日光山 輪王寺「逍遥園(しょうようえん)」
日光山輪王寺・逍遥園の読み方
逍遥園は「しょうようえん」と読みます。
日光山輪王寺・逍遥園の創建年(作庭年)
日光輪王寺・逍遥園が作庭された年代は不詳とされております。
しかし、様々な学術的調査の結果から江戸時代初期から寛永年間に創建された説が浮上しています。
これが事実だとするのであれば1600年頃から1645年の間の創建となります。
また後述していますが、小堀遠州が作庭したとされる庭園と作風が類似している点があり、この事実から小堀遠州が作庭したという説があります。
この説が事実であれば小堀遠州が徳川家康の家臣となった1598年(慶長3年)から死去した1647年までの間の創建と考えることができます。
1815年(文化12年)に大改修が行われ、その際、儒学者「佐藤一斎(さとういっさい)」により「逍遥園」と名付けられ、今日に至ります。
エェッ?!逍遥園は明治時代初頭に火事で燃えていた?!
実はこの逍遥園は明治初頭の戊辰戦争(1868年 – 1869年)の混乱において1871年(明治4年)に焼失しています。
この当時の輪王寺は「満願寺(まんがんじ)」という名前だったので「満願寺逍遥園」と呼ばれていました。
また、この当時、満願寺(輪王寺)の本坊(住職が住む家)は現在の輪王寺宝物殿と紫雲閣が建つ敷地に建てられていたようです。すなわち逍遥園が本坊の庭園だったことになります。
画像引用先:長崎大学
上の写真を見れば現在のように木々がなく芝のような緑草が一面に植栽されて、広々としている様子がうかがえます。
現在では従来と庭園の様子が変わってしまって分かりにくいのですが、小堀遠州は日光連山の男体山や鳴虫山を借景として作庭しています。
例えば、入園して左奥に回り込むと逍遥園の全景を見渡すことができるのですが、ここから庭園を観ると遠景に日光連山とその中心に男体山を見ることができ、入園入口から園内に入ったあたりからは遠景に鳴虫山が見えます。
現在見ることのできる逍遥園の姿は、大正時代の大改修を経た後の姿となります。
日光輪王寺・逍遥園の入園受付の場所(地図)
逍遥園は日光輪王寺の宝物館の隣に位置します。
輪王寺境内は2つあるので注意!
輪王寺の境内は以下の2つのエリアに分かれますのでご注意ください。
- 大猷院(たいゆういん)のあるエリア
- 輪王寺の本堂となる「三仏堂」を中心としたエリア
このうち逍遥園(宝物館)は「輪王寺本堂(三仏堂)前」に位置します。
逍遥園の場所(地図)
宝物館の受付に庭園が隠れていますので、初めて日光に来た方には分かりづらくなってい‥‥‥申す。ガフっ
勝道上人像前から入る!
逍遥園(宝物館)や三仏堂へ行くには世界遺産バスの「勝道上人像前バス停」前にそびえ立つ「勝道上人像」が立つ出入口や「輪王寺第1駐車場」から入れます。
表参道沿いの黒門から輪王寺内部へ入る!
