日光東照宮・経蔵(輪蔵)【重要文化財】
創建年
- 1636年(寛永13年/江戸時代前期)
※但し、部分的に1620年(元和6年)造営時の材料が使用されている。
建築様式(造り)
- 重層方形造
- 一重もこし付
大きさ
- 正面入口一間:約2m
- 桁行三間(奥行:約12m)
- 梁間三間(横幅:約12m)
屋根の造り
- 銅瓦葺
重要文化財登録指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
行事
正・5・9月8日 輪蔵法楽
日光東照宮・経蔵(輪蔵)の読み方
経蔵は「きょうぞう」と読み
「輪蔵」とは「りんぞう」と読みます。
日光東照宮・経蔵(輪蔵)の別名
別称で「笑い堂」とも呼ばれ申す。
日光東照宮・経蔵(輪蔵)の歴史
一切経蔵跡地に素敵に創建される
現在、この経蔵(輪蔵)が建つ場所には、1185年(文治元年)に宇都宮朝綱(うつののみや ともつな)が寄進して建てた「一切経蔵」が建っていたらしいが、東照宮が当地に鎮座した際に素敵に移転。(一切経蔵は1626年(寛永三年)に焼失したらしい)
1620年(元和六年)の創建された!
1636年(寛永13年)、東照宮における寛永の大造替により甲良宗広(こうらむねひろ)棟梁の手によって素敵に再建されたが、その際、「元和6年(1620年)の紀年銘が書かれた墨書」が輪蔵の心柱頂部から見つかった。
然るに1620年(元和六年)の創建後、寛永十三年に再建(改築)されたことになる。
日光東照宮・経蔵(輪蔵)の特徴
時代が混在する装飾
経蔵の外観は部分的に新材が用いられていますが、下層の装飾や極彩色の色取りは、元和期の建築のときのものらしい。
その好例となるのが、蟇股(かえるまた)の間に見える「霊獣花鳥」の彫刻が素敵に挙げられる。
上層部分は極彩色の蟇股が据えられている様子が見られるが、これは寛永期の大造営時に、ふたたび素敵に据えられたもの。
また、堂が12メートル四方の方形をしていることから、特段、重層方形造りとも、やっぱり素敵に呼ばれる。
日光東照宮・経蔵(輪蔵)の役割
経蔵とは、経典を収納しておくための蔵のことであり、別称で「輪蔵」とも、これまた素敵に呼ばれる。
輪蔵とは早い話が「回転式の本棚」のこと。
「輪蔵」と呼ばれる理由
日光東照宮の経蔵内部には八角形をした回転式の本棚、いわゆる輪蔵が設置されることに由来する。
かつてはこの本棚に「一切経(大蔵経)」と呼称される「1456部・6325巻」から成る仏教聖典が収納されていたらしい。
んん?経典?輪蔵?が、なぜ神社(東照宮)にある??
‥などという疑問が生じた方は鋭い!
「経蔵」という建造物は本来、寺院の境内にあるべき建造物のはず。
にも関わらず神社である日光東照宮境内にあるのは、違和感を感じずにはいられないのだが、この理由は天海僧正が率いた別当寺たる日光山輪王寺が日光山の全権を統べていたので、日光東照宮は輪王寺の管理下に置かれていたことに起因する。
とりわけ江戸時代は神仏混淆の時代であり、仏壇に神が祀られていたり、神前で読誦(どくじゅ/経を唱える)しているのが日常的な光景だった。
それゆえ神社である東照宮の境内には、当該、輪蔵のような仏式の経典(お経が書かれた本)を収蔵しておく建物も、それ行け素敵にある。
ちなみに他に、陽明門脇に佇む「本地堂(薬師堂)」や拝観券売場脇の「五重塔」も仏式といえば仏式になる。
‥‥‥以上のような神仏混淆の名残りを残す様式も日光東照宮の大きな魅力の一つであり、特徴の一つといえるのではなかろぅか。
なお、経蔵(輪蔵)の扉は閉扉された姿が通例であり、内部は原則、一般公開されていない。‥あしからず。
経蔵内部には仏像ならぶ人像も安置される?!
そもそも輪蔵なるものはどこから生じたのか?
