日光・深沙王堂(蛇王権現堂)
- 創建年:不明(通説では奈良時代)
- 再建年:1978年(昭和53年)
- ご利益:商売繁盛
深沙王堂の読み方
深沙王は「しんじゃおう」と読みます。
「深沙王」とは?
深沙王とは、西遊記でお馴染みのキャラクター「三蔵法師」が砂漠で行き倒れそうになったとき、三蔵法師の目の前に現れて助けたのが深沙王と伝えられています。
深沙王にはインドで誕生した神様ですが、モチーフとされた神が複数、存在するため起源は不詳とされていますが、現在までの通説では以下の神の化身だと考えられています。
- 多聞天
- 観音菩薩
- 伎芸天(ぎげいてん)
- 毘沙門天
..etc
深沙王の見た目はエゲつない
深沙王は、見た目はとても神仏と思えない外見をしていることから、一見すると悪魔と見間違われるほどです。
髪を逆立て、首にはドクロの瓔珞(ようらく/ネックレス)を付けて、左腕には蛇を巻きつけています。
さらに半身が裸体姿で腹には童子の頭、膝には象の頭が飛び出しています。
まさに異形の姿をしています。
しかし、列記とした仏法を守護する神仏であり、その証拠に天衣を上半身に巻きつけています。
深沙王堂の歴史
この場所に深沙王堂が建てられたのには以下のような理由やエピソードがあるからです。
767年(神護景雲元年/奈良時代)、勝道上人(しょうどうしょうにん)という僧侶が、弟子の僧数人を引き連れて、現在の神橋がかかる河岸まで来たそうです。
当時は橋などなく、現在見られるよりももっと流れの速い大谷川が流れていたのです。
そんな大谷川を前にした勝道上人一行は、川の前で立ち止まってしまい、大変、困った事態に陥りました。
そんなとき、大谷川の対岸に鬼の形相をした悪魔が急に現れて上人にこう告げました。
「我は深沙大将(深沙王)である。上人よ、我を祀るのなら川向こうに渡してやろう」
そしてその悪魔は両手から赤と青の蛇を召喚し、一行の目の前まで放ちました。2匹の蛇はお互いを巻きつけ合い、やがて頑強な橋ができあがったのです。
しかし、一行がいざ橋を渡ろうしたとき困った問題が起こりました。蛇の身体がウロコで覆われていたので、滑って歩けなかったのです。
そんなとき急に蛇のウロコが山菅(やますげ)という葉っぱに変化し、一行は何不自由なく向こう岸に渡ることができました。
上人と一行はお礼を一言言おうと川向こうを振り返ると、もうそこには深沙大将の姿はありませんでした。
上人と一行は深沙大将の行いに深く感謝し、この河岸に祠を築いて祀ることにしたのです。
この祠こそが現在の深沙王堂であり、すなわちこれが深沙王堂の起源ということになります。
伝記「山菅の蛇橋」より
その後、有史上では、1966年(昭和41)年9月25日の台風26号の影響による豪雨や土砂崩れにより、この深沙王堂は流されてしまいますが、1978年(昭和53年)に再建されており、これが現在の社殿の姿です。
深沙王堂の見どころ
「深沙王」と書かれた扁額
石階段を上がって社殿の真ん前まで来ると「深沙王」と金文字で書かれた扁額が視界に入ります。
太郎杉【とちぎ名木100選】
- 樹齢:約550年
- 樹高:約43m
- 目通り周囲:5.75m
神橋近くの老杉群の中で、この木がもっとも大きく猛々しい豪壮感があったことから「太郎杉」と命名されています。
「太郎杉」と付された理由は、古来、「長男」を例として一番大きいものには「太郎」と名付ける傾向があるからです。
例えば、鐘楼(梵鐘)なども地域でもっともよい音色を響かせ、大きければ「太郎」が付されます。代表例で言えば
東大寺梵鐘が「奈良太郎」。高野山壇上伽藍の梵鐘が「高野太郎」と名付けられています。
この太郎杉の目の前には日光における幹線道路というべき「ロマンチック街道(国道120合線)」が通っています。
昭和30年頃、まだ120号線になる前の本道が「日光沼田線」として二級国道に指定されると道路幅が拡大されることになり、その際、この太郎杉の伐採が検討されます。
しかし、裁判の末、伐採しないという結論に至り、現在に至ります。
深沙王堂の場所(地図)
深沙王堂は、神橋交差点の突き当たりにあります。階段の上にあるので見づらいのですが、上記、太郎杉が目印です。
神橋を渡ってたもとまで来れば、正面に太郎杉とその奥に深沙王堂と石鳥居が見えます。