もう1つの出入口は東照宮の境内入口の鳥居の前から前方にのびる表参道を約3分ほど歩き、その先にある輪王寺境内への入口となる黒門をくぐった右脇に位置します。
日光山輪王寺境内図
逍遥園の内部の建物など
- 御霊殿
- 聖蹟の間(せいせきのま)
- 紫雲閣
などの建物が池に沿うように立てられています。このうち紫雲閣は茶席ですが、東屋になります。
「聖蹟の間」は明治天皇が日光へ巡幸された際、御泊まりになられたということから「聖蹟」が建物の名前に付されています。
日光輪王寺・逍遥園の規模(広さ)
輪王寺・逍遥園の面積は3200平方メートルあります。
これを坪に置き換えると「約1000坪の広さ」となり、これは「テニスコート5面分の広さ」と相成ります。
日光輪王寺・逍遥園を作った人(作者)
日光輪王寺・逍遥園の作者は不明とされています。
しかし、上述したように庭園の作庭様式から、もと近江小室藩主・「小堀政一(こぼりまさかず)」の作であるとも考えられています。
小堀政一は隠居し後、茶人になり、名前を「遠州(えんしゅう)」と改めています。
一般的には「小堀遠州」の名前の方で知られています。
隠居した後は「将軍付茶道指南役」や「幕府の作事方(大工)」の取りまとめとして活躍しており、日光東照宮の再建にも深く携わっている人物です。
日光東照宮の境内を例に挙げると、手水舎が小堀遠州の作ではないか?と考えられています。
尚、小堀遠州はこの逍遥園だけではなく、日本の至る地域に庭園を築庭しています。
日光・輪王寺「逍遥園」の名称の由来
日光輪王寺・逍遥園の名前の由来は、”心の赴くまま散策する”の意味合いを持つ「逍遥(しょうよう)」が由来とされています。
逍遥は、宗教的な概念、すなわち「禅(ぜん)」に通ずるところがあります。
庭内の美は静寂を尊び、精神を落ち着け、人としての在り方を再認識できといった希にしかみることのできない空間です。
それとすでに冒頭でも述べましたが、「逍遥園」と命名したのは江戸後期の儒学者・「佐藤一斎(さとういっさい)」という人物です。
逍遥園の特徴や見どころ
この逍遥園は、1815年(文化12年/江戸時代)には大改修工事を行い、次いで明治時代にも改修工事を行っています。
したがって、時代を跨いだ庭園であり、その時代時代の流行りを用いた作風が取り入れられ、幾世紀分もの文化を凝縮した庭園とも言えます。
輪王寺へ参拝に訪れた際は、是非、この味わい深い「趣」を凝らした逍遥園をご堪能ください。
「池泉回遊式」の庭園
日光輪王寺・逍遥園は「池泉回遊式(ちせんかいゆうしきていえん)」といわれる作風で作庭されています。
「池泉回遊式」とは、名称から察しが付きますが、大きな池を造り、その中央に「小島」、その周囲に巨石や木々、白砂、滝などを配し、これらに橋を架けて回遊できるようにした庭園です。
小島の周囲に木々を植栽し、巨石を並べ、橋をかけるのは、いずれかの景観(景勝地)を模すためです。
尚、日光輪王寺・逍遥園は「日光連山」の有り様を借景して作庭されています。
このような作風を持つ庭園として、他に以下のような有名な施設が挙げられます。
- 「桂離宮庭園(京都市西京区桂(宮内省)」
- 「足立美術館庭園(島根県)」
- 「加賀(石川県金沢)の兼六園」
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「池泉回遊式」の作風が生まれた年代
「池泉回遊式」は、室町時代を代表する庭園の造り方で、禅宗の寺院や、大名の邸宅の庭園で採用され広く知れ渡りました。
すなわち、1336年(室町時代)から1573年頃(安土桃山時代)の間に流行した作庭様式だと伝えられています。
東西に長い池
逍遥園の池泉回遊式庭園は、東西に長細く造られています。
これには理由があり、輪王寺境内のおよそ、どの建物からでも庭園が見えるように設計されています。
「竜地(りゅうぢ)」様式の池を掘削し、池中央に中島(なかしま)を配し、これに橋を架橋しています。
