
  • 大きさ(高さ):2.57メートル
  • 奉納者:伊達政宗
  • 製作者:地元の仙台の鋳物師「早山弥兵衛」
  • 制作期間:約1ヶ月

この灯籠は仙台藩主の伊達政宗公が1617年(元和3年)4月に日光東照宮が創建された時に寄進した鉄灯籠2基です。

灯籠に使用された材料は「ポルトガル産の鉄材」です。

このような外国で採掘されて輸入された鉄は俗称で「南蛮鉄(なんばんてつ)」とも呼ばれ、江戸時代では和鉄よりも値打ちがあり、非常に高価なものでした。

南蛮とは?

「南蛮(なんばん)」とはポルトガルはじめオランダ、スペインなどの異称です。

この当時、南方から渡海してきたことから、南方の外国人という意味で「南蛮」と呼ばれたのです。

その南蛮から来た外国人は「南蛮人」と呼ばれるようになってい‥‥申す。ガホェっ

なぜ鉄製なのか?

東照宮に奉納された灯籠は諸大名たちから灯籠であり、そのほとんどが石製もしくは鋳銅製です。

どういう思惑があったのは定かではありんせんが、伊達政宗の粋というものでしょう。

天下に名を馳せた戦国の雄、伊達政宗が奉納する灯籠は他の諸大名たちと一緒というのが気に食わなかった。

そこで当時では入手するのが困難とされた南蛮鉄をわざわざ買い付けて灯籠を造立した。

そのような思念に加え、徳川家への完全な恭順の意を示し、すでに自らに天下を狙う意志がないことを内外に示したとも考えられまする。

なお、政宗公が諸大名たちが灯籠を東照宮へ奉納している事実を知ったのは、西国の大名たちが奉献し終える頃。

そういった背景もあり、周囲への配慮もあったのか。

ちなみに東照宮へ奉献された灯籠はすべて大名たちの意志によるもの。幕命ではないということ。




伊達政宗公が奉献した南蛮灯籠は一等地に置かれた

政宗公は遅れて灯籠を奉納したにも関わらず、いざ、置かれた場所はというと‥‥‥東照宮境内では一等地ともいえる陽明門中央の間口(通行口)から延びる石階段脇。

なんでも老中の土井利勝ならびに天海僧正へ藪から棒に無茶振りをカマして、陽明門手前の石階段の最脇という一等地に置いてもらったとのこと。

当時、幕府内で確固たる地位にあったご両人も天下に名前が聞こえた伊達政宗には頭が上がらなかったといったところか。

その様、まさに伊達の粋といえよぅ。ふぉっふぉっふぉっ…..

伊達政宗が今井宗薫にあてた書状

伊達政宗公には「五郎八(いろは)」という姫(娘)がいたが、この姫君と徳川家康の六男である「松平忠輝(まつだいら ただてる)」との婚儀を執り行うに際し、骨を折った人物がいる。

この人物を「今井宗薫(いまいそうくん)」と言い、堺(大阪)の豪商or茶人の「今井宗久(いまいそうきゅう)」の息子であり、太閤秀吉に奉仕した御伽衆(おとぎしゅう/いわゆる客員の側近)でもある。

政宗公は天正18年3月1日、太閤秀吉の小田原征伐の折、この今井宗薫と知り合い、以来、入魂の仲。

しかし、商人という立場を活かした情報通の今井宗薫が政宗公に「他の大名が灯籠を奉献している」という情報をくれなかったのが、よほど応えたらしく、後日、「お恨み申し上げます」という書状をしたたてめている。

南蛮灯籠の特徴

寸胴

この南蛮灯籠の最大の特徴は竿の径が図太いということ。

40㎝もある。

つまり、女子に言うとブチギレされるが、寸胴(ずんどう)ということ。オホっ

候性を重視して設計された灯籠

この南蛮灯籠は、現在は錆びついているが、よく見ると、火袋を受ける中台の部分を皿状にして、まるで蓮花が開いような形状に仕立てていることに気付く。

これは雨水が下部に伝わり、錆(サビ)がまわるのを予防するためであり、このような灯籠は非常に珍しいとされている。

これを制作した作者は仙台藩きっての鋳物師である早山弥兵衛景次であり、当人の名前が灯籠の裏側にヒッソリそりそりヒゲ剃り深ゾリしちまったぜぃ‥‥‥てなほどヒッソリと刻まれている。 どんな度合いや