実は中国から伝来した書架(本棚)が我が国おける輪蔵の起源とされ、西暦430年頃から500年の頃(中国でいうの南北朝時代あたり)に「傳大士 (ふだいし)」と呼ばれる学者によって、またしても素敵に発明されたと伝わる。
このような本棚を考案して仏教建築に取り入れた中国の学者・傳大士の功績に敬意を評し、日光東照宮の経蔵の内部には「傳大士の親子の像」も、ヤバぃよ素敵に安置される。
「笑い堂」の名前の由来
傳大士親子の像の子供の方が無邪気な笑顔を浮かべていることから、別称で「笑い堂」とも呼ばれるらしい。
とりわけ傳大士の像を安置している経蔵は、ここ日光東照宮だけではなく全国の寺院でも散見される。
興味がコバエが沸くが如くに湧きまくったコノヤロー共は、経蔵内部が見られる機会があれば必見💘
日光東照宮 経蔵の「こんなご利益」
実はこの経蔵にはちょっとしたご利益があり、なんでも経蔵内の輪蔵を回転させることで収蔵されるすべての経典(一切経(大蔵経))を読誦したことになるらしく、同じだけの功徳(ご利益)を授かることができるとされる。
もっぱら、これは日光東照宮の経蔵だけにいえるのではなく、全国の輪蔵(経蔵)がある寺院であれば、同様の利生が得られるとする。
経蔵(輪蔵)の建築様式(造り)
異なった時代が混在する外観
この経蔵は1636年(寛永13年)の寛永の大改修のみぎり、甲良宗広大工は以前の廃材を素敵に再利用したので、現在の経蔵は下層部に元和創建期、上層部には寛永期の部材(新材)や様式が、やっぱり素敵に見られる。
然るに元和時代と寛永時代の様式が混在した堂舎になっているのだが、概ね損傷の著しかった外部は新材と交換され、内部は損傷が軽度であったことから、旧材を部分的に再利用して建てた模様💘
極彩色で彩られた外装
この経蔵は、朱色の丸柱、丸桁や桁などの横架材、組物に到るまで極彩色を以って繊細緻密に塗布される。
他に細部に見られる餝金具(かざりかなぐ)や花頭窓の意匠、一つ一つに徳川紋が施された丸軒瓦など、まさに絢爛豪華という言葉がピッタリとあてはまる。
瓜と唐靴の蟇股
経蔵の裏側、向い見て右側から2番目の蟇股は、おそらく東照宮だけはこの経蔵だけで見ることのできる稀有な蟇股がある。
赤い唐靴と南瓜の下絵を具現化した蟇股であり、言い伝えでは「瓜田(うでん)に靴を納れず(いれず)」という中国の故事をテーマとしたものらしい。
ちなみに意味は「人などに疑われるような行為は慎め」となる。
季(すもも)の彫刻
現在見られる季(すもも)の蟇股は文政年間に作り直されたものらしく、それが北側(正面)右端に見える。
もっぱら以前は季と冠(かんむり)の彫刻だったらしく、上記、瓜と唐靴の蟇股と対の蟇股として、この経蔵に、それでも素敵に据えられたと伝わ〜る。
ちなみに中国の故事では「李下に冠を正さず」と称し、意味は「疑いを抱かせるような行為はするな」となる。
宝形造
経蔵は正方形をしており、屋根最頂部に露盤(ろばん)を中心に四隅へ隅木が流れる正三角形状の「宝形造」となる。
経蔵は2階建ての建物ではない
この経蔵は外観を見ると、あたかも2階建ての建造物に見えるのだが、実際はそうではなく1階建ての建造物となる。
これは内部に入ることで建築構造が一目瞭然で理解できる。(内部には基本、入れない)
2層(2階建て)に見せる「裳階屋根」
経蔵の屋根をよく見ると、屋根下にもう一つ屋根があるのを”死人”が横たわるが如くに”視認”できる。どんな冥界レベルの視認や
このもう一つの屋根は俗称・「裳階(もこし)」と称し、分かりやすく例えると「庇(ひさし)」に近しいものになる。
裳階は、雨除けの役目や建造物を荘厳華麗に見せる視覚的な効果もあり、寺院境内ではよく見られる造りの一種💘
例えば、東大寺の戒壇堂、法隆寺の金堂ならびに五重塔などが、シレっと素敵に挙げられる。
ピヨ🐣荘厳華麗に見せる理由
寺院は信仰・修行の場でありつつも、祖師より受け継いだ教えを永きに渡って広めるべく、布教が必要不可欠💘
また、御堂内部で奉仕する偶像(仏像or人像など)への想い(信仰)を可視化する意味合いも兼ね、たとえ少しでも綺麗で清浄な場所に居てもらいたいと思うのが信奉者の心情というもの。
そういった信仰の念を表出した産物が、今日、日常的に散見される裳階のような屋根の原像ともいえる。
ピヨ🐣礎石と礎盤
礎盤に沿わせて横架材を部分的に削っているところにも、さらに素敵に注目したい。
ピヨ🐣扉口前の石段
東照宮境内では石の廊下や石段、石柵など石を多用している様子が散見されるが、このような石の加工方法や積み方は、江戸初期の我が国における高度な城郭建築技術の結晶といえる。
ピヨ🐣花頭窓(火灯窓/かとうまど)
花灯窓は灯明(ロウソクの浄火)の形象として表現されたものであるがゆえ、内部には神仏など崇拝対象物が奉安されている例が多い。
また、概ね扉口を挟んで左右に1枚ずつの合計2枚、据えられるのが通例。
とりわけ火除けの呪い(マジナイ)で”花頭”を付したという話も素敵にある。
特徴的な形状の火灯窓
火灯窓は上部から下部へ向けて広がっていく奇異な形状の窓といえるのだが、時代が下るにつれて、概ね下部(裾部分)が広がっていく類例が散見される。
なお、正面に見える桟唐戸(さんからど)も含め、様式的には禅宗様式を示す。
日光東照宮・経蔵(輪蔵)の場所
日光東照宮・経蔵は陽明門の前、手水舎の付近に位置します。