日光二荒山神社・神輿舎【重要文化財】
創建年
- 1617年(元和3年/江戸時代初頭)
再建年
- 1638年(寛永15年)から1641年(寛永18年)
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 背面下屋附属
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行三間(奥行:約6m)
- 梁間二間(横幅:約4m)
重要文化財登録指定年月日
- 1973年(昭和48年)6月2日
二荒山神社・神輿舎の読み方
二荒山神社の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の御祭神や社殿がありますが、「神輿舎」は「しんよしゃ」と読みます。
二荒山神社・神輿舎の歴史・由来
神輿舎は日光東照宮の境内にもありますが、二荒山神社の神輿舎は日光山においては最古の建造物と云われており、かなり貴重な建造物となります。
前身は東照宮の仮殿拝殿(護摩堂)として創建され、時代を経る過程で現在の「神輿舎」となっています。
その後、1638年(寛永15年)から1641年(寛永18年)の間に現在の場所に移築されています。
二荒山神社・神輿舎の建築様式(造り)
一目見て分かる通り、神輿舎は日光山にある建造物としては、質素な素木造りの殿舎ですが、垂木の金の飾りが特に目を惹きます。
殿舎は全体的に塗装が施されておらず、伐採した樹木をそのまま材木として使用された素木造りで造営されています。このような素木造りの社殿は古式であり、古神道を重んじる社殿は素木造りで造営されます。その代表例が伊勢神宮や出雲大社です。
組物は特になく簡素な船肘木が正面の軒下に見えます。船肘木はあまり人が滞在しない倉庫などに使用される例が多く、この殿舎が名前のとおり、神輿を収納しておく建物であることが理解できます。
垂木の木間は日光山内では見る機会が少ない「疎ら割り(まばらわり)」で組まれています。
縁は正面左右の壁面まで配されており、背面は庇(ひさし)が据えられて下屋状態になっています。
二荒山神社・神輿舎の見どころ
運試しの輪投げ
神輿舎の正面右側側面の縁の上には「運試しの輪投げ」呼称される一種の占いがあります。
縁から約1mほど離れた場所に柵が設置されており、その柵の向こう側に立って輪を投じてその日の運勢を占うと言ったものです。
運試しの輪投げのやり方
- 上述した通り、縁の上に置かれている「輪っか」を取り、1メートル先に設置してある木柵の後ろに立ちます。
- 手前に見える5つある棒のどれかに狙いを定めて、「それぇっ!」などという薄汚い掛け声を発しながら輪っかを投げます。
- 3回投げて1回でも棒に輪っかが引っかかればその日の運気は良好なんだそうです。
神輿
神輿舎の内部には、二荒山神社の本社・滝尾社・本宮の御祭神をお乗せして担ぐための神輿が3基、安置されています。
これら3基の神輿は例祭の時に担がれて、境内を巡幸しながら拝殿へ移され儀式が執り行われます。
3基の神輿は向かって正面右から「滝尾社」、二荒山神社の「御本社」、「本宮」の神輿が並んで安置されています。
尚、神輿舎は「蔀度(しとみど)」が開放されており、外から3基の神輿を見学することができます。
なお、2019年に入り、蔀戸(しとみど)が老朽化のため開閉できなくなり、修理するとのことです。今回の修理ではアクリル板が取り付けられて、社殿内部の3基の神輿の姿が誰でも見れるとのことです。
春の例大祭「日光弥生祭」
二荒山神社の神輿舎の最大の見どころとなり、最大の活躍の場となるのが「日光弥生祭・神輿飾祭」になります。
この祭典は例年4月13日から4月17日に催され、奈良時代から継承されている歴史的な由緒ある祭典です。
開催期間はわずか4日ほどですが、その中でも最大の見せ場となるのが最終日(4月17日)に執り行われる「例大祭」です。
祭りの熱い熱気に絆されて(ほだされて)喧嘩にまで発展しかねることから通称・「ごた祭」の名前でも有名です。
もっともな見どころとなるのは「名刺交換の儀式」と「花家体(はなやたい)」と呼称される大型の神輿が巡幸する儀式です。
尚、この祭典は二荒山神社だけではなく、日光の春の祭典として日本全国的に有名な祭典です。
日光二荒山神社・神輿舎の場所(地図)
二荒山神社・神輿舎は神苑の受付を入った正面に位置します。真後ろには大国殿があります。