東には竜組を用いて水を落し込み、西南に出水口(でみずぐち)を造成。
さらに池の東を細長く、西は広く創りこむことで、紫雲閣に座して庭園を観た時、最高の見栄えがする様式で庭園が整備されてい‥‥‥申す。ゴハっ
池泉を細くした理由
池泉を細く造成した理由は、北側からの鑑賞が最高の見栄えになるように設計したためです。
また、その池泉を回遊して観賞できるように一本道の園路も巡らされています。
模景
上述したように逍遥園の庭園は、以下のような日光連山を模して作庭されています。
- 南西部を「築山(つきやま)」
- 南方の「鳴虫山(なきむしやま)」
- 西方の「男体山(なんたいさん)」
- 北方の「女峰山(にょほうさん)」
- 北方の「赤薙山(あかなぎさん)」
紫雲閣
池の畔の西側には、「紫雲閣(しうんかく)」と呼称される茶室があります。
この茶室は一般の参拝者が入ることは叶いませんが、外観だけなら観ることができます。
紫雲閣では定期的にお茶会が催されています。
おそらくこの茶室から観る逍遥園はさぞかし絶景であることでしょう。
庭石
園内には見事な石組が配されていますが、置かれている石材はすべて日光付近の山石や、川石が用いられてい‥‥‥申す。ギャヘっ
五尺八寸の蓬莱石や、巨石など大きさ、種類ともに豊富ですが、このような様々な種類や大きさの石を使用した石組みは江戸初期の手法と伝えられてい‥‥‥(連発するとネタ切れなるしな….)‥‥まする。
以下は代表的な石コロころころドコいった‥‥‥です。
蓬莱石
これらの石の中には1.7メートルほどの見事な見栄えの巨石・「蓬莱石(ほうらいせき)」があります。
このような大きな石を配した逍遥園の作庭技法は、江戸時代の庭園造りの手法を象徴する代表的な作庭技法だとも云われております。
「蓬莱石(ほうらいせき)」とは?
蓬莱石とは約2千万年前の地層からしか採掘することができない、かなり貴重な石です。
近年の調査では、遠赤外線の放射量が豊富に含まれ、トルマリン原石の50倍ものマイナスイオンを放出することが明らかにされています。
現代では、蓬莱石が持つ様々な特性を医療分野や健康促進分野に取り入れています。
なまず石
ほとんどの人が見つけられれずに通りすぎてしまうようですが、逍遥園に入って左側の池の畔、ちょうど宝物館前の遊歩道の一角に「なまず石」と書かれた看板が立てられています。
しかし、この看板の周囲には特に何もなく、ただただ、看板のみが立てられているのみです。
そこで宝物館の館長さんにお聞きしたところ、なんとぉぅ!看板の下の小さな石コロが「なまず石」と呼ばれる石だそうです。
ギロッと目ん玉が飛び出るほど凝視して真上から見れば、「親子のナマズが2匹」泳いでいる姿に見えます。
これがこの石の名前に由来になっているそうですが・・この石、いつ頃ドコから持って来られたのか?などの由緒が一切、不明なんだそうです。
ただ、輪王寺の寺伝によれば小堀遠州が琵琶湖を模してこの庭園を作庭した際、池に琵琶湖のナマズを泳がそうと考えたそうです。しかし、流石に生きているナマズを琵琶湖からこの日光まで持ってくることは不可能だったようで、せめてもの思いからこのようなナマズに似た石コロを置いたと考えられています。
なまず石にはご利益があった?!
なまずは古来、地震を予知することから「災難除け」のご利益があるとされています。遠州がナマズを琵琶湖より持ち運んで来ようと考えたのも一重にこの庭園、しいては日光山全体の恒久の安寧を祈願したからかもしれません。
逍遥園の庭木の種類
逍遥園の庭園内には、以下のような種類の樹木が植樹されてい‥‥‥申す。グゲっ
イチイ、キャラ、カエデ、ツゲ、アカマツ、ヒバ、シャクナゲ、松、ドウダン、梅、ホンツゲ、ボタン、カリン、イチョウ、ツバキ….etc、そのほか約30種類。
紅葉(モミジ)の種類
イロハ、ノムラカエデ、ヤマモミジ
これらの木々が園内に入り混じる形で植えられてい‥‥‥まする。(フェイント)
関東サツキ
この逍遥園は「関東サツキ」の発祥の地でもありまする。
