最近、日光東照宮には「明智光秀の家紋がある」という噂が流れています。
その理由は日光東照宮の建物に桔梗の家紋ではないか!・・と、言う場所があるからです。
その場所とは、以下の2つの場所となります。
陽明門の門衛の袴の紋(裾に桔梗の紋らしきものが見える)
鐘楼の壁やひさしの紋(ひさしを支える柱などで確認できる)
しかし、この2つよく見ると、実は明智光秀の「桔梗の家紋ではない」そうです。
明智光秀の桔梗紋ではない理由
以下、二つの理由が、釣り針クチビル引っかかって取れへんけど半笑ぃ 素敵‥級に挙げられ〜る。
「1」の家紋は織田家の家紋の木瓜紋。
「2」の家紋は、花弁を見るとわかるそうですが、家紋ではないという見方があり装飾用に使われる唐花紋という紋ということだそうです。
南光坊天海の正体と明智光秀と同一人物説の謎についての解明
天海は、以心崇伝と同じく、別名・徳川家康公の懐刀・「黒衣の宰相(こくえのさいしょう)」と後世まで言われ、その名を残しています。
ここで言う黒衣とは、僧侶が着る装束の黒色のことを意味しています。
そして、天海は徳川幕府の礎を作る上で大きく貢献した人物でもあります。
徳川幕府の構想は、実は光秀が描いていた?
そもそも徳川幕府の構想は、光秀が描いた構想であったといいます。
つまり、家康が光秀の構想をそのまま真似ただけ・・と言う説が現在も残っています。
その理由とは、織田家の勢力がまだ、岐阜止まりであった頃、光秀と初めて顔合わせした家康は、光秀の人間的な器の大きさに興味を抱き、大変、大きな感銘を受けたといいます。
この後、その対面をキッカケとして、家康は次第に光秀の思想や人物像に惹かれ始め、光秀と懇意を計り距離をより縮めたと言います。
そして実は、驚くことに、家康よりも光秀の方が、家康の未来を先見の明で見定めていたと言います。
つまり、当時では織田家の傘下で家臣同然の身分であった家康を、次の時代を創造する人物になると見抜いていたと言うことです。
そして、光秀は誰にも明かさなかった「ある事」を家康にだけ、打ち明けたと言います。
その「ある事」とは、天下が100年続く幕府の構想を、家康にだけ、すべて打ち明けて話したと言います。
言い換えるとこれは「託した」とも受け取れることになります。
この後の1582年6月2日未明、13000もの精鋭を引き連れた光秀は、京都・本能寺へ向かい、静かに歩みを進めることになります。
そしてこれらのことから、光秀が実は変事の後も生きていて、身分を偽るために僧侶としての、新たな生を得て「南光坊天海」と名前を変えていても、何ら不思議なことではないと言うことです。
南光坊天海の正体と明智平
この「南光坊天海(なんこうぼう てんかい)」と言う人物は、日光東照宮の造営に関しての総責任者と言う位置づけで後世に名前を残しています。
南光坊天海の出身に関してですが、実は不明な点が多数あるそうです。
当時の人間の寿命では大変珍しく、108歳まで生きたと言われています。
さらに、陰陽術を操ることから、妖魔の化身とも密かに言われ、天海についての色んな噂が、当時の江戸では流れたそうです。
しかしながら、天海が、いつ、どこで生まれたのかなどの、正確な出生が分かっていません。
そんな人物でありながら、家康公は南光坊天海に後事を託したそうです。
秀忠公や家光公に仕え、江戸や陰陽道の結界配置に、重要な役割を果たしたと言われています。
そして、この南光坊天海の菩提が日光連山にあり、その名前がなんと!「明智平(あけちだいら)」と言うそうです。
ここまでで察するに、南光坊天海が明智光秀なのでは?・・と考えても何ら不思議はないと言うことです。
徳川家と明智家の意外な深い縁
徳川家光の乳母は「春日局(かすがのつぼね)」です。
そして、春日局の出身は明智家と同じ岐阜(美濃)です。
この春日局の父親は、明智光秀の家老格の「斉藤利三(さいとう としみつ)」であるため、徳川家と明智家との間に「深いつながりがあった」のではと噂されています。
ここから察するに、家康がいっかいの名もない僧侶であった天海を、自らの参謀としてまで重用したのは、天海が明智光秀当人であったからなのではと噂されています。
明智光秀は本能寺の変の後、豊臣秀吉によって討たれたことになっています。
はたして、これは単なる噂なのでしょうか。
謎は深まります。