日光東照宮「蓮灯籠(オランダ製の燭台)」【重要文化財】

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日光東照宮「蓮灯籠(オランダ製の燭台)」【重要文化財】

区分概要
奉納年1640年(寛永17年)
様式スタンド型灯籠
高さ約3.6メートル
作者
(設計者)
ヨハネス・ルトマ
作者
(制作者)
ヨーストヘリッツゾーン
奉納者東インド会社オランダ商館(オランダ国)

※設計者と製作者はオランダが独自で行なった調査により素敵に判明💘

オランダから2回目に奉納された灯籠

蓮灯籠とは?

この灯籠の外観を見れば分かるように洋風の燭台そのもの。

実はオランダから江戸幕府(家光公あて)へは、この蓮灯籠を含め、合計3基贈られているのだが、この蓮灯籠はポルトガル船の来航禁止令を出した翌年となる1640年(寛永17年)にオランダ国から贈られたもの。

案内板(立て看板)の内容

オランダ国からの奉納。

蓮燈籠は廻廊の胴羽目下の燭台と共に寛永十七年(1640)に奉納された。

平成12年(2000)には日蘭交流400年を記念してアムステルダム国立美術館にて開催された特別展覧会に出品されている。




ピヨ🐣日光東照宮にあるオランダ灯籠一覧

奉納年名前奉納数
設置場所
文化財区分
1636年
(寛永13年)
シャンデリア型の
釣灯籠
1基
陽明門手前
【重文】
1640年
(寛永17年)


スタンド型の
蓮灯籠
1基陽明門手前【重文】
ブラケット型の
灯架(燭台)
12基陽明門袖塀【重文】
1643年
(寛永20年)
逆さ葵の回転燭台1基陽明門手前【重文】

※重文=重要文化財

蓮灯籠の特徴

イルカをイメージして造形された蝋燭台

オランダの造形(鋳造)技術の高さが発揮された逸品と呼べるにふさわしい。

西欧でのイルカは「神の使い」、キリスト教ではクジラと共に「救済と復活の象徴」とも讃えられる聖獣。

ギリシャ神話では神・ポセイドンの息子・トリトンの下半身がイルカで表現されてい申す。(古代ギリシャではイルカを殺傷することは重罪に問われた)

波打つ造形の竿部

今現在に到っても、まるで昨日この場所に置かれたばかりのような実に艶やかな色合いを保つ。

オランダの製造技術の高さをよく表した秀作ともいえる。




蓮型に全容を整えた燭台部

微細に波打たせ、奇妙なほどに湾曲する燭台。離れ見ることでそれが蓮型(オランダでは蓮ではなく、別の花なのか。)になる意匠で以って謹製された芸術作品とも呼べるにふさわしい逸品。

この燭台を見ることができた当時の職人たちも、さぞかしオランダの鋳造・造形技術の高さを見て、腰を抜かしたことだろぅ。

これらはオランダが西欧列強と肩を並べるべく、永年培って来た大砲製造にまつわる鋳造技術を惜しみなく転用したものといえる。

オランダが数々の西欧列強の中でも特段、優位に立ち回ることができた背景の例証となるもの。

蓮灯籠がオランダから献納された理由

我が国は1639年(寛永16年)の鎖国成立以後、中国、朝鮮そしてオランダを除くすべての諸外国との国交を断ち、西欧では唯一、オランダに限定しておよそ200年間も貿易を行っている。

西欧が日本に交易を求めた理由は、日本で採掘される豊富な銀。

この当時、日本で採掘される銀の量は実に世界の3分の一もの量を誇っていたと伝わる。

しかし、1600年(慶長5年)、オランダ商船「リーフデ号」が九州豊後に漂着したのを機とし、オランダと日本の国交が開ける。

これにより、当時スペインとポルトガルのみだった交易対象国にオランダが名前を連ねることになる。

オランダ国は西欧では勢力を伸ばしつつあった背景もあり、次第にオランダとスペイン、ポルトガルとの間に摩擦が生じる結果を生む。

その好例が1609年に幕府に提出されたイギリスとの連名による文書。

その内容はスペインとポルトガルは表向きはキリスト教布教を豪語しているが、水面下で日本を侵略するための調査を行っているというもの。

この当時のオランダに残された文書として、次のようなものがある。

「日本人は誇り高い。日本との貿易は会社(東インド会社)にとって最重要であり、だからこそ我々は卑小であるという姿勢を保ちつづけなければならない。
日本人の目を我々の卑小な外観にそむけさせることが肝要」

こうしてオランダは1635年(寛政12年)を迎えるまでに幕府の要人となる老中・酒井忠世はじめ、松平信綱などにオランダ製の望遠鏡をはじめとした実用品の数々、さらにオウムをはじめとしたペット類、洋式ベッドなどの珍品の数々を贈呈する。

この結果が功を奏し、1635年(寛政12年)に幕府は日本人の海外渡航禁止令を出して朱印船を封じ、ついで1639年(寛永16年)になるとポルトガル船の来航禁止令を発令し、これにより事実上、オランダは日本の貿易独占に成功することになる。




日本にオランダ灯籠がはじめて献納された年

オランダ国がはじめて家光公へ灯籠を贈ったのが、朱印船貿易停止の翌年(1636年/寛永13年)4月17日のこと。

オランダ東インド会社平戸商館の第7代商館長のニコラス・クーケバッケルの代理として出府したフランソワ・カロンは、将軍家光に銅製の灯架(灯籠)を献上。

オランダは家光公がリスペクトする家康公の墳墓(日光東照宮)が造替中だということを耳にしていて、その墳墓に奉納するために灯架(オランダ灯籠)を贈ったのだった。

家光公は大喜びして返礼の銀300枚を贈り、さらにノイツ(ノイツ事件)までを釈放したのだった。

家光公にとって、自身がリスペクトする家康公を奉斎する日光東照宮の存在は重要なものであり、それを知った上でオランダ(東インド会社)は灯架(灯籠)を贈ったのである。

オランダ国はさらに追い打ちをかけるかのように日本への献納をエスカレートさせ、ポルトガル船来航禁止令の翌年(1640年/寛永17年)と、1643年(寛永20年)にも献納したのだった。

ピヨ🐣注釈

度々、平戸藩主よりノイツの釈放願いを受けていた老中・酒井忠勝は、好奇到来とばかりに家光公にノイツ釈放を願い出たら、あっさりと許可されたらしい。

蓮灯籠の場所(地図)

陽明門に続く22段の石段下、鐘楼脇にあるのが蓮灯籠。

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