サツキの「晃山(こうざん)」「日光」「輪王鶴(りんのうづる)」などの原種はこの逍遥園が発祥の地とされてい‥‥‥申す。ゴギャっ …ネタ大丈夫かな
サツキ・ツツジが多く植栽されており、特にサツキ、大盃(おおさかづき)を主とした刈り込みは江戸中期の作風です。
「近江八景」を模して作庭された庭園
この逍遥園が近江八景を模景として作庭されたという話がありますが、これは満更ではなく、実際にこの庭園には8つの大きな特徴的な見どころがありまする。
- 四季の移り変わりの時々に従った諸方の山々
- 庭園の森の木立
- 庭園と湧く雲
- 庭園にたなびくように霞む霧の風情
- 庭園の紅葉たちが織り成す夕照り
- 何時来ても良き庭園
- 逍遥して時を過ごせる庭園
- 禅の寂の精神を体現できる庭園
以上を以ってこの庭園が「逍遥園」と名付けたられたのは言うまでもありんせん。
日光輪王寺・逍遥園の秋の紅葉とライトアップ
この逍遥園は、日光の秋を彩る紅葉の場所としても大変な人気があり、日光を代表する紅葉のスポットとなっています。
逍遥園の庭園には、主に以下のようなモミジが群生しています。
- イロハ
- 千染(ちしお)
- 瓜膚楓(うりはだかえで)
- 野村楓(のむらかえで)
- ヤマモミヂ
- 一行院(いちぎょういん)
- 出猩々(でしょうじょう)
尚、この逍遥園のモミジは日光連山に咲き乱れるモミジの、ほぼ全種類が寄せ集められているようです。
日光山・輪王寺「逍遥園」のライトアップの特徴
逍遥園のライトアップには特徴があり、逍遥園に生い茂る木々たちが彩りを見せる自然のイメージを損なわないようにライトアップの照度が調整されています。
例えば、庭園に棲む生物や木々の生態系を崩すことのないように、できるだけ自然光に近い無害のライトを用いてライトアップされています。
逍遥園のライトアップは、LEDライトを用いてさらに照度を少し暗く調整していますので、他の神社やお寺のライトアップに比べると少々、暗く感じるかも知れません。
しかし、絶妙なライトの照射加減に照らされた、夜のモミジたちが見せる姿は、まるで初めてのデートで彼のために着ていく洋服を選ぶ女子のようにキュート♥で美しく、時に儚げで幻想的な一面を見せてくれます。チュッ♥
日光山・輪王寺「逍遥園」の紅葉ライトアップの「日程・営業時間・拝観料金(入場料金)」
逍遥園のライトアップの日程や時間、拝観料金については下記ページにて詳しくご紹介しておりまする。
日光輪王寺・逍遥園の春の彩り
逍遥園は春になると、以下のような木々たちが彩りを添えます。
- シャクナゲ
- ツツジ
- サツキ
上述した紅葉を含め、この日光輪王寺・逍遥園では、四季を通して彩りが楽しめます。
日光山輪王寺・逍遥園のお問い合わせ先「営業時間・住所・定休日・電話番号など」
日光輪王寺・逍遥園の営業期間
- 4月~10月:8時から17時まで
- 11月~3月:8時から16時まで
定休日
- 不定休
日光輪王寺・逍遥園の入場料金
- 大人:270円
- 小中学生:100円
- 団体大人:270円
- 団体こども:90円
※最終入場時間:閉門30分前まで可能
※日光輪王寺・宝物館へ入場が必要となります。
住所
- 〒321-1494 栃木県日光市山内2300
電話番号
- 日光山輪王寺:0288-54-0531
日光輪王寺・逍遥園までのアクセス
- 日光駅(JR・東武)からバスで「西参道」下車
明治天皇が愛した日光山の景観
1876年(明治9年)には明治天皇が内閣府の木戸孝允(明治政府総裁局顧問)らを伴ない、日光で3泊されていますが、その折、この逍遥園へもお立ち寄りになられていまする。
この頃、神仏分離令が出され、廃仏毀釈の混乱の際でありながらも、明治天皇はこの逍遥園をご覧になり、「この景観(旧観)、失うことなかれ」というお言葉を残したといいます。
以降、数々の動乱がありながらも、この日光山は明治天皇のお働きにより、景観が守られてきたとも伝えられています。