「早山弥兵衛」の刻銘

『鋳師(いもし/鋳物師のこと) 仙䑓(仙台)住人 早山弥兵衛』

「伊達男」の語源にもなった天下に聞こえた「伊達の死装束」

そぅ言えば、伊達政宗は太閤秀吉の小田原征伐の折、父親・輝宗の代からの盟友である後北条氏に与力するか?

それともこれを期とし天下に号令をかけ、秀吉に戦をけしかけて天下の趨勢を覆すか?

いやいや、それとも素直に負けを認めて秀吉の陣幕へ参内するか?

‥‥‥などなどと企みをめぐらせつつ、北条と秀吉の戦況を傍観していたことから、秀吉からの再三にわたる参陣要請に応答せず、それが原因でついに秀吉を怒らせてしまった。

しかし、「のぼうの城」で著名な忍城(おしじょう)以外の北条方の支城は、ことごとく落城と相成り、戦況は秀吉の圧倒的な優勢となる。いよいよ戦のエンドロールが見え始めた。

意を決した政宗は秀吉へ恭順の意を示し、すぐさま軍勢を集め、小田原へ向けて西上させる。

その後、怒り狂った秀吉をなだめるためにとった政宗の策というのが、死装束を着用して秀吉の御前へ進み出ること。

つまり、「もぅ、死ぬ覚悟で貴方様(秀吉)の前に来たんだ」という意志を身体を含めた全身で精一杯に表現したということ。

驚きと共に大笑いした秀吉は政宗を気に入り、会津領を召し上げただけで寛容したとされる。

政宗はこの後も一揆を起こさせて秀吉の治世にヒビを入れようと画策したが、これも失敗に終わる。

その後処理として、ふたたび秀吉の前に馳せ参じることになったのだが、この時着用したもなんと!死装束。

この時は、死装束をまとい、金泥をぬりたくったクソでかぃ十字架(はりつけ台/=”自分をはりつけるための台”という意味)を引きづりながら町中を歩いて秀吉の御前へ向かぅといぅ、前代未聞のド派手なパフォーマンスを披露。

前回と同様、この時も秀吉は驚きと共に大笑いし、なんと!政宗を許したのだった。

伊達政宗とはまさに、歴史に名を刻んだ古今東西・天下無双の伊達男なのである。イヨっ!ホっ!ハっ!きょっ。  ….”きょっ。”てなんや

【補足】

「伊達男」の意味

人目を引く、オシャレな身なりをした男。 また、侠気(きょうき/=男気)のある男。 侠客。

「伊達」の意味

「豪華」、「華美」、「魅力的」、「見栄」、「粋」などを示す言葉

灯籠の刻銘を見てみよぅかなぁ‥‥

陽明門を向かい見て左側の南蛮灯籠

刻銘

元和三年 丁(ひのと)巳

奉 寄進 東照大権現 寶前(ほうぜん/神仏の前という意味)

卯月(旧暦4月)十七日

藤原朝臣(朝臣/あそん/中臣鎌足の子孫)政宗

陽明門を向かい見て右側の南蛮灯籠

刻銘

元和三年 丁(ひのと)巳

奉 寄進 東照大権現 寶前

卯月(旧暦4月)十七日

藤原朝臣政宗

以上、2基とも腐食が見られるため部分的に見づらい。




看板の内容

仙台藩主伊達政宗候(62万石)よりの奉納。
ポルトガルから鉄材を運んで鋳造した。
灯籠の竿の部分に「藤原朝臣政宗」の銘がある。
境内には石造101基、銅製17基、鉄製2基、石造五重塔1基の121基の灯籠が現存する。
陽明門直下に譜代大名、陽明門大石階段下に外様大名から寄進された灯籠が配され、陽明門内にあるのは東福門院(とうふくもんいん)寄進の一基のみである。

伊達政宗・南蛮灯籠の場所(地図)

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