日光二荒山神社・本殿・拝殿【重要文化財】
本殿
創建年
- 不明
- 767年(神護景雲元年)
再建年
- 1619年(元和5年/江戸時代前期)
- 1645年(正保2年/江戸時代前期)
建築様式(造り)
- 八棟造り(本殿)
- 正面千鳥破風付
- 軒唐破風付
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行五間(約10m)
- 梁間五間(約10m)
- 向拝部三間(約6m)
御祭神
- 二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)
重要文化財指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
拝殿
創建年
- 不明
- 1619年
再建年
- 1645年(正保2年/江戸時代前期)
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 一重
屋根の造り
- 銅瓦葺
大きさ
- 桁行五間(奥行:約10m)
- 梁間四間(横幅:約8m)
重要文化財指定年月日
- 1908年(明治41年)8月1日
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の読み方
日光二荒山神社・本殿は、そのまま「ほんでん」と読み、拝殿は「はいでん」と読みます。
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の歴史・由来
二荒山神社や御本社の草創された時期は現代に至っても定かではありません。
767年に勝道上人(しょうどうしょうにん)が、今の本宮神社に男体山(なんたいさん)の神を祀る祠(ほこら)を立てたのが「日光三社」の始まりと伝わっています。
「男体山」とは、中禅寺湖の北にそびえ立つ、標高2486mの火山のことで、古くから山神が宿る神聖な御山として篤い崇敬が寄せられています。
確かな年数は判明していませんが、平安期には空海(弘法大師)や円仁(慈覚大師)がこの二荒山神社へ訪れ、滝尾神社や二荒山神社本社を改修したという伝承もあります。
現在の本殿は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の発願により1619年(元和5年)に造営されています。
檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキの屋根)を銅瓦葺(銅製の瓦)に変えたり、色を塗り直したり、わずかに移動したりはしたものの、大規模な修理や改築をせずに現在に至っている貴重な建物です。
拝殿も1619年に建てられ、本殿を移築した後の1645年頃に再建されており、これが現在見ることのできる拝殿の姿となります。
「本殿」の建築様式(造り)
「八棟造り」の「八棟」とは「8つの棟がある」という意味ではなく、「棟」が多く屋根の形が複雑だという意味合いになります。
真上から八棟造りの殿舎の屋根を見ると屋根の頂上の横木(棟)が「工の字型」になっていることが伺えます。
ちなみに同じ八棟造りの社殿として有名なのが京都北区の「北野天満宮」です。
八棟造りは現在の日光東照宮で見ることのできる「権現造りの原型」とも云われています。
↑北野天満宮を真上から見た図。屋根の棟が工の字型になっている。
八棟造りの特徴としては、本殿は左右に妻側が向けられた「入母屋造り」で、正面の屋根には三角の「千鳥破風」、その軒下には緩やかな曲線の「唐破風」が据えられており、複雑さがありながら、実に完美とも言える造りになっています。
↑本殿(奥)の殿舎は入母屋造り。正面の屋根は千鳥破風。千鳥破風の下には唐破風が見える。
軒下の組物は極彩色で彩られ、彫刻も施されています。
屋根には、千木や置き千木もなく坊主状態の造りになっています。
足元部分の腰組(こしぐみ)からは縁を回し、縁には主柱に擬宝珠が付いた高欄(こうらん)が据えられています。
本殿と拝殿の間には切妻造りの小屋のような建造物「渡殿」が設けられおり、渡廊の役割を担い、本殿・拝殿を連絡しています。
「拝殿」の建築様式(造り)
拝殿は本殿のような豪華な屋根ではな入母屋造りの屋根となっており、妻側の軒下の懸魚(けぎょ)の朱色と黒色のコントラストが映えます。
拝殿は丹塗りの朱色を貴重とした色彩など、殿舎の造りが総体的に輪王寺の堂舎の造りと類似していることに気づきます。
正面の「桟唐戸(さんからと)の扉」も輪王寺の堂舎に見ることのできる造りあり、これらは現代においても神仏習合が成っている日光山特有の独特の風合いを醸し出した(かもしだした)造りとも言えます。
尚、この拝殿は参拝者も自由に立ち入ることができ、祈祷も執り行うことができます。
祈祷の申し込みは、拝殿の向かって右脇に位置する「祈祷受付所」で申し込むことができます。
このように本殿は拝殿と併せて「御本社(ごほんしゃ)」と呼称され、滝尾神社、本宮神社と共に「日光三社」とも呼称されています。
また日光二荒山神社の拝殿は寺院で言う所の外陣や礼堂(らいどう)に相当し、靴を脱いで昇殿してお祈りすることができます。
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の御祭神「二荒山大神」
二荒山神社のご祭神は、二荒山大神(ふたらやまのおおかみ)と総称される親子の3神です。
この3神は、それぞれ日光連山を形成する「男体山」・「女峰山」・「太郎山」に宿る神とされ、これらの山々は古くから信仰の対象となってきました。
ちなみにこの3つ山は親子の山とも云われ、「男体山が父親」・「女峰山が母親」・「太郎山が子供」として古来から信仰があります。
また、時代を経る過程で「神様は”如来”や”菩薩”が、人々を救うために姿を変えて現れたもの=権化(ごんげ)」だとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という思想が生まれています。
つまり、神様の本当の姿である「如来や菩薩」が「本地仏」として上記の3つの山にそれぞれ「千手観音(父親)」「阿弥陀如来(母親)」「馬頭観音(子供)」があてられています。
ちなみに、この日光二荒山神社の付近に位置する日光山輪王寺には、これらの仏(如来・菩薩)が祀られています。
但し、現代においての上記の3神は、「大己貴命(おおなむちのみこと)」、「田心姫命(たごりひめのみこと)」、「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」に置き換えられています。
御祭神が置き換えられた理由としては、明治時代初頭に発令された明治政府による施策である「神仏分離令」に基づくものだと考えられます。
そしてなんと!実は上記の3神ともに親子の間柄であり、大己貴命の嫁は田心姫命であり、その子神が味耜高彦根命になります。
すなわち、これら3神を上記にならった例で示すと「大己貴命が父親」「田心姫命が母親」「味耜高彦根命が子供」と言う形になります。
このように日光山は、勝道上人が開創した奈良時代から既に神道と仏教が混同した神仏習合の場所であり、神仏が分離された明治時代を経ても尚、至るところにその名残が残っています。
日光二荒山神社・本殿(拝殿)の場所(地図)
日光二荒山神社・本殿は神苑の入口を向かい見て右脇に位置します。
終わりに・・
本殿からもっとも近い参拝場所
一般的に本殿からもっとも近い参拝場所は「拝殿」だとされていますが、一般参拝者を例にとれば、実際のところもっとも近い場所となるのは「拝殿と本殿の間」です。
この日光二荒山神社には幸いにも拝殿の裏側へ回り込むこと可能であり、その場所となるのがちょうどこの化け灯籠の奥になります。
実際に化け灯籠の奥に行けば「本殿にもっとも近い場所です」と書かれた案内が出ています。
本殿に近い場所で参拝してみたい場合は、この化け灯籠の見学と併せて神苑へ立ち寄ってみてください。